私の愛した、アリスに捧ぐ――































 鮮やかな朱色から、濃紺の世界へと。
 目の前に広がるローズマリーの群生と、そして世界、地球、…大宇宙へ。
 私の思念はどこまでもどこまでも、至上の高みまで上っていく。
 そう信じて疑えるわけもなかった。

 ――それは、私の想像をはるかに越えて美しかった。




 2月……
 梅が咲き始める頃を待たずに、私の愛した彼女は息を引き取った。
 感染症だと、医者は言った。
 何か悪性の菌に冒された彼女は、最初に目を病み、そして腹部に水を溜めていった。
 気が付いた時にはもう手遅れで、病院に駆けつけ処置を頼んだが結局、投与した薬によってショック死してしまったのだという。
 その日は、大陸の方から寒波が訪れ、冷たい風が吹いていた。



 私は結局、彼女に何をしてやれただろうか。
 彼女は幸せだったのだろうか。
 ……それを尋ねる相手はもう存在しなかったし、ましてや答えが返ってくるわけじゃない。
 自分の中で整理をつけるしかないのだということは、分かっていた。
 分かっていても、どうすることも、出来なかった。



 そんな私の心境とは裏腹に、周囲の環境はめまぐるしく変わった。
 友人、家族、社会の中に存在するあらゆる人々に笑顔を向け、生きるためのルーチンな作業を続ける。
 それでもふとした瞬間に、彼女のことを思い出した。
 幸せだったのか、と……幾度尋ねたことだろう。
 後悔の念だけが私を苦しめる。
 彼女はもういない。
 彼女は喜怒哀楽といった感情や、快楽や苦痛といった感覚も、もう全てを受け取ることはない。
 私が今その安寧を祈ったところで、それは意味のないことなのだ。
 差し伸べたその手の先にあるものは、暗い闇、そして、無……
 いっそのこと、信じられればいい。
 この世界とはまた別の、「天国」と呼ばれるところで彼女が存在しているのだと。そして不甲斐ない私の姿を見ては、苦笑交じりのため息をついているのだと。
 だが、どこの宗教にも属していない私は、そんなことを信じられるわけもなかった。




 ローズマリーの香りが強く香った。
 それで、その日の夕方、帰路についている途中で私は足を止めたのだった。
 ……そういえば、この先には自然食品を売りにした喫茶店があった。
 古くからある喫茶店で、店先にはハーブや野菜などの鉢植えが並べられている。その鉢植えの中に、ローズマリーがあったのだろう。
 足は自然と、その喫茶店に向かった。

「いらっしゃいませ」
 扉をくぐると、目の前のカウンターに少しだけ体重を預けていた若い女性が、姿勢を正して微笑んだ。
 カウンターの奥では、髭を生やした愛想のない男性が立っていて、軽く会釈をする。
「どうぞ、お好きな席へ」
 喫茶店の中は、決して趣味がいいとはいえなかった。
 観葉植物や鉢植え、ピエロの人形、手作りの焼き物、水槽に、写真立て。
 あらゆるものが手当たり次第に置かれ、雑貨屋ほどの統一感もなく、ただ雑然としている。
 私は小さな庭の見える窓際の席を選んだ。
 先ほどの女性店員が、水とおしぼり、メニューを席に運んできた。
 私はメニューも見ずにコーヒーを頼むと、店員は少しためらって口を開く。
「コーヒーの種類は何になさいますか? ブルーマウンテンやモカ、マンデリンとか……あ、ブレンドもありますけど」
「じゃあ、ブレンドで」
 正直、何でも良かった。ただ、この喫茶店で出すブレンドがどのような味なのかは、少しだけ興味があった。
「はい、かしこまりました」
 店員は微笑んで、メニューを持ってカウンターへ戻っていく。
 私はそれを見送ってから、改めて店内を見渡した。
 時間帯のせいからか、客の入りは、お世辞にもいいとは言えない。中年の女性が一人と、若い男女が一組いるだけだ。
 そのうち、男女の組が席を立った。
 店の中は、静寂に包まれた。
 私は窓の外に視線を移す。
 ハーブばかりが植えられた庭は、一見、雑草ばかりが生えているようにも見える。草丈や樹形は整っておらず、料理として使われているからなのか、何だか葉のつき方も冴えない。
 そんな中で、ローズマリーの鉢植えは、大きく葉を茂らせていた。
 ローズマリー……
「え? ローズマリーが何か?」
「あ? ……ええと、いえ、……凄い、立派なローズマリーだな、と思って」
 無意識に、「ローズマリー」と口に出していたようだった。
 丁度コーヒーを運んできた店員に聞かれてしまい、私は慌ててそんなことを言った。
「ああ、あれ。凄いでしょう? あそこまで大きくなると、木、という感じですよね。店長がこの店を持つ前から育てていたらしくて。ほら、あの写真」
 随分と話好きな店員なんだな、と思いながら、私は示された写真を振り返った。
 そこにはまだ若い店長らしき男が立っている。そして驚くことに、彼の周り一帯が、ローズマリーの群生で埋め尽くされているのだ。
「山梨の方らしいんですけどね、店長が昔そこに別荘を持っていたらしくて。その近くにこんな、ローズマリーの群生地があるらしいんですよ」
「……いや、すごいですね」
「ほら、ローズマリーって、繁殖力強いですから。寒さにも乾きにも強いし。……で、その中から一株だけ、鉢植えにしたそうで」
「ああ、なるほど」
 自分も昔、ローズマリーの鉢植えを一つ持っていた。
 ここにあるような立派な鉢ではなかったが、長い間水をやらなかったときでも、寒い中外に出しておいても、それは枯れることがなかった。
 一口飲んだコーヒーは少し濃く、苦かった。



