「俺と亜矢子と最後の笑顔。」



 朝一番の、誰もいないはずの教室。
 シンと静まり返った廊下を歩き、教室の扉を開けると、久島亜矢子が机に伏せていた。
 彼女は顔を上げて振り返ると、眠たそうに、けれど柔らかな笑みを浮かべた。
 この瞬間は確実に、彼女の笑みは自分だけのものだった。


 連休は、実家に帰ることにした。
 もう五月に入ったというのに未だに肌寒いN県から実家まで、高速道路を使って車でおよそ三時間半の距離。
 隣の男は、何故か途中から爆睡していた。
「おい、お前トイレは?」
 そんな爆睡中の安部拓也の肩を揺り起こしつつ、三月隼人は運転席を開けた。あと三十分も走らせれば、実家のある街に着くだろう。
「んあ〜、わりい、爆睡したわ……」
 高速料金を割り勘にするため助手席に乗せた安部とは、高校二年のとき同じクラスになり、それ以来の仲だ。なぜだか大学も一緒になったため、短くともあと四年は付き合いが続くだろう。
 安部は車から降りると、寝ぼけ眼でサービス・エリアのトイレに向かった。
 自分はトイレへは行かず、その手前にある喫煙スペースにてタバコに火をつけた。
 安部はまだ免許を取得していない。それは当たり前と言えば当たり前で、この時期すでに免許を持っている三月の方が珍しいのだろう。
 三月は大学の受験が終わってすぐに、自動車学校へ通い始めた。資金は親に借り、同時にバイトも始めた。……そのせいで彼女である星野美紀との付き合いが、疎かになった。多少は罪悪感がある。彼女の不安そうな表情が、脳裏に浮かんだ。今頃はバイトに励んでいる時間帯だろうか。
「今、何時?」
 トイレから戻ってくるなり、同じようにタバコをポケットから取り出した安部が、尋ねてくる。三月は腕時計をちらりと見ると、「二時」と応えた。午前中に出てきたが、多少道が混んでいたせいで、もうこんな時間になっている。
「お前、約束の時間は?」
「六時」
「んじゃ、余裕だな」
 今日は元カノの久島亜矢子と会う約束をしていた。最後に顔を見たのは九月の始めの頃であったから、約八ヶ月ぶりの再会である。
 肝移植のためアメリカへ渡る彼女を、空港ではなく、病院で見送った。
 寝台に乗せられた彼女は痩せこけて、生気を失っているように見えた。薬で眠らされていた彼女とは、別れの言葉を交わすことも出来ない。励ます言葉も、出てこなかった。
 ただ、力なく寝台の上に置かれた手を、握り締めただけ……。
 その亜矢子が無事肝移植を終え、日本に帰って来ていた。亜矢子からメールが入ったのは、先月のことだ。手術後の経過も良く、今は通院している。まだ学校のことは決まっていないが、通信制高校に移るかも知れない、と書いてあった。
 亜矢子が突然別れを切り出したのは、二年の終わりのことだった。
 掃除当番でゴミ捨てに当たった亜矢子を手伝い、焼却炉まで二人で歩いた。ゴミを焼却炉に放り込み、その帰り道。まだ桜の蕾も膨らんでいない、寒気に包まれたその場所で、亜矢子は笑顔で別れを切り出した。
 なぜ突然そんなことを言い出すのか、分からなかった。今までに一度も、そんなそぶりは見せなかったはずだ。
 ……でも、今思えば、自分が見逃していただけなのだろう。
 体調の不良を訴え始めていた彼女と、彼女の不安を。


