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私はふと、自分が今何も無い、ただ真っ暗な空間にいることに気がついた。 そこにおいて、私はひどく不明瞭だった。 自分の手を見ればそれは霞み、稜線を曖昧にしている。 そして、私は自分がどんな顔をしていたのかも、忘れていた。 愕然として、辺りを見まわす。 ここは、私のいるべき所なのか? 今までいたところの方が、私にとって場違いだったのだろうか。 しばらく茫然としていると、私の視界の中に、一人の男が現れた。 しかし彼も、その姿ははっきりとせず、容姿までは見て取れない。 「ようこそ、『コミュニタス』へ」 彼は、暗鬱な声でそう言った。 けれども彼は、笑っている。 「貴方は誰?」 「私? 私は君の仲間だよ。私達は、平等の内にいる」 「よく、分からない。……もとにいた所へ戻して。出口はどこ?」 「あそこさ。あのそびえたつ壁の向こうから君はやってきて、そして反対側の壁の向こうに出口がある」 男の指した方を見れば、確かにそこには壁があった。 ここはどうやら、二枚の壁に挟まれた空間のようだ。 見上げるほどの高い壁で、向こう側へ行く手段はないように思われた。 それでも私は、出口があるという壁に向かって駆け出した。 「……どうやって越えるの?」 私は壁のすぐ手前まで来て呟いた。 すると、壁の向こうから、人の顔がにゅっと現れた。 「ねえ、私をここから出して」 その人は厳めしい顔をして、頭を横に振った。 「駄目だ。お前は無所有、従順の存在だ」 「無所有、従順……?」 確かに今、私は何も持っていない。けれど、従順とは? 「ねえ、どうすれば出られるの?」 「駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ……」 その人は、その言葉を永遠に繰り返した。 私は怖くなってその場を離れた。 「出られなかったのかい?」 「うん、駄目だった」 私は男の元に戻って、言った。 「なんで私はここにいるの?」 「君は、分離されたからさ。いや君の場合、自ら分離したと言う方が正しいだろう」 「分離? 分離すると、ここへ来るの?」 「そう、再統合されるまでの間、この境界で過ごすことになる」 「……貴方も、そうやってここへ来たの?」 「そう、私は狂気の存在だからね。自然と、分離されてしまった。私は何も悪いことはしていないのに」 「私だって、してない」 私は何だか悲しくなってそう言った。 「そう、悪くない。そしてこの境界だって悪くは無い所さ。『コミニュタス』があるからね」 「『コミュニタス』って何?」 「地位も役割も構造も無い、相対的平等の集団さ」 男が手を差し伸べれば、その背後に多くの人達がいるのが分かる。 でも、その一人一人の顔は分からなかった。 ……壁の向こう側の人の顔は、あんなにはっきりと見えたのに。 きっと私も今、顔を失っていることだろう。 「私達は言わば、隔離された人間さ。私達は、自己中心的と疎まれ、社会に不適合だと罵られる」 「そんなのは、嫌……」 「なぜだい? だいたい可笑しいじゃないか。人は社会に適合するためにどれだけのものを我慢しているというんだい? 学校に行けばそこで適応させられ、社会に出れば社会に適応しなければならない。彼らは我を捨てているんだ」 「……そうかもしれない」 「だけど私達は違う。私達は、我に生きている。私たちこそ、人間らしい人間じゃないか。私達は人間の根源的価値を持っているんだよ」 「それでも、隔離されてしまうの?」 「その通りだ。でもあいつらもいつかは、自分の足元を見ざるを得ない。その時こそ、我々が自分たちのうつし鏡であることに気づき、我々を積極的に受け止めるのだ」 「なら、いつかは理解してもらえるのね?」 「そう、我々は既存の社会秩序が壊された時、価値を得ることが出来る」 「……じゃあ、それまで待ってる」 私が安心しかけてそう言えば、男は突然、怒気を露わにして怒鳴りかかってきた。 「それじゃ駄目だ!」 私はその恐ろしさに、一歩あとずさる。 「我々は主張しなくてはならない! 我々の存在の素晴らしさ、その正しさを! そのためにも人垣を作り、壁を登り、あの人間を引きずり降ろして殺してやる!」 「そんなことまで、しなくても」 私はもう一歩下がった。 男はまだ興奮したまま、怒鳴りつけてくる。 「いや、我々には理想がある! 皆が平等となる、平等な国を造るのだ!」 私は、男の言っていることに矛盾点を見つけた。 国を造れば、その国を支えるまとめ役が必要だ。 まとめ役となった人物は、役割を持った時点で皆と平等ではない。 「さあ、君もその国の礎になりたまえ、さあ!」 「いや!」 私は、男の差し出してくる手を力いっぱいに叩き払った。 そうして、表情を変えた男を見る。 男は何とも、寂しいというような、苦しいというような、複雑な表情をしていた。 「……では君もここには、いることが出来ない」 「え……?」 「立ち去れ。君のいるべきところは、ここじゃない」 「……私」 戸惑っていると、次第に男の瞳に不穏な色が現れ始めた。 「皆、こいつを追え! こいつを排除するのだ!」 「いや、やめてー!」 私はそして、目を覚ました。 頭が重い、体全体が倦怠感に包まれている。 昨日は、日曜日だった。今日は学校の日である。 でも私はいつしか、学校に行かなくなっていた。 学生であるべきなのに、その身分や立場を捨てて怠惰な生き方をしている。私も、『コミュニタス』の男の仲間になりたかったのだろうか。それとも…… このままではいけないのは、分かっている。けれども、一度はまってしまった境界からは、なかなか抜け出せない。このまま、社会から分離されるのは、怖い。けれども、『コミュニタス』の男の思想は、もっと怖かった。 そんな中途半端な状態で、何がしたいというのだろう。私は決して自由の身ではない。 私はぶるっと身震いすると、恐る恐るベッドから抜け出た。 もう一度、頑張ってみよう。 そうして私は、あの壁を乗り越えるため再び制服に、手を通した。 |