「俺と元カノとつまらない未練。」






 ジャージの上下に身を包み、部屋を出た。
 階段を、ドタドタと音を立てながら降りれば、味噌汁の匂いがぷんと鼻につく。
 和室に顔を出せば、コタツの上にはすでに食事が並んでいた。




「いた〜きます」
 大賀武志は小さくそう言うと、箸を手に取った。
 ご飯に味噌汁、のり、卵焼き、焼き鮭。
 武志の朝食はいつも、和食だ。
 大学生の姉、祥子のための食事が目の前に並んでいるが、彼女はいつもパンにコーヒーの洋食派である。
 祥子の朝はいつも遅いから、食べる頃にはおかずのスクランブルエッグも冷め切っていることだろう。
 和食と洋食の二つの朝食を作らなければならない母は、専業主婦である。この頃はすっかり太って、立派なおばさんと成り果てている。
「武志、お弁当」
 殆ど呑みこむようにしてご飯を食べていると、その母が、包まれたお弁当を卓の上に置いてきた。
「んん」
 武志は味噌汁でご飯を流し込みながら、適当に返事をする。
 顔よりも大きなお弁当は、青いナプキンに包まれていた。けれど、かなりいびつな形である。包みの中にミカンも入れているからだろう。毎回のことである。
 武志は5分で朝食を食べ終わると、適当に歯を磨き弁当をカバンに押し込むと、ダウンジャケットを羽織って玄関を出た。
 瞬間、冷たい風がビュウと体に当たった。
 今日は寒い。
 三月の下旬。春休みに入って、数日が過ぎた。
 武志は大きな体を縮めて自転車にまたがると、力いっぱいに漕いで、いつものように学校へ向かった。




 武志は高校に入って、ラグビー部に入った。
 武志の通う高校は工業高校である。昔から頭の出来はよろしくない。
 けれど、この高校はラグビー部が強いのが有名だった。有名とは言え、県大会で良いところまで行く程度で、全国的に有名なわけではない。
 ただでさえ女が少ない工業高校で、更に男臭いラグビー部に所属してしまった。理由は特にない。ただ単に、がたいの大きさを先輩に見込まれて、無理やり入部させられたのだ。
 先月あった新人戦では、それなりの活躍をした。チームの皆とも連携が取れて、それなりのところまで勝ち進んだ。
 そして今、新人戦での反省を踏まえほぼ毎日練習に励んでいる。来週にはまた試合がある。それが終われば冬季合宿に入るから、本当にラグビー一色である。