「久島さんと会うことは、星野さんに言ってあんの」
 タバコの煙を細く吐き出しながら、安部が遠慮なく訊いて来る。
 三月は設置された灰皿でタバコを揉み消しながら、否定の意味で首を傾げて見せた。
「言っといたほうがいいんでないの?」
「さあ、どうだろうね」
 美紀にとっては、彼女の名は禁句のように思えた。
 亜矢子のことが原因で、付き合う前にちょっとした問題があったからだ。余計な心配をかけさせるよりかは、黙っていた方がいいと思った。
 ……美紀とは、彼女の入学式のときに出会い、そして惹かれた。
 入学式から数ヶ月後、彼女も自分に片思いしていることがすぐに分かった。自分の彼女への興味も失われていなかった。それで彼女の兄に協力して貰い、付き合うことになったのだ。
 ただ、彼女と付き合うに至るまでには、色々と回りくどいことをした。
 惹かれたとはいえ、本当に彼女が付き合うに値する子かどうか、伺っていたせいでもある。そんなことが彼女の親友に発覚すれば、大層な批判を浴びることであろうが、それが事実である。
 ただ、回りくどいことをした理由は、それだけではない。
 三月隼人という人間を、少しでも知ってもらいたかったのだ。
 ……昔から見目が良く成績も優秀、運動神経も悪くないとなれば、何事にも不自由することはなかった。
 特に女は望まずとも向こうから寄ってくる。寄ってくるのは自分と同じく、自分に自信のある女が多い。自尊心が高く、人を格付けしてそれ相応の接し方をする。正直、見ていて心地のいい人間ではない。
 けれどそれも愛嬌かと思い、適当に相手をした。ただし、見た目とセックス以外で魅かれるような女は一人もいなかった。だから、誰一人長続きするような相手ではない。
 そのせいで多少悪い噂が立った。色んな種類の人間から目を付けられた。素行の悪い連中とも付き合うようになったし、先生から注意を受けたこともある。けれど逆にそのおかげで、自分の経験や視野も広がったような気はする。
 ただ、優等生を徹底することにも、非行を尽くすことにも、意義は見出せなかった。
 ちなみに、家庭や学校での環境や人間関係に不満があるわけでもなかった。言うなれば、不満の持ちようもないその状況が、不満だったのかも知れない。
 ほとんどが自分の思うとおりになるその全てが、つまらなかったのだろう。
 自分でも相当ひねくれた人間だと思う。
 そんなふうに思っていたとき、クラスメイトの亜矢子に、笑われながら言われた。
「それって、自分がつまらない人間だから何もかもがつまらないんでしょ? つまらない人間の周りには、つまらないものしか寄ってこないから」
 言われたときはカチンと来たが、結局この言葉がきっかけで、亜矢子と付き合うことになったのだ。
 実際彼女と付き合ってから、時間が経つのが早く感じるほど、楽しい日々が過ぎた。
 そして別れを切り出すには早すぎるほど、二人の関係は上手くいっていたはずだった。
「まあ、どっちでもいいけどね。俺は正直、お前たちが会うってだけでも驚きだけど」
「……そうかな」
 安部もタバコをもみ消したのを見て、三月は車の方へ足を向けながら首を傾けた。安部も後を着いてくる。
「それは、そうだろ。……それこそ、修羅場を見ることになっても俺は知らん」
「それはないよ」
 安部の杞憂を、三月は軽く笑って打ち消した。
 車にたどり着くと、鍵を開けて運転席に乗り込む。安部も乗り込んだのを確認してから、エンジンをかけ発進した。
 ……それは、ない。
 自分と亜矢子が元サヤに戻ることは、ありえない。それはお互いが、分かっていることだった。


 待ち合わせ場所の改札口に着いたのは、約束の時間の五分前であった。辺りを見回すが、亜矢子はまだ来ていないようだ。
 三月は近くの柱の下で亜矢子を待つことにした。そして十分も待たないうちに、亜矢子は姿を見せた。
 まっすぐな髪は肩に付くか付かないかの長さ、体の線は折れそうなほどに細い。けれども、その容貌は最後に見たときよりはるかに健康的に見えた。服はレースキャミソールにカーディガンを重ね、下は白のワイドパンツを合わせている。
「……隼人?」
 亜矢子はゆっくりと近付きながら、小さな笑みを浮かべて三月の名を呼んだ。久しぶりに彼女の声を聞いた。
 三月はなんとも言えない複雑な気持ちになりつつも、笑みを浮かべ返して亜矢子に歩み寄った。
「久しぶり」
 声をかければ、頷いてこちらを見上げてくる。
「……元気だった?」
「まあね。……そっちも大分良くなったみたいで、安心した」
「でしょ? もう、普通に出歩いていいの」
 二人はどこへともなく歩き出しながら、お互いの様子を伺うように話始めた。
 ただ亜矢子は、入院中や移植前後の体験談は話そうとしなかったし、三月も詳細を聞く気にはなれなかった。
 亜矢子とその家族は、三月が想像も出来ないほど苦しく大変な経験をしてきたのだろう。そして今も、その負担は大きく彼女たちに圧し掛かっていると思う。
 けれども亜矢子は、そういうことを一切口にする気はないようだった。
 病気が発覚した時にも、それを三月には言わなかったように。
 ……その理由は、三月には分からない。
 病気を明かすことによって、三月が離れていくのを恐れ、自分から別れを切り出すことにしたのか。それとも、自分が三月の負担になるのが嫌だったのか。ともかく彼女は、自分の病気に関して、三月が踏み込むことを拒否した。
 それは彼女の強さ、あるいは美徳だったのかも知れない。
 けれども三月にとっては、裏切り行為以外の何物でもなかった。そういうふうに思うことが、間違っていることだとしても。
 これから先、三月は亜矢子に心を許すことは出来ないだろう。


