後日談



「なんだよ、気持ちわりいな〜。あの子に一目ぼれか?」
 思わず笑みが漏れていたらしい。
 この大学に編入してすぐに友達になった男が、いやらしい笑みを浮かべて尋ねてくる。
「まあね。つーか、運命の人?」
「……はあ? 頭おかしくなったか?」
「いや、大マジ」
 そう言って、笑った。
 その名を呼ばれることによって解かれた最後の術。
 サナが自分との呪縛を解き放つと同時に、意地悪でかけたとしか思えない最後の呪術だ。
「……いや、駄目だ。我慢できん。……わりいけど、俺行くわ」
「……は? 行くって、どこに!?」
「葵のとこ〜」
 俺は、友人たちにそう言い残して、駆け出した。




 桜の花はとうの昔に散ってしまって、今は瑞々しい黄緑色の葉を茂らせている。
 編入したての頃、新入生歓迎会の花見で酒を浴びるように飲んで、バカ騒ぎしたことが懐かしく思える。
 俺の突然の奇行に、あいつらは驚いていたことだろう。
 まあ、俺にとっても青天の霹靂というか。
 まさしく雷でも落ちたかのような衝撃を感じた。そして今はもう、葵に会いたくて会いたくてしょうがないのだから、我ながら適応能力が高いというか。
 大学を出て、神崎葵の住むアパートまで、足早に歩いた。
 つーか、瞬時に移動できたあの頃が懐かしいな。
 いやほんと、懐かしい。
 あの時。
 葵が自分の目の前に飛び出してきて、サナの力を全身で受け止めた時、何かが起こった。あれは、サナが意識的に起こしたものか、それとも葵のせいなのか。
 とにかく、俺にとっては、全くのイレギュラーな出来事だった。
 サナはああなることを、予測していたのだろうか。
 ともかくも、あれで、色んなものがごちゃまぜになった結果、自体は突然収束してしまった。
 サナは消え、それを引き受けた指輪も砕かれ、何もかも無かったことになってしまったんだ。
 そして、俺はというと。
 なんと、自分の家のベッドに、横たわっていたのである。
 自分の家、というのに、違和感は全く無かった。
 自分、つまり、高野裕樹の家の、部屋の中で。高野裕樹が送ってきた日常の中に、突然引き戻された。
 高野裕樹は、十代半ばで、失踪……、……しなかった。
 普通に地元の高校、大学へと進学し、その卒業間際。就職は決まっていなかったから、そのまま行けばフリーターになっていただろう。
 今考えてみても、何がなにやら。
 でも普通に、そんな人生を歩んできた自分の人格と記憶、そして周りの人間関係や環境すべてがしっくりと符号した。
 そして高野裕樹は考えた。
 他の大学に編入しようと。何だかこのままフリーターになるのは間違っているような気がしたし、ここにきて自分が出た学部とは違ったことを勉強したくなっていた。
 自然と、移るべき大学は自分の心の中で決まっていた。今考えるとやっぱり、俺の閉ざされた記憶が影響していたんだと思う。
 自分で言うのもなんだけど元々頭は悪くなかったし、現在こうして無事にこの大学に三年次編入し、そしてついに念願の、葵と出会った。
 そう、これは念願なんだ。
 無意識の念願。……つーか、俺って相変わらず執念深いんだなあ、としみじみ感じるよ。サナと時といい、今回といい。
 ま、結果よければ全て良しなんだけど、もうちょっとくらいあの力が残っていればどれだけラクかと。惜しむのはそのくらいか。
 葵のアパートの前に、カゴのひしゃげた自転車を見つけた。
 初めて葵と会ったときのことを思い出す。
 衝突するのを避けて、自ら倒れた葵。大した子だなあ、と、実は感心した。
 俺は自然に浮かび上がってくる笑みをそのままに、葵の部屋のインターホンを押した。
 葵の驚く顔を、早く見たかった。




 自分の前にいる人を、私は、間抜けにも呆然と見上げた。
 口をぽかんと開けたまま、何も考えることが出来なくなったのだ。
 分かるのは、彼が、先ほど出会った人で、そして。
 忘れることが出来ない、あの人に激似だってこと。
 どうしてその彼が、私の部屋を訪ねてくるのだろう。あの後、私の後をつけたのだろうか。それにしても、何故?