「お疲れ様でした〜」
 マネージャーの小野恵子が、お茶の入った大きなやかんを、校庭脇のベンチに置いた。午前の練習を終えて、皆それぞれ休憩に入っている。
 恵子は武志と同じく一年生だ。数少ない女子マネージャーということで、それなりに皆親しくしている。
 髪を茶色くして、メイクばっちりの今時の高校生。
 けれど正直、恵子は武志のタイプではない。
「大賀ぁ、真面目に練習してる〜?」
 洗って何度も使用している、プラスチック製のコップを手に取って差し出せば、恵子はそんなことを言いながらお茶を注いでくれた。
「……や〜ってるよ、どこに目えつけてんだよ。頑張ってる俺の素敵な姿をしっかりと目に焼きつけとけ」
 ふざけてそう言えば、恵子は顔をしかめながら、笑みを見せた。
「はあ〜? やだよ、何で大賀の姿、目に焼きつけなきゃいけないのよ」
「まあ、あんまり見つめると俺に惚れてしまうからな。そこそこにな」
「誰が! つーか、ヒゲ剃れ! むさ苦しいよ」
 指摘されて、武志は苦笑した。そればかりは、本当のことだから仕方がない。
 高校一年生ながら、ヒゲは濃い方である。けれど、毎日剃っていたら肌が荒れてしまう。こう見えても、案外デリケートなのだ。
 武志はお茶を一気に飲むと、カップを回収用の箱に投げ入れた。
 汗を拭きながら一年生用の部室に戻ると、すでに何人かが弁当を広げていた。
 ラグビー部員の皆が皆、体格が良いというわけではない。が、今年の一年はほとんどはでかい。身長180cm近いのが4、5人もいれば部屋も狭苦しく感じる。
 武志が普段つるんでいるのも、この連中だ。街をぶらついていると、イヤでも目立ってしまう。
「お疲れ〜」
 言いながら部室に入っていけば、弁当を食べながらの適当な返事が帰って来る。
 武志は、パンにかぶりついている鈴木一成の隣に腰掛けた。もう大分痛んでいるパイプ椅子が軋む。
 一成の名前は、本当はカズナリと読むが、皆はイッセイと呼ぶ。武志とは中学からの仲である。昔から武志と同じく体がでかい。
「よ〜、イッセ〜。美味そうだな、それ。新商品?」
 一成が食べていたパンは、大きなピザパンで、贅沢に大きな具が沢山のっている。チーズもしこたま使われているようだ。
 武志も頻繁に使っている、高校の近くのパン屋のものだろう。
「ああ、そうみたいね。美味いよ」
 しばらくは、黙って弁当を食べていた。
 一成は早くも二個目のパンに齧りつき、500mlパックのカフェオレをたまに飲む。
 武志も、途中コンビニで買ってきたペットボトルのウーロン茶を飲んでいる。
 あれだけ汗を流せば、イヤでも喉が渇く。
「今度のオフ、何か予定入ってる〜?」
 あらかた弁当を食べ終えた時、一成が訊いてきた。オフとは、部活が無い日のことだ。ミカンの皮をむきながら、武志は一瞬だけ考えて、答えた。
「別に〜。決まってないけど?」
「んじゃ買い物付き合えや。さすがにシューズ買うわ」
 試合用のラグビーシューズは皆共通だが、ランニングやウェイトトレーニングなどの時は普通のシューズを使っている。
 一成のシューズは、先端のラバーがかなり剥がれていたので、皆に換えろ換えろと言われていたのだ。