「そういえば隼人、彼女出来たんだって?」
 亜矢子が唐突にそんなことを聞いてきたのは、食事を済ませ、若葉通りのスター・バックスで最後の時間を潰しているときだった。
 自分と美紀が付き合い始めたときはかなり騒がれたし、亜矢子の友達から伝わったのだろう。
「……ああ、まあ」
 どんなふうに応えればいいのか分からず、三月は曖昧な返事をする。そんな返事を聞いて、亜矢子はぷっと吹き出した。
「やだ、変な遠慮はしなくていいよ。……私たち、今は友達でしょ? 元カレの今カノがどんな子なのかちょっと興味があるだけだし、普通に話してよ」
「……素直でいい子だよ」
 正直、亜矢子の心中は計りかねた。いくら今は、ただの友達という立場であるとはいえ、自分の方はそんな簡単に割り切れるものじゃない。
 亜矢子という人間は自分にとって、やはり友達ではない。あくまで、元カノなのだ。
「ふうん、当たり障りのない返事」
 亜矢子はちょっとつまらなそうに言って、口を尖らせた。それは、亜矢子のクセだった。三月が久しぶりに見るその顔に、少し笑いを漏らすと、亜矢子もすぐに笑顔になった。
「ごめんごめん、普通は話し難いよね」
 亜矢子は笑いながら謝ると、コーヒーのカップを両手で包みながら、少しの間黙り込んだ。どんなふうに切り出そうか、迷っているようだった。
 実際、再会してから二人は、当たり障りのない話しかしていなかった。けれど本当は、もっと大事なことを話さなくてはならないのだ。お互いに、話すべきことがあるはずだった。
「……実は私、今生まれ変わったような気分なの」
 亜矢子は三月としっかり視線を合わせ、はっきりとそう言った。
 正しく濁りのない、まっすぐな眼。亜矢子のこの眼に見つめられると、小さな嘘さえも見透かされてしまうような気がしていた。大きな病気でさえ、亜矢子のこの眼を濁らせることは出来なかったのだ。
「今回の病気で……私、本当に色々なこと考えたの。入院中も移植の後も本当に辛くて、なんで自分がこんな目に合わなくちゃいけないんだろうって、ずっと思ってた。こんな苦しい思いするなら、死んでしまった方がいいって思ったこともあるし、その分健康な人が本当に妬ましかった」
 亜矢子はその言葉の内容にしては、存外軽い口調で、話を続けた。
「沢山の人にお金を援助してもらって、両親も色んな人に頭下げて……。励ましてくれる人も沢山いたけど、正直、だったら代わってよって追い返したい気分だった」
 三月は、どんな相槌を打てばよいのか分からずに、ただ黙ってその話を聞いていた。
 亜矢子の口からこんな言葉が出てくるとは、思わなかった。
 何事にも冷静に、正しい判断をしてきた彼女。悪意のこもった言葉など、口に出すことは滅多になかったのに。
「正直、健康な人には会いたくなかった。……っていっても、ちゃんとした意識があったのは最初の頃だけで、あとはもう自分でも色んな感情のごちゃまぜ。しかも、微妙に霞がかってて、はっきりと覚えてないことも多いんだけど」
 亜矢子は今まで話さないよう我慢していたものを、吐き出すかのように喋り続けた。彼女の中で弱音を吐くことは何よりも、許されないことだったのだろう。たとえ病気であったにしても。
 けれど亜矢子は、晴れ晴れしい表情で独白を続ける。
「最初にはっきりと思いだせるのは、ある日目覚めたときに私の顔覗き込んでた、太った看護婦さんの顔なんだよね。外国人の顔の作りって何だか色々大げさで、正直びっくりした。でもその看護婦さんが満面の笑みを浮かべてね、本当に良かったって、手振り身振りで喜んでいるのを見て……なんか私、すっごい感動したの。その人は私と面識があったわけでもないのに、私の目覚めを無条件で喜んでくれてた。それを見て……今まで色んな人に悪意を持ってた私の心が、一瞬にして晴れちゃったっていうか」
 あまりにも清々しい表情で話す亜矢子を見て、三月は複雑な思いが膨らんだ。その瞬間に晴れ渡った彼女の心の中には、自分のことなど僅かばかりも残っていなかっただろう。
「とにかく、皆に感謝したい気持ちになった。今までの妬みが嘘みたいに飛んで消えちゃったの」
「……けっこう、単純なんだな」
 苦笑しながら何とかコメントを挟めば、亜矢子はやはり笑顔を浮かべて言った。
