「私と小田先輩とバスの時間。」






 バスを降りれば、夜明け前の湿った空気が肌をなぞった。
 澄んでいるような、淀んでいるような、不思議な空気。
 木村菜緒子は、見慣れた自分の街の駅前が、別世界のような気がして一瞬不安になった。



 女4人、男4人。
大所帯でのスノボー旅行はここで終わる。まあ、途中で二人が抜けて、今は6人になってしまったけれども。
 あの二人は、今ごろどうしているだろうか。
 一緒の布団で寝ていたりして……。
 そんなふうにちょっと恥ずかしい想像をし始めたところで、隣に降り立った綾部久美子が首の骨を鳴らしながら、「あ〜、肩凝った〜」なんて親父臭い発言をした。
「やっぱ、バスはダメだ、私。菜緒はどう?」
「ん〜、私もダメかも。何か疲れちゃったよね。ぼ〜っとする」
 そんなふうに応えながら、菜緒子は、どこか繕ったふうな笑みを浮かべた。
 本当のことを言うと、菜緒子は、久美子が苦手である。
 久美子のように美人で、自信があって、サバサバしてて、誰からも好かれるような人とは、まるで正反対の自分。
 半分は、嫉妬なのだけれども。
 今度は山下理佳に話し掛けている久美子を見ながら、菜緒子は小さくため息をついた。
「大丈夫?」
 ため息をついた直後に声をかけられて、菜緒子はドキリとしてその声の主を振り返った。小田裕也が人懐こい表情を浮かべて、こちらを伺っていた。もちろん先ほどのため息の意味を、小田が気づくはずもないだろう。
「あ、うん。大丈夫。小田先輩は?」
「ん〜。俺は案外平気かも。むしろバスに揺られてぐっすりと。俺ガキだからさ〜」
 おどけて言う小田の瞳は確かに、活き活きと輝いていて、疲れきった自分とは対照的だった。そんな小田につられて、菜緒子も、ふふふと笑ってしまった。
 小田は、人を和ませるのが上手いと思う。
 きっと癒し系なんだろう。何だか子犬みたいで可愛いのだ。
 って、先輩に対して失礼な話だけれども。
「さって、これからどうすっか。まだ始発動いてねえべ?」
 空になったバスが走り去って、残された乗客が四方に散ってしまってから、星野将行が仕切り始める。
 さすがに長男だけあって、こういうグループ行動を仕切るのが得意らしい。
 確かに頼りがいもあって、かっこいい人だと、菜緒子は思う。
「ファーストフードも開いてませんしねえ。……開いてると言ったらコンビニくらい」
 久美子が駅前を見渡しながら言った。
 朝早くの駅前には、昼間の喧騒はどこへやら、人影がほとんどない。
「俺は家近くだからいいけど。ていうか、皆ウチ来る?」
 小田が意外な提案をした。
「あ〜、いいの? 親は?」
「ん〜寝てると思うけど。別に構わないよ。ウチ子供多くて喧しい家だから、ちょっと人が増えたところで何も構わないの」
 小田は言いながら、荷物を背負い直した。
「ど〜する?」
 小田の提案に皆が迷っているうちに、携帯のメールを打っていた安部拓也が、顔を上げた。
 二泊三日のスノボー旅行の間、ほとんど会話する機会がなく、菜緒子にとっては謎の人だった。クールな人なのだろうか。
「あ、俺、兄ちゃんが迎えに来てくれるみたいだわ。乗っていきたい人いれば送るけど?」
「本当ですか? じゃ、私送って貰います。今日予定があるんで早く帰りたいんですよ。疲れてるし」
 結局安部の提案に久美子と理佳がのって、残った将行と菜緒子が小田の家にお邪魔することになった。
 安部と久美子と理佳を駅前に残して、三人は小田の家に向けて歩きだした。
 小田以外のメンバーは、大きな荷物を宅急便で送っていたので、身軽である。小田だけがボストンバッグとスノーボードを抱えている。
「……ちょっと、お兄さん、手伝おうとか思わないわけ?」
「俺がいつお前の兄ちゃんになったよ。……俺は、男を甘やかさない主義なの」
 途中小田が、将行に不満を言って、一蹴されていた。
 なんだかそれが気の毒に思えて、菜緒子が持とうとしたが、当然遠慮されてしまった。
 小柄な体で大きな荷物を抱えてる姿は何となく頼りなげに見える。
 人のことは言えないけれども……。



 小田の家は何だかこじんまりとした一戸建てだった。