 私が何の言葉も口に出来ないでいると、彼は、にっこりと微笑んだ。
「……葵、久しぶり」
 ドキリとした。
 ……名前を呼ばれた。彼と、……セツと、同じ顔と声で。
「な、なんで、私の……」
 名前、とつなげようとした時、突然その彼が覆い被さってきた。
 倒れ込んできたのかと思って慌てて支えようとして、違うことに気がついた。彼は、私を抱きしめてきたのである。
 もう、こうなると、頭の中は真っ白で目の前に映った綺麗なシャツの模様を、ぼうっと眺めることしか出来ない。
「葵、また会えて、良かった」
 かすれるような声で、言われる。
 ぎゅ〜っと強く抱きしめられて、そして、私の頭の中の記憶が一気に溢れ出した。
 彼の匂いや、体温、鼓動、全てが。
 記憶と一緒に涙も溢れ出して、私はそれを押し留めようとするかのように、彼の身体にしがみついた。
「……セ、セツ……?」
 嗚咽のせいで、上手く喋れない。
 喉が上下して、う、う、という声が漏れてしまった。
「ホント、に、セツ? なの?」
「うん。……ホントに、俺。今は、高野裕樹だけど」
「……信じられない。……どうしようぅ」
 何て言ったらいいのか分からなくて、間抜けな言葉の後はもう、泣きじゃくるしかなかった。
 大声を上げてわあわあ泣いた。
 ……セツは、黙ったまま、ずっと私の身体を抱きしめていた。




 葵が大泣きしているのを、抱きしめたまま、俺は色んなことを考えていた。
 あれから、一年ほどの間。
 俺が忽然と消えてしまってから、どんな思いで過ごしてきたのだろう。それを思うと、こんなに大泣きしている葵がかわいそうに思えて、俺の目にもじわりと涙が浮かんできた。
 俺の場合は、記憶を失っていたのもあって、辛い思いはしなかったのだけど。
 何だか、本当に、申し訳ない気持ちになってきた。
 葵と決別した時も、本当に、辛い思いをさせてしまったから。
「ごめんな、すぐに会いに来れなくて」
 葵が落ち着いたのを見計らって、俺はそんなふうに謝罪した。
 俺の胸にしがみついた葵は、顔を上げずに、何度も頷いていた。
 ……髪が伸びた。
 前は肩につくくらいだったのに、今は背中の方にまで垂れている。
 ……て、のん気にそんなこと考えている場合ではない。
 俺は葵の頭を撫でながら、顔をあげさせようと頬に手を当てたが、何故か葵は嫌がって体を離してしまった。
 両手で顔をしきりに拭っている。
 鼻の下に指を当てて、すすり上げている。
「……とにかく、上がって? 訊きたいこと、いっぱいあるから」
 葵はそんなふうに言うと、無理やり笑顔を見せて、洗面所に駆け込んでしまった。ばしゃばしゃと水の音が聞こえ出す。
 顔を洗っているのだろう。
 俺はもうすっかり慣れ親しんでいた葵の部屋に、遠慮なく、あがらせてもらった。
 すごく久しぶりのような気もするし、そうではない気もする。
 けれど、部屋の物や配置が微妙に変わっているから、一年という時間がしっかりと流れていたのだ。
 テーブルの前に据えられた座椅子に座り込んで、無意識にテレビをつける。
 もう、本当に無意識にしてしまうのだ。
 自分も今ここの近くにアパートを借りているが、帰るとまずテレビをつけるクセがある。
 台所の方で、洗面所から出てきた葵が、やかんを火にかけていた。
 そういう動作が本当に懐かしくなって、俺は座っていられずに立ち上がる。
 台所に立つ葵を、後ろから抱きしめた。
「……セ、セツ、危ないから」
 俺の体重に身体をよろめかせながら、葵は戸惑い、そう言った。
 前は、こんなこと、出来なかった。
 なんでだろう。やっぱり、照れがあったのかもしれない。
 ああいう状況で葵と出会って、サナを捜すのに協力してもらって。後ろめたさもあったし。そもそも、男女がどういう態度で一緒に過ごすものなのか、イマイチ分かっていなかった気がする。
 ……けれど、これは幸いにして、今は全然、分かっている。