「いいよ」
 特に予定も無かったので、武志は了解する。今度のオフは、確か2日後だ。
 ミカンを食べた後、適当にラグビー雑誌をめくっていたら、すぐに練習時間になってしまった。武志たち部員は、再びぞろぞろとグラウンドへ戻っていった。




「……おいおい、ちょっとこっちこっち」
 スポーツショップの一角、リストバンドを眺めていたら一成が動揺した様子でこちらに寄ってきた。
 動揺している割に、口の端には笑みも浮かんでいる。
「何だよ、どーした? 気持ちわりいな」
「いいから、こっち来いって」
 一成にジャケットの腕部分を引っ張られ、店内を移動する。
 どうやら、シューズ売り場の方に向かっているらしい。買うシューズはもう、決まったのだろうか。
「何だよ」
 売り場に向かう曲がり角で突然、一成は足を止めた。
 ジャージが並ぶ商品棚の影に身を寄せて、シューズ売り場を指差す。
 高校生くらいのカップルが、シューズ棚を見ていた。
「……何だよ」
 一成の意図するところがわからなくて、武志は怪訝そうな表情で三度目の同じ言葉を繰り返した。
「よく見れって。女の方」
 言われて、目を凝らした。
 女は男の向こう側にいて死角になっていたので、よく見えない。しかし、女が一歩下がった瞬間、武志は慌てて身を翻した。
 歩き去ろうとする武志を、一成が慌てて追いかけてくる。
「な、な? あれ、綾部さんだろ? 髪型だいぶ違ってたけどよ」
「……」
 武志は、何も言えなかった。
 まさか、こんなところで見かけるとは。
 中学の頃、あいつは郷土研究部に入っていたはずだ。しかも、ほとんど参加しない幽霊部員。スポーツショップで見るなんて、思いがけないことだった。
 一緒にいた男に付き合って、買い物に来ているのだろうか。
「あれ、彼氏かなあ? おい、武志、どこまで行くんだよ」
 逃げるようにして店の端まで歩いてきて、一成に止められた。一成は、にやにやと嫌な笑みを浮かべている。
 武志がまだ忘れられないでいることを、知っているのだ。
 綾部久美子。中学の時に、一年ほど付き合っていた。
「何で逃げるんだよ。声かけてくればいいじゃん。夏には一度会ったんだろ?」
 それは、それである。
 まさか男と一緒にいるときに、声なんてかけられないだろう。
 最近は全く途絶えてしまったが、夏頃まではまだ、たま〜にだがメールをしていた。海に行く話をしたら、彼女の方も友達と行くことになったというので、少しだけ会った。
 彼女の部屋に、リストバンドをずっと置き忘れていた。
 会ったのは、それを返すためだけだと、彼女に言われた。こちらとしては、ヨリを戻す気満々だったのに。
 それなのに、久美子は目的を果たすとさっさと去ってしまった。
 去り際に、こちらを見ていた男がいたのが、気になっていたのに。さっき一緒にいたのは、そいつとはまた別の男だった。
「あ〜、もうやってらんねえ」
 武志は顔をしかめて、呟いた。未練が残っているのは自分だけか。
「先に店出てるわ。……さっさと買って来いよ。俺、向かいの本屋で立ち読みしてるわ」
 武志はそれだけ言うと、足早に店を出た。
 一成はそれを面白そうに見ていた。