 生活の匂いが家全体に染み付いている感じで、温かみがある。
 小田は家の鍵を開けると、口に人差し指を当てながら、ニ人を招き入れた。
 踏みしめるとギシっと音がする廊下を歩き、階段を昇ってすぐの扉をくぐる。狭いけれども、机とベッドとテレビ台がある程度で、圧迫感は感じられない。
「適当に座って? 俺なんか飲みもん取って来るわ」
 小田はそう言って、部屋を出て行ってしまった。
 青い絨毯が敷かれている床に腰掛けて、菜緒子は遠慮がちに部屋内を見渡す。青色の布団カバーにカーテン。壁には誰だか分からない格闘家のポスターが貼られていた。こういうのが好きなんだな、と思う。
 将行はまるで自分の部屋のように勝手が分かっているようで、部屋の隅に立てかけられていた折りたたみテーブルを取り出していた。
「小田先輩って何人兄弟なんですか? さっき多いって言ってましたけど」
 勝手にテレビをつけている将行に尋ねた。
 将行はリモコンで音を小さくしつつ、それに答えてくれる。
「弟2人の妹1人。そんなに多いって訳でもないよな。でも上の弟もまだ小4だから、喧しいのは確かだなー」
「そうなんですか。私、歳の離れた姉が一人いるだけなんで、羨ましいです。姉はもう家にいないから、一人っ子みたいなものだし」
「へえ、そりゃ寂しいな」
 テレビはつけたものの、早朝ではあんまり気をひくような番組がやっていない。将行はリモコンをベッドの上に放ると今度は床に落ちていた雑誌に手を伸ばした。
 Tarzanという雑誌である。
「うお、小田のヤツこんなん買ってんのかよ」
「え、どういう雑誌なんですか?」
「ん〜、肉体改造系?」
 言いながら、将行が雑誌を差し出してくれた。雑誌の表紙には、最近ダイエットに成功したアイドルの写真と、特集のタイトルが大きく載っている。「これからはデブ/ガリとは呼ばせない!」とある。
「え〜、何か面白そう」
「木村さんは、テニス部なんだっけ? 中学の時から?」
「いえ、全然。中学の時は文系の部活だったんで。いつもバテバテだし、下手だしで……」
 そんな会話をしていたら、手にペットボトルのウーロン茶とコップを持って、小田が部屋に戻ってきた。
「お待たせ〜。何か母ちゃんが起きちゃって、ちょっと手間取った」
「マジで? 大丈夫だった?」
「うん、でも女の子がいるから何事かと思ったらしい」
 言って、菜緒子の隣に腰を降ろした。その時菜緒子の足に小田の膝が少しだけ当たって、「わ、ごめんね」と謝られた。
 ほんの少しだけ当たっただけなのに、本当に申し訳なさそうな表情をしていて、逆に菜緒子の方が申し訳なくなる。
「え、大丈夫です」
 笑みを見せて言えば、小田はほっとしてペットボトルに手を伸ばしかけるが、今度は菜緒子の手にある雑誌に視線を移してギョッとした。
「げ、こんなん引っ張り出さないでヨ、恥ずかし〜」
「いや、お前が床の上に置いておいたんだろ。何、マッチョマンになりたいわけ?」
「あ〜はは、いや、何か俺、ひ弱そうに見られるんだもん」
「お前チビだしな〜」
「それは禁句だろ!」
 そんなやり取りを聞いて笑いながら、男も自分の体のことを気にするもんなんだなあ、と思う。女の子は年中無休でダイエットしてるようなものだが。
 ……でも確かに、小田の体はすっごく華奢で、足とかも自分より細いんじゃないかと思う。腕なんかも……。
「うわ、俺ガン見されてる? いや、これからだから! もうちょっと待って!」
「え? え? あ、ごめんなさい。そういうつもりじゃ」
「わはははは、なに、やっぱ木村さんも小田の体じゃ不満だって?」
「ち、違います!」
 顔が熱くなってくるのが自分でも分かった。
 なんだかとても失礼な女になってしまった気がする。
「あの、全然そんなことないです、小田さんは今のままで十分魅力的ですから!」
 言ったあと、一瞬、部屋がシーンとなってしまった。
「……いや、ナイスフォロ〜! ありがと〜!」
 そんな場を繕うように小田が親指を立てて、絶妙な笑顔を見せてくれた。
 それを見て、また将行が笑って、どうやら菜緒子の変な告白も紛れたらしい。
 菜緒子は赤面したまま、何を言って良いのか分からなくて、黙ってウーロン茶を口に運んだ。