 何せ上手い具合に用意された高野裕樹君は、その人生の中でモテまくり。
 今までだって色んな彼女と付き合ってきているのだ。
 いや、それが本当に付き合ってきたものなのか、そういう記憶があるだけなのか、その辺は曖昧だけれども。
 でも、記憶が残っているなら経験したも同然である。
 ちなみに葵と出会って、セツとしての記憶を失っていた一年間は、彼女がいなかったので浮気にはならないだろう。
 と、葵の身体を抱きしめながら、そんなことを考えていたら、葵は心底困ったような顔をしていた。
 心なしか顔が上気している。
「……セツ、何だか、変わったような気がする」
「え? そう? ……ごめん、いやだった?」
 葵が戸惑うのも無理はない。
 実際俺だって、色んな記憶がごちゃまぜになっているのを、何とか納得させている状態なのだから。
「ううん。……嫌じゃないけど、何だか、もう……。混乱してる」
 ますます顔を赤くした葵を、本当に可愛いと思う。
 え〜、もちろん、容姿のみをみたら今までに付き合ってきた彼女たちの中でも、普通の部類なんだけど。
 でも、そんな客観的なものが全部打ち砕かれるほど、俺は葵が好きなようだ。
 ていうか、俺も充分混乱してるな、こりゃ……。
 そんなふうに思って、俺は仕方なく葵の身体を離した。




 いきなりセツに抱きしめられて、本当に、どんな反応をすればいいのか分からなくなった。
 一年前だって、抱きしめあったりとか、キスしたりとかあったけど。
 でも、何だか、違うふうに感じる。
 一年ていう空白の時間があったからなのかな……。
 ともかく、何だか前よりセツが積極的な気がするし、そういうのに慣れてる気がするし、抱きしめかたとかも、何か違うような気がする。
 この一年間いったいどうしてたんだろう。何があったんだろう。
 それを思うと、不安とか期待とか、好奇心とか、訳の分からない嫉妬心まで、いろんな感情が溢れ出して混乱してしまった。
 相変わらず、ドキドキしてるし、落ち着かない。
 何だか、興奮してるみたいだ。
 私は震える手で緑茶の葉を急須に入れ、お湯を注ぐと、二つの茶碗と一緒にテーブルに運んだ。座椅子に腰掛けて、セツが待っている。
 私も部屋の端に置いておいたクッションを引きずり寄せて、それに座った。
「……本当に、久しぶりだね。……ていうか、何だろう、私、セツが生きてるのか、し、死んでしまったのかとか、全然分からなくて。……むしろ、本当に、消えてしまったんだって、内心思ってたから。今まで、どうしてたの?」
 全然まとまらない言葉でそんなふうに訊けば、セツは、あの後のことを全部話してくれた。
 高野裕樹の人生の記憶があるということには、本当に驚いた。
 どんなことが起きたら、そんなことになるんだろう。
 でも、本当に、心から思うのは、すっごく嬉しいということだ。まるで奇跡が起こったかのような。信じてなかったけど、神様って本当にいるんだな、とか。
 あ、でも、これはサナのおかげなんだ。神様じゃない。
 サナが、私に、セツを残してくれた。
「……本当に信じられない。……でも、凄い嬉しい。夢じゃないよネ。……て、夢なのかな。あれ? そうなのかも。うそ……」
「おいおい、違うって、大丈夫。現実だから」
 夢という言葉を出して、一気に不安になった私を、セツが呆れたような顔で見ていた。
 そして、微笑みながら、手を差し出してくる。
 その手を取れば、引き寄せられるまま、セツと再び抱きしめあう。
 その感覚は、確かに、現実のもののように感じられた。
「もう、離れないから。……ずっと、葵と一緒にいる。いいよな?」
「……う、うん。私も、ずっとセツといる……」
 ぼんやりとそう言ったら、セツが笑って顔を寄せてきた。
 ……やっぱり、今までとは違う。
 前のとは、ぜんぜん、違うキスだった。




 葵と出会ってから、一週間。
