|
「Ideal」
爽やかな朝日が、私達の朝食風景に輝かしさを与えている。真っ白なプレートの上にはハムエッグをメインに、ピクルス、ミニトマトなどが添えられていた。そして、部屋を満たすモーニングカフェの香り。 なんて理想的な風景なのだろう。 私はうっとりとしながら、席についた。 私の向かい側で、有吉洋一が微笑む。 素晴らしい1日が始まった。 「こんな生活が、子供の頃からの夢だったの」 「へえ、いつぐらいから?」 洋一は、白いプレートの上にのったミニトマトを、銀色のフォークで用心深く突き刺すと、形の良い唇を適度に開きそれを口の中に入れた。 咀嚼し、飲み込む。 それをじっと見つめていた私は、その時点でようやく口を開いた。 「……多分、幼稚園の頃から」 「そんなころから? それはすごいなあ。お花屋さんとか、ピアノの先生とかなら分かるけど」 「変なところで現実じみてたのかしらね」 「そうなのかもしれないね」 洋一は穏やかに笑む。 「でも、私にとってはそれが重要なことだったの。大人になるに連れて、それは日に日に大きくなっていったわ。簡単なようで、でもそれは手に入らない」 「……入らなかった、だろ? 今は、僕がいる」 「そうだったわね。あなたがいる」 微笑んだ。……けれど、なぜだろう。 一瞬、口の中のものが、妙に無味なものに感じた。 私は少し嫌な気分になって、フォークでセロリの欠片をもてあそんだ。白い、それ。手応えがなくて、刺しても掬ってもまだ取れない。プレートの上の、セロリ。 「あなたがいれば、私は大丈夫ね」 私はそう言って、微笑んだ。セロリは諦めた。 理想の中の、理想的な恋人。それが、洋一だ。 だから洋一と一緒にいると、私は安心する。私は孤独じゃない。暖かい日差しに包まれている。 まるで、夢のように。 その部屋には、まるで人気がなかった。 郵便受けにはチラシや督促状が溜まり、ぎゅうぎゅう詰めになっていた。擦れ消えそうな表札、「有吉洋一」の文字は、無機質な印刷の文字。 鍵は、かかっていなかった。 カビや埃の、臭い。留まって淀んだ空気。 カーテンは薄汚れて、外界からの光を全て吸収しているかのようだった。 有吉、洋一。 壁には写真が無造作にとめられている。過去の断片を記憶したその薄っぺらな紙は、彼のことをどれだけ表現できているのだろうか。 その日、洋一が他の女性と共に歩いているのを見かけた。 商店街の歩道で、二人は仲良く肩を並べ、鮮やかな笑みを浮かべている。 夏の日差しを集めたような、活発そうな女性だ。黒く縁取られた大きな瞳や明るいカラーの髪は、彼女に幼さを感じさせた。 なぜだろう。妙に現実じみている。洋一も、その女性も。 彼は、写真の中の洋一みたいだ。 大作りな笑い顔。粗雑な歩き方。女性の腰に回した腕。 私の洋一とは違う、でも洋一の顔をした存在。 私は何事もなかったかのように、彼らに背を向け歩き出す。歩が早まっている。 ああ、嫌だ。これじゃあ、逃げ出しているみたいだ。 「夢とは違って、現実はいつも辛いものだった」 「……そう、大変な人生を送ったんだね」 洋一は少しだけ、表情を曇らせて私を見つめた。 昼食は絵に描いたようなスパゲッティ。白い湯気を上げている。赤茶色いミートソースは、気をつけて食べないと服に飛んでシミをつくってしまうだろう。 けれどもそんなことは私には全く関係がない。 「両親は私が小さい頃から仲が悪かった。幼稚園の頃には、別居していたの。私は一人でご飯を食べた。古い1階建ての借家は、何だか暗くて、禿げた砂壁は私を虚しくさせた」 「君は、孤独だったんだね」 「ええ。近所のお姉さんが遊んでくれたこともあったけど、それは尚更、私を惨めにさせた。小学生、中学生の頃は転校してばかりで友達も出来なかった。その後も、当り障りのない友人関係しか作れなかった」 私の過去には、色がない。 灰色の人生。そんなふうにしか思い出せない。スクリーン越しに見ているかのような、ノイズの入った世界。 「理想と現実との間には、大きな溝が出来ていたんだね」 「私の理想は、そんなに遠いものなの?」 「いいや。……今、こんなに近くにあるだろう?」 「そう……ね。あなたは、目の前にいる」 一瞬、目の前のスパゲッティが急に温度をなくしたかのように思えた。 なぜだろう。 外出先で、あんなものを見てしまったからだろうか。 ……あんなもの? 私は、何を見たのだっけ? きっと、大丈夫。不安なんて何もない。 