 死んでしまった彼女の忘れ形見を、その身体の一部を、私はローズマリーの鉢植えの下に埋めた。
 寒く暗い夜。
 マンションのベランダの鼻先、生垣の根元に穴を掘り彼女を埋めたその上に、手元にあったローズマリーを植えたのだ。
 それを植えたのはただ、野良猫によって掘り返されないように、と思っただけのことだった。

 喫茶店を出るときにどうぞ、と手渡されたのは、いくつかのハーブの説明が書かれたチラシ。
 その中にローズマリーの項目があった。
 『シソ科マンネンロウ属の常緑低木、花言葉は「追憶」。古くから料理に使われており、また殺菌効果のあるハーブ』
 その偶然が、私をより一層悲しくさせた。
 彼女が菌に感染して死んだという事実と、そして「追憶」という言葉は、私にとって辛いものでしかなかった。



 私はその日の夜、大き目の鉢とスコップを手に、車を走らせた。
 ローズマリーを植えたあのマンションから引っ越して、半年ほど経った。
 サツキの生垣の中にぽつんと植えられたローズマリーが、管理人に発見されていないことを祈るしかない。
 ローズマリーの下の彼女はもう、土となって失われたことだろう。
 けれど、彼女は土の中で有機物となり、その上のローズマリーは彼女を養分として取り込んでいるはずだ。
 ローズマリーの中で、彼女の一部は今でも生きている…

 次の日、私はあの喫茶店の店長からローズマリーの群生場所を聞き出すと、山梨に向かった。
 助手席には、鉢の中に一先ず入れただけの、ローズマリー。
 その根に、繊維状のものが絡まっていた。それは、彼女の一部だったもの。
 他の細胞に比べ、毛の細胞は分解されにくいのだろう…
 それを見たときには、ぼんやりとそう思った。

 やがて車は、山梨県に入った。
 道の両側には木々が茂っていたが、それが途切れると、そこには山々の重なりが、深い緑の連なりが拡がった。
 こんな深い緑を、久しぶりに見た。
 そもそも、こんな山の中に来たのは、一体何年ぶりになるのだろう。
 車はそして、まばらに見え始めた別荘の中の、その一つの駐車場へと滑り込んだ。
 私はローズマリーを抱えて、車を降りた。
 ここからは少し、歩かなければならない。

 山中の獣道かとも思われるような小道を歩いていると、すぐに息があがってきてしまった。
 目的の場所にはまだつかない。
 歩いている途中、ふと、私は何をやっているのだろうと、自嘲の笑みを浮かべた。
 それでも今は、こうすることに意義を感じる。
 自分の中で、決着をつけたがっているものが、渦巻いている。

 執念の思いで山道を歩いていると、やがて鬱蒼とした木々の合間から、光が見えた。
 木が途切れ、光が差し込んでいる。
 強い香りが鼻先をくすぐる。
 私は歩を早めて、その空間へ足を踏み入れた。