 お互い嫌になるほど、といっても本当に嫌になるわけじゃないけど、一緒にいた。
 まあ、大学の講義に出ている間は仕方ないけれども。
 ともかく、そんなふうにべったり一週間一緒にいることで、お互いの気持ちも落ち着いてきて、余裕が出てきた。
 それで、週末を利用して、ちょっと遊びに出かけた。
 Y市である。……そう、玲菜に会いに行く。
 玲菜のなかのサナはもう、消えてしまった。けれど玲菜にとっては、心の中にサナがずっと残っていて、支えとなっているらしい。
 玲菜はあれから、ずっと明るくなったという。
 葵とはメールを交換しあう仲らしく、たまに会ったりもしているらしい。
 葵の言葉によれば、玲菜は元々、言わばギャルっぽい子らしいから、明るさを取り戻して一層自由奔放な性格になっているらしい。
 たまに話に着いていけないらしいし。
 まあ、高野裕樹君にとっては、そう言う子には慣れっこである。
 何せこの容姿のおかげで男女共に幅広い人間関係が築かれているし、むしろそう言う知り合いは多い。
 Y市の駅につけば、相変わらず制服のスカートを短くして、ルーズソックスを履いた玲菜が嬉々とした表情で手を振っていた。
「うわ〜、うわ〜、ホントにホント、生きてたんだね〜」
 玲菜は興奮しながらそう言うと、バシバシ俺の腕を叩いてきた。
 ……痛いって。
「久しぶり、元気そーだな。……てなんか、普通に話してるけど、やっぱ違和感あるなぁ」
「……あはは、あたし、セツのこと半殺しにしたこととか、あったもんね」
「うわ、嫌なことを言う」
 とはいえ、色んな記憶がごちゃまぜになっているせいか、あまり不快な思いはしなかった。どっちにしろ、もう過去のことだ。
「え〜? セツだってあたしのこと殺したジャン。まあ、その辺の記憶曖昧だけどさ」
「なんか、傍から聞いてると凄い会話だね」
 葵が呆れたようにそう言った。
 確かに、普通じゃない。
「適当にプラプラしようよ! あ、お腹すいてる? どっか入ろ〜?」
 すっかり玲菜のペースで、俺たちは特に異論なく彼女の後についてついていった。




 玲菜と食事を済ませた後、Y市のアミューズメントスポットをぶらついたりしていたら、あっという間に夕方になってしまった。
 玲菜の強い希望で、私たち二人は、天木邸にお邪魔することになった。
 駅前で三人、喋りながら待っていると一台の車が路肩に寄って止まる。
 見覚えのある車だった。そして、懐かしい人が車から降りてくる。
「どうも、神崎さん、久しぶりだね。……やあ、君が……セツ君だね。こんなにまじまじと顔を見たのも初めてだけど、……へえ、なかなかの美形だね。とにかく、再会おめでとう」
 天木亮介は玲菜の義父の、天木賢治の息子で、玲菜にとっては血の繋がらないお兄さんということになる。
 あの親にしては感じのいい人で、私に色々と良くしてくれた。
「……あ、どうも。葵から色々、話は聞いてます。その節は、有難うございました」
 セツは何だか畏まって、そう言った。
 昔のセツだったら、もっとぶっきらぼうに話し掛けていそうだな、と思って内心笑ってしまった。
 高野裕樹としての記憶は、セツに多分の人間らしさとか、社会性とかをプラスしたみたいだ。
 以前の飄々としたセツも好きだったから、私としては、複雑かな。
「あはは、なんだ、堅苦しい挨拶は無しにしようよ。……さて、あんまり停車していると迷惑だから、さっさと出よう。乗って乗って」
 亮介さんはそう言って、再び運転席に乗り込んだ。
 車内で昔話に花を咲かせていたら、間もなく天木邸に到着した。
 相変わらず大きな庭園を抜けて、立派なお屋敷の中に入ると、以前通された客室ではなく奥の方の居間に通された。
 こちらは床にふかふかな絨毯が敷かれていて、ソファやテーブルなど、洋風の家具が配置されている。
「そういえば、信者の人たちってどうしたんですか?」