「そう、すごく単純なこと。看護婦さんも、ただ普通に、喜んでくれただけ。でもそういうことが人に与える影響って、本当に大きいんだなって。とにかくそのときに、病気で消耗した心の空洞に、すっごい綺麗な空気が入ってきたような気分でね」
「で、生まれ変わったみたいだって? でも亜矢子は、昔からそうだっただろ。いつでも正しかった」
 言えば、亜矢子は頭を横に振った。
「正しいって言っても、それは理屈なんだよね。本音が伴ってなければ、何の意味もないの。しかも物事って、正しい正しくないで割り切れるものじゃないし……」
 亜矢子は真っ直ぐ自分の眼を見て、言った。
「……だから私、今は自分に凄く自信があるし、凄く充実してる。それはある意味、病気のおかげだなって、今は思えるんだよね」
 そう言って笑った亜矢子は確かに、以前よりもより強く、魅力的な人間になったのだろう。
 けれど三月にとっては何も、変わっていないように思えた。
 確かに、病気のおかげで彼女の価値観や心境は変わったのだろう。けれど、病気のせいで失ったものには、何の未練もないのだろうか。
 少なくとも自分は、病気のおかげで、なんていう考え方は出来そうになかった。
 彼女の正しさや潔さは、自分には永遠に受け入れられないものだった。
「そう、か。……でも、本当に良かったよ。亜矢子が元気になって、本当に良かった」
「……うん。心配してくれて、本当にありがとう」
 別に、お礼を言われる筋合いはなかった。自分は彼女に対して、何もしてやれなかったのだから。
 三月は複雑な思いを押さえ込みつつ、ふっと笑って場の雰囲気を変えることにした。
「まあ、良かったんじゃないの? 俺も亜矢子が転んでただでは起きない奴だってことは知ってたし? 本当に負けず嫌いっていうか、なんていうかさ」
 茶化して言えば、亜矢子は一転不機嫌な顔を作りながら、抗議した。
「……なんかそれ、私のことけなしてる?」
 亜矢子が乗ってきたのを見て、三月は皮肉めいた笑みを作ると更に続けた。
「だって、そうだろ?……あ、思い出した。確か三学期の中間テストでもさ、俺に一点差で数Uのテスト負けたとき、わざわざ先生に抗議しに行ってさあ。途中式で三角貰って点数を上げてたもんな。……なんかセコイっていうかさあ」
「そ、それは別に、隼人に負けたからじゃなくて! 他の人が同じところで三角貰ってたからでしょっ。別にセコくはありません。ていうか、なんでそんなこと覚えてんのっ?」
「そりゃ、あの時の俺はお前の弱みとか欠点を探すのが趣味みたいなもんだったからな」
「何それえ、そっちこそセコイよ!」
 ふざけて振り上げた亜矢子の腕を避けるように、腕を掲げつつ三月は笑った。
 こんなふざけ合いが、また出来るとは思わなかった。けれど、それも何だか、虚しい行為に過ぎないような気がした。
 亜矢子は、肝心なことは何一つ言おうとしなかった。
 だから、三月も言うのを止めた。他愛もない話をして、笑顔で別れようと思った。そしてもう二度と、会わないことに決めた。


「……送ってくれてありがとう」
 三月は彼女を家の前まで送ると、礼を言う彼女に笑みを浮かべて見せた。
 彼女はこれから先も、強く正しく生きるのだろう。そしてそれが、彼女を魅力的に見せるのだ。
「元気でな。まだ色々大変だろうけど、頑張れよ」
「隼人もね」
 そうして、三月は踵を返した。もう、彼女には何の未練もない。彼女も、自分には何の未練もないのだろう。
 ……けれど、三月は最後に一度だけ、振り返った。
 五メートルほど先に、手を口元に当てて俯いている華奢な少女がいた。
「……あ」
 名を、呼ぼうとした。
 彼女は手を下ろし、顔を上げると口を動かした。声としては届かなかったが、三月は不思議と、その言葉を認識することが出来た。
 それは三月がずっと、欲していた言葉だった。
 亜矢子はそれを言い終えると、柔らかな笑みを浮かべた。
 けれどその笑みはもう、すでに自分のものではなくなっていた。





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<ちょこっとあとがき>
 急いで書いたので、まだ満足できるものではないかも。いつか改訂するかも知れません。
 三月の欲していた言葉はなんなのか。推測できるでしょうか。
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