 いつの間にかつけられていたエアコンによって、部屋の中は心地よく温もっていた。



「あ、バス来たみたいだから、俺もう行くわ」
 駅前にはもう、けっこうな人数が往来していて、始発ももうとっくに動き出している。
 将行は向こうの大通りをこちらに向かって来るバスを見つけ、乗り場に向けて歩き出してしまった。
 軽く手を上げたので、こちらも同じように手を上げて彼を見送る。
 将行がバスに乗るまで見送った後、「さて」と小田が口を開いた。
「木村さんの方のバスは、あと25分待ちだねえ」
「山のふもとだから、バスの本数少ないんですよね……」
 ため息交じりに言えば、小田は少し笑う。
「あはは、そっか。……んじゃ寒いし、駅の中で待ってようか。マックにでも入る?」
「いいんですか?」
「え? いいよ、全然。あ、でもバスの時間には気をつけてないとね。これ逃がすと今度は一時間待ちだからねえ」
「なんかすみません、疲れてるのに、つき合わせて」
 言えば、意外そうに小田が振り返る。
「いや、全然疲れてないし。何か木村さんていい子だねえ。そんなに気使わなくていいからさ?」
「あ、はい」
 それでも何だか申し訳ないような気がして、菜緒子は軽く会釈して小田の後に従った。
 小田の方が自分なんかよりよっぽどいい人で、この人が女の子にモテるのは当然のように思えた。


 マクドナルドの二階席に上がれば、客数はまばらで、ぱっと見る限りでは三組ほどしかいない。二人は階段からすぐの二人がけのテーブルにトレイを置くと、上着も脱がずに腰掛けた。20分だけだから、二人とも飲み物しか頼まなかった。
「……先輩は、県内のS大に決まってるんでしたよね」
「うん、まあね。宅通できるから気楽っす」
 小田はそう言って、口元にコーラを運ぶ。菜緒子はホットココアを頼んだ。まだ熱くて、飲めそうにない。
「すごいですよねえ。国立大に現役入学で」
「……いやあ、あそこ偏差値低いよ? ほら、アホな俺でも入れるくらいだから」
「ていうか、全然頭良いじゃないですか。……羨ましいなあ、これから大学生活、楽しみですね」
「まあ、ね。でも高校生活ももう終わったのかと思うと、けっこう切ないよ? 木村さんは思う存分高校生満喫してね」
「あ、はい。……ふふ、でも高校生を満喫するって、どんな感じですかねえ?」
「そりゃあなた、金パツにつけ睫毛、アイラインで目囲って、ギャル完成って感じ? いや、木村さんには似合わないだろうけど。なんか清純派だものねえ。いいよねえ」
「そんなこと、ないですよ。全然清純派じゃないし……」
 言いながら、ココアに息を吹きかける。
 湯気の向こうに、フラッシュバックが蘇った。
 ……強く引っ張られよろめく体、圧し掛かる大きな影。
「……でしょ?」
 小田の問いかけの声が聞こえた。
 それでハッと我に返って、小田の顔を見た。ふと、心配そうな顔になる小田の顔。まだ幼さが残る。
「……大丈夫?」
「あ、……大丈夫です。ごめんなさい。何ですか?」
「……いや、ごめん、何でもない」
 言って、小田はちらりと、時計を確認していた。
 つられて時計を見れば、あと10分ほどしかない。けれども目の前のココアからはまだ湯気が立っていて、なかなか飲める温度にまで冷めてくれそうになかった。
 実は先ほどから眠気を感じていて、何かを話していないと、またぼうっとしてしまいそうだった。
 それで、何となくぱっと思いついた質問をしてみる。
「先輩は……今、彼女はいないんですよね」
「え? あ、うん、そう。なあんか、残念ながらモテなくて」
 突然の質問に戸惑いながら、小田はわざとため息をつきながら答えた。
「……え〜? うそばっかり。いっつも女の子と一緒に居るじゃないですか」
「いや、それは完全に友達なんだよね〜。しかもなぜか、彼氏がいる子ばっかり。そしていっつも相談受けてるの。俺は駅前の恋愛相談所ですよ」
 そう言っておどけて笑う小田は、確かに、優しそうで誠実に相談にのってくれそうに見えた。
「……前の彼女は?」
「え、ああ。ん〜、そうね。二年の初めに別れたっきりかな」
「どのくらい続いたんですか?」