「……いやもう、当主が事故に遭ってから例の力は無くなったことにしてるからね、皆ちりぢりに去っていったよ。まあ、色々問題が無いわけじゃないけど、その辺は弁護士さんに任せているし。……この家も今じゃかなり寂しいな。家政婦さんと、玲菜と、俺しかいない」
 亮介はそんなふうに言った。
 寂しいと言いながらも、何か大きな肩の荷が降りたかのように、さっぱりとしている。
 亮介さん以外の兄弟たちは、父親のやっていることを不気味がって、それぞれ離れて暮らしていたらしい。それでも立派に財産分与を要求して来るのには、心底呆れると言っていた。
 亮介さんはあんな父親の傍にいて、玲菜のために何とかしてやろうと考えていたのだから。
 でも親戚がなんと言ってきても、サナの力によって天木家は巨万の富を築いたわけだから、そのくらい痛くも何ともないはずだ。
「私は財産にはあんまり興味ないけどね。でもこれから先自由に生きられるのには感謝かな〜。お金に困ることは一生ないし」
 玲菜はそんなふうに言って、笑っていた。
 正直、私も羨ましい。
 ……将来就職が決まらなかったら、家政婦さんとして雇って貰おうかな、なんて考えちゃうくらい。
 ちなみに、例の天木賢治は玲菜の力で吹き飛ばされて半身不随の重症を負ってからは、医療介護施設にずっと入院しているらしい。
 もう玲菜や亮介の言いなりで、むしろ精神的に不安定になっちゃっているらしいから、危険はない。
 でも、彼は彼なりに、不幸だったのかも知れない。
 まあ、私には関係ないけれども。




「……すごい、やっぱりお風呂も立派だったね。総ヒノキっていうの?」
 葵がお風呂から上がってきて、感動したようにそう言っていた。
 普段はそんなでもないのに、今回ばっかりはけっこうな長風呂だった。俺の方はとっくに上がっていて、待ちくたびれていたところだ。
 葵はさっきから、高価そうなものを見つけては感動し、凄い凄いと口にしてる。まあ、気持ちは分からなくも無い。
 前はそんなもの何とも思わなかったけど、今となっては確かに、凄いと思う。
 すっかり夜も更けて、俺たち二人は広い客間を用意された。
 部屋はたくさんあるのに、同じ部屋にしてくれたのは、まあ、玲菜か亮介さんのお節介だろう。
 俺としては、感謝感謝なんだけど。
 葵はすでに敷かれた布団の上にぺたりと座って、俺がつけていたテレビを眺めた。
「亮介さんっていい人だな」
 俺がそう言うと、葵も笑いながら同意した。
「あの父親でよくあんな良い人が出来上がったよね。かなり不思議。……でも相変わらず、奥さんはふらふらしてるみたい」
「……何やってる人?」
「お華の世界では相当有名な人らしいよ? フラワーアレンジメントにもはまってるらしくて、最近はずっと海外みたい」
「切ないな〜」
 俺がふざけてそう言ったら、葵も笑った。
「……もう寝るか」
 葵が布団の中に潜り込んだので、俺も布団の中に入った。ちなみに布団はちゃんと、二人分敷かれている。
「あ、電気消す?」
 葵が布団から出かけたところで、電気がふっと消えた。
「……え?」
 葵の驚いたような声がする。暗くて表情が見れないのは残念だ。
「え? 今のもしかして、セツ?」
「ん〜? はは、驚いた?」
 俺は否定しなかった。まあ、実際俺がやったから。
 わざわざ布団から出て消したわけじゃないけど。
「って、なんで? 力残ってないって言ってたじゃん!」
「……まあね〜。でも、このくらいだったら出来るんだよな。小石を浮かべるとか、そんくらいね。さすがに空飛んだり瞬間移動したりは出来なくなったから。……ほんと、惜しいよな」
 今でもそれが出来たら、どれだけ便利だったか。
 でも今の俺で、もしその力があったら、完全犯罪を計画しそうでやばいけどな。
 ……あ〜でも、このくらいの力でも出来そうだな。って、しないけど。
「ねえ、セツ」
「……え?」
 思わず完全犯罪の壮大な計画を立て始めたところで、葵が話し掛けてきた。
