「背後から」


 その気配を最初に感じ取ったのは、私が小学校高学年の頃だったと記憶している。
 気配、というものは酷く曖昧なものであるし、そういったものを当たり前のように感じるほど私は敏感ではない。
 それでも、その気配は確かに私の背後に存在し、それは時には強く、時には希薄にそこにある。
 ところが、その気配の発信源であるものの正体は一度として掴めたことがない。
 振り返ってもそこには何もない。
 一人密室に身を潜めたとしてもその気配は遠くないところに存在したし、どうやら背後にぴったりとくっついているらしい。
 そんな気配はしかし、決して不快なものではなかった。
 私に恐怖を与えるものでもなく、当然生活に支障を来たすほどのものでもない。
 だから私は、今までずっと、この気配のことを誰かに話すことはなかった。

 いや、一度だけあっただろうか。
 中学生の頃の一時期、私はその気配の正体を見極めようと躍起になっていた。オカルト系や心理学、精神病に関するものまで私は文献を読み漁った。
 それらは私に、何かいい訳じみたような解答を与えてくれはしたが、決して納得出来るようなものではなかった。
 半ば諦めた頃、その気配を平常よりも強く感じるようになった。
 それは重く、暗く、私の背後に迫っている。
 強い気配は私に恐怖を与え、私はいつも何かに怯えるように日々を過ごさねばならなくなった。
 そうしてある日、私は事故にあったのだった。
 気配が一際強くなった時、私は学校からの帰宅途中で、とある公園の前を歩いていた。公園には人影が見える。子供を連れた母親、子供の無邪気な笑い声……
 そうして私は、余所見をしたまま交差点に差し掛かり、甲高いブレーキ音を聞いた。
 危うく命を落としてしまうかとも思われた、酷い事故だった。
 しかし私は一命を取りとめ、そして奇跡的に、何の後遺症も残していないようだった。
 更に、目覚めた時にはもう、あの気配はかなり希薄なものになっていた。
 私はその事実に驚き、そして一人の看護婦にこの気配について話してみた。彼女は好意的に、とっても興味深そうに私の話を聞いてくれた。
 しかしながら、彼女が気配の正体を知るはずもなかったし、そもそもこの話を信じてくれたかどうか。結局その好奇心も時とともに萎えたのか、彼女は私と話すことが疎ましくなったようで、やがて病室にも姿を見せなくなった。
 少しの後悔とともに、私は口を閉ざした。

 だが、私はこの経験から、一つの事実を自覚しなければならなかった。
 それは、この気配は死と結びついている、ということである。
 ならばこの気配は死神の気配なのか。背後からじわじわと忍び寄る、死の気配……
 それでいいような気がした。私はすんなりと、納得した。いずれ人は皆死ぬのだし、私が何か特別というわけでもない。
 ただ、気配を感じるだけだ。
 便利なものではないか。気配が強くなれば、それは死が近いということ。私はそれを予期し、覚悟をすることが出来る。
 死への準備が出来るのだ。
 そう思えば、私はこの気配を自由にコントロール出来るのであった。
 例えば街を歩いていて、その気配が強くなるように感じたら、道を引き返す。
 そうすれば、死を回避できるということだ。
 私は何だか得したように感じて、死をもコントロールしているかのような気になっていた。

 そうして、もはや人生の伴侶ともいえるこの死神の気配は、私に安堵感をも与えてくれた。
 しかしながら、年齢を重ねるにつれ、私はこの気配の存在に少しの焦りを感じるようになってきた。
 だから、というのではないが、結婚は出来なかった。
 死の予感とともに生きる私が、どうして結婚なんて出来るというのか。
 いや、結婚のチャンスはいくらでもあった。結婚をしようと、心に決めた相手もいた。
 しかしながらその度になぜか私は躊躇した。このまま結婚をしてはならないような気がした。
 だから、結婚はしない。
 それでいいのだ。

 さて、私は若い頃から、自分の老後のために貯蓄をしていた。
 孤独な老人を快く引き取ってくれる施設に入るため、私は自らその費用を貯めたのだ。
 …そして今日、私はその施設の前に立つ。
 少しの荷物を手にして、私はタクシーから降りると、その門をくぐった。
 施設はとても清潔で、広く、明るさに満ちていた。
 私の背後の死の気配は、かなりの強さに肥大していたが、ここで死を迎えることが出来るなら幸せだろう。
 実際、すぐに死んでもおかしくないというほど、この気配は強くなっている。
 背後の、この気配……
「今日入居の方ですか?」
 思いがけない声に、私は思わず振りかえった。
 重い気配、その気配は収束し今、私の背後に立つ……
「……貴方が、死神ですか?」
 振りかえって言えば、そこにはきょとんとした表情の女性が、箒を持って立っていた。
 彼女はそれなりの年を経ているようで、顔には皺が刻まれ、髪も白髪交じりであった。
 ごく平凡な、けれど不思議な魅力の持ち主である、中年女性。
 けれど、なぜ。
「私が死神だなんて、おかしな事をおっしゃいますねえ。さあさ、中に入りましょうか。お茶をお出ししますよ。まずはゆっくりと休んで、それから部屋に案内いたしますから」
 女性は、考えてみれば私の大変失礼な発言に対して、特に機嫌を悪くしたふうもなく歩き出した。
 まさか、……まさか私はとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
 この気配を死神の気配だと決め付けて、回避してきた。  ……それは今思えば、責任と言う名の気配であったのかも、知れない。
 女性の心地よい声、柔らかい表情、私を安堵させる魅力的な笑顔。
「突然……失礼なことをお聞きしますが、貴方は、結婚は?」
「あら、本当に突然だこと。……それがねえ、ついぞ今に至るまで、結婚はできなかったんですよ。福祉や介護に身を尽くしていたら、あれよあれよという間にこんな歳に」
「……それは、良かった」
 思わず、笑みがこぼれた。
「え?」
「いやいや、何でもありません。……ああ、建物の中もとてもいい感じですね。明るい雰囲気で」
 それは私の未来を暗示しているようでもあった。
 もちろん、遅過ぎたのであろう。
「……ところであなたは幼少の頃、公園の近くに暮らしていませんでしたか?」
 けれども。
 その気配は今まで、常に私と共にあったのだから、それで充分なのだ。

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