 家に帰って来てジャケットを脱ぐと、武志はゴロリとベッドに寝転がった。
 ジーンズの後ろのポケットに入れていた携帯が尻にあたって、痛い。武志は腰を浮かせて携帯を取り出すと、着信があるのに気がついた。
 着信履歴を見れば、小野恵子の文字。今から10分ほど前のことだ。
 そのまま、通話ボタンを押す。耳に当てて、2コール目で相手が出た。
「あ〜、もちもち?」
 ふざけて言えば、笑い声が聞こえる。
「何か用〜?」
『何してたの〜?』
「あ〜? 出かけてた。イッセ〜と、買い物」
 答えながら、窓側に寝返りを打つ。カーテン越しに夕日が差し込んでいた。
 部屋が、オレンジ色になっている。
「で?」
『あ、明日だけど、この前言ってた漫画忘れないでね、っていう確認電話〜?』
「あ〜〜、クロマティ高校ね……。忘れなけりゃ持ってくわ」
『だ〜から、忘れないように電話かけたんじゃん!』
 思ったとおり言い返されたので、武志は少し笑う。恵子は前から、CDや漫画を貸せ貸せと煩い。
 別に貸すのはいいんだけど。
 もしかしたら、自分に気があるのではないか。
 自意識過剰だと言われたらそうなのかも知れないが、もしそうだったら、面倒くさい。告白されても断るしかないだろう。
 武志はなるべくそういう機会を作らないよう、上手くかわしてきたつもりだ。
「分かった、分かった。んじゃ、そういうことで」
『……あ〜、うん、じゃ。本当に忘れないでヨ』
 恵子がそう言うのを最後に、武志は電話を切った。
 携帯を持ったまま、武志はしばらく天井を眺めていた。
 そして、再び携帯を頭上にかざす。携帯を持った手と、それに続く腕はすっかり黒い。部活が毎日あるから、冬でも日焼けしたままだ。それでも、夏に比べたら多少は白くなった方だろうか。
 武志は携帯のメモリーを操作する。
 綾部久美子の名は、すぐに表示される。ア行の、上から三番目。
 通話ボタンを押しかけて、もちろん止める。
 メールアドレスを押せば、メール作成表示に変わった。
 けれど、今更メールを送っても、返っては来ないだろう。むしろ、受信拒否にしていたら、ショックである。
 そもそも、何と送ればいいのだろう。今日、スポーツショップで見かけたことを、書くか。
 そんなことを書けば、一緒にいた男のことを暗に指摘することになるだろう。そんなの、向こうからすれば不快なだけかもしれない。
 ……つまらない未練を残しているのは、自分だけなのだ。
 武志は腕を下ろすと、そのまま携帯を床に落とした。ゴトリ、と音がする。
 あの後、一成は何も言わなかった。武志も何も訊かなかった。
 一成は、シューズを選ぶ時に、久美子と顔を合わせたかもしれない。そして、何かを話したかもしれないのだ。一成と久美子は、三年の時同じクラスだったから。
 本当は、気になって仕方ない。
 武志は身を起こして携帯を拾うと、着信履歴の中から鈴木一成の名前を探して、通話ボタンを押した。
 何回かのコールの後、相手が出る。
「……あ〜、もちもち?」
 やはりふざけてそう言えば、『あ〜、はいはい』と呆れたような声が返ってきた。
 面白くない男である。
『か〜かってくると思ったよ』
 そう言われて、やっぱり面白くなかった。
「うるせえ! ならさっさと話しやがれ」
『あ〜あ〜、そういう態度でいいのかなあ、君は。そんなこと言うんだったら、教えてやんないよ〜?』
「……すんません、お願いします」
 言い返すことが出来ずに、態度を改めてしまった。再びベッドに横になって、目を閉じる。
「何か、話した?」
『おう、ちょっとな。綾部さん、更に綺麗になってた。ありゃ、モテるわ』
「へええええええええ〜」
 複雑な気持ちで、そう返した。一成は笑う。
『彼氏〜? って訊いたら、否定してたよ。良かったな、武志』
「……」
 そんなふうに言われて、なんて答えていいのか分からなかった。
 けれど心中では、かなり安堵している。
『何か答えろよ』
「……いや〜、ねえ? きっと俺に未練がありありなんだな、あいつは」
 苦し紛れにそう言った。
 本当に、そうであって欲しいところだが。言ってて、空しくなる。
『綾部さん、陸上部なんだってさ』
「へえ、マジで」
『ちなみに、武志のことは何も訊いて来なかった。つらいなあ、お前』
「……一言余計なんだよ! ムカツクわ、お前」
 本当に腹が立って、武志は思わず電話を切ってしまった。やべ、と思ったが、まあいいやと携帯を手放す。
 しばしぼうっと天井を眺めていたら、携帯がふるえた。
 見れば、メールが受信されている。一成からだった。
『とりあえず、希望を持てや。嫌いになられたわけじゃ、ないんだろ? 応援してルー大柴』
 鼻で笑ってしまった。はっきり言って、寒い。が、こういう寒いギャグを入れるのが、自分たちの流行である。
 だが、余計なお世話だ。
 返すのも面倒なので、止めた。なんて返したらいいのか分からない。
 ……確かに、嫌いになられたわけじゃない、と、思いたい。
 高校が別れるから、と彼女は言った。
 それ以上の理由は言わなかったが、何となく、分かっている。
 自分が、彼女との付き合いをおろそかにしすぎたのだ。
 中学では、付き合っている生徒は多くなかったし、友達にからかわれるのがイヤで友達付き合いの方を優先していた。
 それに今でもそうだが、自分は電話やメールをまめにする方ではない。
 最初はもちろん長電話もしたが、親に文句を言われ控えるようになった。それに、その頃は携帯を持っていなかったから、メールも出来ない。携帯を買ったのは別れてからだ。
 買ってから早速、彼女の女友達に、メールアドレスを教えてもらった。
 気兼ね無しに送ってみたら、一日後に返ってきた。その時は、すぐにヨリが戻せるんじゃないかと、思い上がっていた。
 けれど、彼女は嫌がった。
 恋愛の価値観が違う、なんて、訳分からないことを言われた。
 時間が経つほど、執着する気持ちが強くなる。未だ、諦めきれない自分がいる。
 それでも、いつか、気にならなくなる日が来るのだろうか。
 正直、分からない。
 まあ、今はどっちにしろ、ラグビーの毎日で忙しいのだ。女と付き合っている暇はない。
 武志はそんなふうに、自分を納得させた。






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<ちょこっとあとがき>
 元カレ側に視点を置いてみました。
 当然ながらお互い未練タラタラなんですな。アホです。
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