 目が慣れて来たから、外の明かりでぼんやりと、葵の顔がうかがえる。葵はこちらを向いていた。
「私たちこれから、何事もなかったように過ごしていいのかな。……今回のこと、サナの存在だって、凄く意味のあることのように思えるんだけど」
 葵がそんなことを考えていたなんて、俺は少し驚いた。
 輪廻を繰り返し、人間を殺してきたサナは消え、一見世界は平和になったように思える。俺の持ってる価値観も、いまや普通の人間と変わらない。
 セツと呼ばれることに違和感はないけれど、やっぱり、俺は高野裕樹だから。
「……ああ、でも。俺たちにはもう、何も出来ないよ」
 だから、そういうふうに答えた。葵はあまり納得がいかないような表情をしていたが、それでも、頷いた。
「セツがもう、何も思い残すことがなければ、それでいいんだけど。……でも、セツ、本当にもうサナには何の未練もない?」
 再会して一週間、葵が俺に、サナについて訊いてきたのは初めてだった。
「……未練、ねえ」
「ごめん、答えにくいことなら、いいんだけど。……でもさ、あれだけ長い時間をかけて追って来た相手のことだから」
 葵が神妙に言うので、俺は何を答えていいのか分からなくなった。なので、ふざけてこんなことを言ってみる。
「……もしかして、葵、サナに嫉妬してたりする?」
「っそ! そんなことないよ! ……もう、こっちは真剣に聞いてるのに」
 葵は怒ってしまったのか、向こう側に寝返りを打ってしまった。俺も、仰向けになり直す。そして、考えた。
 あの時、サナが言ったこと。
『神の過ち、私と貴方の存在、人間の繁栄、神への侵食……』
 それらの言葉が意味することは、なんだったんだろう。
 そして。
『貴方は自分の業をまだ、知らない。……そして、まだ、知らなくてもいい。私たちに課せられたものは、まだ、大きくこの世界を揺るがすでしょう。……けれどもセツリョ、あなたはもう、セツリョとしての輪廻を回ることは許されない』
 俺は、もう、セツリョではない。
 セツリョと呼ばれた魂は消え、俺はもう、その不自然な輪廻を終えた。そして、サナという魂も消えた。
 けれど、俺もサナも、新しい輪廻の中に生きていくことは変わらない。それは、この世界に生きるものとして、逃れることの出来ないシステムだ。
 俺たちに、サナと俺に課せられたものは、まだ大きくこの世界を揺るがす。
 ……それに、葵も巻き込まれることになるだろう。
 けれども、予想するにそれは、まだこれから遥か先のことになるんじゃないだろうか。
 俺やサナや葵の魂が、幾度もの輪廻を越えて、その先にあるもの。
 それが千年先になるか、一万年先になるかは分からないけれども。
「……考えるのは、そんときでいいだろ」
 俺は、ポツリとそう呟いた。
「……え?」
 葵が、その呟きを聞きつけて、こちらを振り向く。俺はその顔を見て、笑った。
「今は、休息期間なんだよ。……ま、俺たちが高野裕樹、神崎葵として残りの人生を送る上でなすべきことはさ、今のうちに良い思いをしとけってことさ」
 葵は、意味が分からないというような表情をしていた。
 けれども、それでいいと思う。どっちにしろ、俺にだって、分からないことだらけなんだから。
 何も分からない、人間だからな。
 俺は、そう納得した。
 いつか、俺に課せられたものに直面するまでの束の間の時間くらい、幸せな思いをしたっていいだろう。
 呪縛にも似たサナへの思いは、もしかしたら、今でも断ち切れていないのかも知れない。恐らくこれから先、嫌でも巡り会う気がする。
 けれど今は、かけがえの無い存在である葵と、ただ幸せに生きていきたい。
 そういう役得があったって、いいだろう。
 俺には葵が必要だし、葵にも俺が必要なのだから。



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