 遠慮なく聞けば、戸惑いながらも、答えてくれた。
「え〜、二年、半? かな?」
「長いですね〜、中学の時から付き合ってたんだあ。……でも、どうして、別れたんですか?」
「……ん〜、なんか、うん。何となく、上手くいかなくなってねえ」
 小田は凄く喋りにくそうで、結局理由はにごらされてしまった。
 いきなりこんな質問されれば、誰だってそうだろう。しかも、菜緒子と小田とは最近会ったばかりなのだ。
「木村さんは?」
「え〜、私は、全然。今まで彼氏出来たことないですもん」
「へえ、それは意外」
「全然です。……私昔から少し貧血気味で学校も良く休んでたし、体育とかでも、いっつも見学してる子だったから」
 ようやく、ココアが一口飲めた。甘いココアが口内を満たす。
「そうなんだ……。でも、じゃあよくテニス部に入ったねえ」
「なんか、高校に上がる頃には大分健康になってきたし、少しくらい運動した方が良いって親に言われて。でも見学してることが多いから、全然上手くなれないんですよお」
「ん〜、でも仕方ないよね。無理しない方がいいだろうし。木村さん体ほっそいからなあ」
 言われて、俯く。
 自分でもこの体は嫌いだったから。胸も全然ないし、腕や足が骨ばってて、女らしさのかけらもない体。
「あの、」
 口を開きかけたのと同時に、小田が再び時計を見た。
「あ、ごめん、何?」
 バスの時間まであと5分だった。菜緒子は何でもない、というふうに頭を振ると、ココアを数口飲んで、トレイに戻した。
「……もう、時間ですね、行かなきゃ」
「だね。……それ、もういいの?」
「あ、はい。いいです、持ってくの面倒臭いし……」
 言えば、小田は頷いて、トレイを返却ボックスに運んでくれた。
 菜緒子は急いで立ち上がると、その後を追う。
 小田はトレイを片付け終わると、階段で菜緒子を先に促した。階段を降りて店の外に出ると、冷たい風がびゅっと吹く。
 店内の暖かさが恋しい。
「そういえば、さっき言いかけたことってなんだったの?」
 バス停に足を向けながら、小田が尋ねて来た。
 あの時は勢いで言いかけてしまったが、今考えると恥ずかしい質問だったので、それには答えられなかった。
 菜緒子は何となく誤魔化して、足早に歩く。
バス停にたどり着いて、バスがまだ来ていないことを確認すると、菜緒子は小田に向き直ってぺコリと頭を下げた。
「付き合って貰って、有難うございました」
「いえいえ、こちらこそ楽しかったです」
「……ほんと、ですか? つまらなくなかったですか? 何か、色々遠慮なく聞いちゃったし……」
「うん、楽しかったよ。今度また、色々話そうよ。木村さんが良ければ、だけど」
「あ、はい」
 菜緒子は何となくほっとして、笑顔を浮かべた。それを見て、小田もにこっと笑みを浮かべると、両手をオレンジ色のダウンジャケットのポケットにつっこんだまま、ベコリと頭を下げた。
「じゃあ、帰ったらゆっくり休んでください」
 頭を上げて、また、笑顔。
「はい、小田先輩も」
 バスが来た。
 バスに乗って別れてしまうのを名残惜しく思ったが、菜緒子は諦めてバスに足を向けた。
 小田が笑顔で手を振ってくれる。
 バスに足をかけながら手を振り返そうとして、何だか無償に泣きそうになって慌てて顔を正面に戻した。上げかけた手で、歪む口元を覆う。
 心配そうな運転手さんの顔がちらりと見えた瞬間、腕がぐいっと引かれた。
 バランスを失って、ふかふかしたオレンジ色の中に倒れこむ。それを、しっかりと支える腕。ジャケット越しに感じる暖かく、頼りがいのある体。
「すみません、次のにします」
 きっぱりとした声が、頭上で聞こえた。
 菜緒子は、溢れ出した涙を無理に止めようとすることを、やめた。





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<ちょこっとあとがき>
 きゃ〜、このまま二人の恋愛始まってしまう!? な感じの終わりにしてみました。
 でもまだこの二人が付き合うのかは、分かりません。
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