 一面、緑の低木に埋め尽くされていた。
 そして立ち込める異様なほどの強い香気が、息を弾ませる私の肺の奥深くまで進入し、思わず咳き込んでしまう。
 そこは見渡せるほどの広さの、木々に守られるように囲まれた、ローズマリーの聖地だった。
 私は鉢を持って立ったまま、空を見上げた。
 太陽が西の空に傾きかけている。
 急がなければ、日が沈んでしまうだろう。
 私はその聖地の中心に立つと、夢中で土を掘り始めた。



 ――彼女のことを、忘れたいわけではなかった。
 私が彼女と初めて出会ったあの日のこと。
 その柔らかで、暖かな肌に触れた時のこと。
 愛くるしい瞳で見つめられた時には、心が和み、荒んだ心は癒された。
 彼女から私にもたらされたものは、何ものにも代えられない。それなのに私は、彼女に何を与えられただろう。
 もちろん、彼女と生活するにあたり、最低限の衣食住は確保した。
 だが、それ以上の何をしてやれただろうか。
 彼女を放って何日も留守にしたこともあったし、自分の不注意で彼女に怪我を負わせたこともあった。
 私は特別、彼女を大切に扱ったわけでもない。
 それでも彼女は、文句一つ言わなかった。
 手を差し伸べれば、名前を呼べば、彼女は少し小首をかしげながら、私の元に近寄って微笑んだ。
 だが、その彼女は最後、醜く苦しんで息を引き取った。



 私はなぜ彼女の最後を、看取ってやらなかったのだろう。
 彼女の病が進行していることは、知っていたのに。
 それなのに私はその日、ある事情から遠出を余儀なくし、……そして看護を頼んでいた母からの電話で、彼女の悲報を伝えられた。
 涙を堪えることは、出来なかった。
 目の見えぬ暗闇の中で、彼女はどれほどの恐怖と痛みに苦しみ、そして死んでいったのか。
 そして、どれほど私を憎んだだろうか。
 私には、想像すら出来ない。



 どうか、彼女が幸せでありましたように。
 そして死してなおも、彼女が幸せでありますように。



 ……そう祈って安心出来るのなら、どれほど救われただろう。
 私は結局、自分のことしか考えていない。
 
 気が付けば、あたりは薄暗くなっていた。
 少し元気を失ったローズマリーをぼんやりと見つめていたら、意外にも時間が経ってしまっていたようだ。
 私はのろのろと顔を上げ、立ち上がった。
 そして、帰路につこうと振り返る。
 そんな、西の空は……



 私は思わず、その眩しさに目を細めた。
 木々の稜線からは眩い夕日の光が差し込み、そしてその光の周辺は柔らかな水色から、鮮やかな朱色、そして、深い濃紺へと色が変わる。
 色は混ざり、それは空の空間を描いている。
 少し高いところには薄く月が浮かび、それよりも強い光で星が一つ、瞬いた。
 ――私から、目の前に広がるローズマリーの群生と、そして世界、地球、……大宇宙へ。
 一つのつながりは強く、そして確かに、そこに存在している。
 このつながりがやがて、宇宙から彼女の元にまで、続いているのだろうか。
 私の中のこの不確かな思念は、彼女の元へと、どこまでも届いていくのだろうか。
 あの瞬く星の彼方に、愛らしい彼女の思念は確かにあって、そして宇宙から、地球から世界から、この美しい夕焼けの下の小さな自分のことを、見ているのか。
 私は、突如心に浮かんだこの想いを、確信している自分に気がついた。
 彼女の幸せを祈るこの思いが、思念が、至上の高みまでのぼりつめ、そして彼女と出会う。
 そう信じて、疑えるわけもなかった……




 私はその後、何事もなかったかのように、日常へと戻った。
 あのローズマリーの聖地へは、もう行くことはないだろう。
 いや、あそこは別段、特別な場所ではない。
 ……ただ、ローズマリーが群生しているだけの場所なのだ。
 けれども私は、暇を見つけてはあの喫茶店に立ち寄るようになった。
 すでに常連客となった私は、気軽に話好きの店員に話し掛け、他愛のない世間話をする。
 少し苦いブレンドコーヒーを飲みながら、私は庭のローズマリーの鉢植えを、気の済むまで眺めた。
 私はそうして今でも、ローズマリーの香りと共に、彼女のことを思い出す。








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