彼がここに住んでいる限り、私と彼は離れようがない。 二人はいつも、一つの同じこの部屋で、共に生活をしているのだから。 大掃除をした。 掃除機をかけ床を磨き、埃を払って、カーテンを買い換えた。 郵便受けの中のものを、全て捨てた。 私はそうして、一人ソファにかけ、洋一の帰りを待つ。洋一はきっと、穏やかな笑みを浮かべて、ここへ帰って来る。 泣きたくなるほどの、優しい人。 楽しくて心地よい食事を共にできる。暖かな空間が出来あがる。 笑顔が絶えず、日溜りの中にいるような… 大丈夫、この部屋でなら、きっと。 理想の生活が、私を待っている。 「……あなた、誰?」 あの人が、突然部屋にやってきた。 前に洋一と一緒に歩いていた、夏の日差しの女性だ。 私がソファにかけていたら、彼女が何の前触れもなく、部屋の中に侵入してきたのだ。 鍵をかけ忘れていたのだろうか。 それにしても不躾な人だ。他人の部屋に勝手に上がり込むなんて。 だから私は、強い口調でこう問い返した。 「あなたこそ、誰なの? この部屋を誰のものだと思っているの?」 「……こ、ここは、有吉洋一の部屋でしょ?」 「そうよ。私と洋一が生活しているの。なぜあなたが勝手に入ってくるの?」 「……」 彼女は、困惑と恐怖が入り混じったような表情を浮かべて、身を翻した。 部屋から出ていったようだ。 ……安心した。本当に、何だったというのだろう。 私と洋一のこの、聖域ともいうべき場所を侵害するなんて。 でも、いいわ。やがて洋一は帰って来る。私に優しい言葉をかけてくれる。 その、はずよね。 「幼稚園の頃、とっても仲の良い友達がいたの。ナツミちゃんって言ってね。いつも一緒にいた」 「へえ、それで?」 日が落ちた。テーブルの上にあるべき食事は、その形を成すことはない。 私は両手を組み合わせたり、もみ合ったり、擦り合わせたり、落ち着きのない状態で、話を続けた。 「私達は本当に仲が良かった。よくナツミちゃんの家に行ったわ。高台にある白い家。小さいながらも、穏やかな日差しに包まれていた。優しいお母さんが、笑顔で迎えてくれた」 私は話しながら、ナツミの姿を思い出す。 小さい顔、大きめの黒目がちな目。子供特有の、細く柔らかい髪はいつもおさげに編まれていた。 「幸せな家族だったんだね」 「……友達だったけれど、それは羨望の対象でもあった。笑いながらも、その心は暗い嫉妬心と屈辱感とが混ざり合っていた」 「幼いながらも」 「そう……幼いながらも、友達をそういうふうに見ていた。そうして、自分にないものに嫉妬し、理想とし、欲した。それが、私」 「幼い頃から、変わっていない。それが、君」 洋一を、見た。 洋一は笑っているはずだ。私に向かって、柔らかい笑みを。 ああ、まだ消えないで欲しい。 分かっているから。これが、幻想なのだということ。 彼は、洋一じゃない。彼は、私の理想。 そう、分かっているから。 「……こんな私でも、変われる?」 「ああ、きっと。きっと、変われるさ。そのためには、まずこの部屋を出なくてはならない。……僕と、決別しなければ」 洋一は、最後にそう言って、穏やかに、笑った。 「消えないで。……知りたくないの。いいえ、私は十分知ってしまった。絶望するに十分なほどに、この世界のことを、私のことを……」 そうして、私は顔を両手で覆った。 顔を上げる頃には、全てを失っていることを、知っていながらも。 部屋を出た。 さようなら、洋一。 ごめんなさい、本物の有吉洋一さん、そしてその彼女さん。 本当にごめんなさい。 勝手にこの部屋に入り込んでしまったこと。私はこの部屋で理想の欠片を見ることが出来、そしてその理想を失った。 理想に押し潰れそうになっていた、私。 でも、そこから抜け出そうとしていた私もいるはずだ。 変われるのかしら。 結局、私は孤独なのだ。それは変わりようもない。 私を取り巻く世界は、私の存在の有無に関係なく、何事も無く、そこで流れている。 何もかもが、私から孤立している。 ……けれど。いつかきっと。 さようなら、洋一。 私の中の小さな可能性に、かけてみたい。 「知らない人が、いた?」 「うん、そうなの。気味悪い。……洋一、あの部屋に帰ったのはいつ?」 「さあ、どうかな。お前のところに転がり込んでから、もう1ヶ月にはなるか。俺、鍵かけ忘れたかな。……まあ、いいや。どうせあの部屋は引き払うんだから。警察を呼んで、後で二人で行ってみようぜ」 |