1.



 この世界には何故神がいるのだろう。
 そもそも神とはなんだろう。
 この世界には様々な宗教があるけれど、その宗教にかかわらず、人々は思う。
 この世界を、宇宙を、その最初の起点を生み出した者は誰なのだろう。
 この広い宇宙に生物を生み出せる星が存在したのも、そこから生物が進化したのも、人間が誕生したのも、全ては科学的に説明できるけれど、その最初の起点だけはただ「起こったのだ」としか言えないではないか。
 偶然だとは言い切れない。
 だからこそ、神は、神たるものは存在するのではないか。
 それは宗教の世界とは異なり、人に恵みを与えず、教えも説かず、免罪もしない。
 ただ、それは存在するだけの……




 神崎葵は今年二十歳になる。
 葵は県内で上から二番目の県立高校に通い、テストはともかく何故か良かった内申を武器に、それなりに知名度の高い国立大学に推薦で合格した。
 大学に入ってから、昔から抱いていた大学への憧れや新生活の理想像も打ち砕かれ、あっという間に一年間が過ぎてしまった。入ったサークルはなぜか途中で自然消滅し、それ以来他のサークルにも入りそびれた。面倒な寮祭や学園祭への参加も特にしなかったため、交友関係はそれなりにあるものの、深くは無い。周りの皆が友達同士で旅行に行ったりするのを羨ましいと思いながら、そういった交友関係を作りそびれたことを後悔したりもしていた。
 春休みの終盤、一年間住んだ寮からマンションへ引っ越した。時期的に遅くなったのが幸いしたのか、ぎりぎりで新築のマンションが見つかった。値段も手ごろで、トイレと風呂が別れており洗面台まである。いわゆる1Kの一人暮らし用の部屋だが、不満といえばオートロックなのにモニターがついていないことくらいだ。
 葵は引越し屋の単身パックで荷物を運んでもらうと、一人で荷を解き、部屋を整える。前もって買っておいたカーテンや照明もつけ、ガスや電気、水道などの手続きを済ませると、辺りが完全に暗くなる前に部屋を出た。
 このマンションから自転車で5分のところにコンビニがある。ガスが開詮するのは明日なので、今夜はコンビニの弁当で済ませようと思ったのだ。
 もう春だと油断して薄着で部屋を出たら、案外風が強く、思わず身を振るわせた。上着を取りに行くのも面倒だ。より寒く感じる事になる自転車で行くのと、時間はかかるが歩きで行くのと少し迷った。
 自転車の前で悩んでいたのはほんの数分のことだった。
 葵は自転車の鍵を差し込むと、ペダルに足をかけ地を蹴る。そうして自転車にまたがると、自転車の変速を重くし、力いっぱいこいだ。自転車を猛スピードで走らせると、耳は千切れそうなほどに冷えて、葵は内心後悔した。一食くらい抜いても良かったのだから、部屋でテレビでも見ていれば良かった。
 とはいえ、一度出てしまったものは仕方ない。とにかくさっさと買って、急いで戻ろう、葵はそう思って目の前の角を曲がった。
 その次の瞬間、葵はぎょっとしてブレーキを握り締めながらハンドルを切った。曲がった先の目の前に人影があったのだ。普段は曲がる時は用心してスピードを抑えるのだが、今日は急いでいたため勢い良く曲がってしまった。この角は片方が下りになっており、そして角の向こう側は視界に入らないため、自転車同士の接触が特に多い。だが相手が歩行者となると、責任は葵にかかってくる。
 間に合わないと、葵は思った。
 自転車の倒れる音と、そして自分が倒れた衝撃で何がどうなったのか分からなかった。けれど恐らく、歩行者は自転車に突き飛ばされた事だろう。運が良ければただの打ち身くらいで済むが、もし頭を打ったら。そして相手が老人とか、子供とかだったら。
 葵は自分の事も忘れて、頭を上げてその相手を探した。だが地面近くを見たところ、人は倒れていない。そして視線を上げてみれば、少し離れた所に長身の青年が立っていた。
「大丈夫か」
 暗がりで顔は見えなかったが、その声は若く、落ち着いた様子でこちらに歩み寄って来る。
 その時点でようやく気が付いたが、自分の下半身は自転車の下敷きになっており、足は変なふうに曲がっていた。それを少し動かせば激痛が走った。その痛みに言葉を失う。
 しかし葵はほっとした。相手が避けたのか、それとも自分の方が相手に接触する前に転倒したのか、ともかく事故は避けられたのだ。相手がけがをすれば賠償責任とか何とか、よくは知らないが恐らくそういうものが生じる。それだけは避けたい。
「おい、大丈夫かって」
「あ、はい。すみません」
 その青年は葵の上の自転車を引き起こすと、脇の方でそれを立てて置いた。そして、葵の方に向き直る。葵は強く捻ったらしい左足を庇って片足で立つと、改めてすみません、と言った。
「いや、俺は何ともないから。そっちは大丈夫なの」
「はい、たぶん。家も近いので」
 少し人見知りする性質の葵としては、もうこの人と別れたかった。本当は涙が滲むほど痛かったが、とにかく一人になりたかった。
「じゃあ、私はもう行くので。本当にすみませんでした」
 葵は足を引きずりながら自転車のハンドルを掴むと、それを杖代わりにして自転車を押し歩き始めた。
 けれど途中で、それがコンビニへ行く方向だと気がついて立ち止まる。手や足は擦りむいていても服を着ているからいいとして、実は頬もアスファルトで軽く擦ったのだ。触ると痛いし、確実に擦り剥けて紅く血が滲んでいるに違いない。
 今は辺りが暗いから目立たないにしても、コンビニは必要以上に明るく、人前で見せられるような状態ではないだろう。
 葵はため息をつくと、自転車を押しながらUターンをした。そして、ぎくりとする。
 先ほどの青年がまだ立っていて、こちらを見ている。
 葵は気まずくなりながらも、うつむいたまま、その青年の横を通りすぎた。
 青年は何も言わなかった。


 部屋に戻って鏡を見ると、想像以上に酷い状態であった。頬は十円玉大に、また手の平は広範囲で擦り剥け、血が滲んでいる。足の方は、ズボンの左ひざの部分に穴が開いてさえいる。脱げば脛の辺りまで血が滴り落ちていた。
 葵は大きくため息をつくと、風呂場で傷口を洗い、救急箱を取り出すと消毒しガーゼをテープで止める。問題は足首の方だ。どう捻ったのかは知らないが、知らぬ間に大きく腫れ上がり痛みも増している。先ほどから右足で跳ねて移動しているくらいだ。
 とにかく湿布だけ張ると、様子を見る事にした。学校が始まるのはまだ10日ほど先だし、その頃には完治しているだろう。
 葵は下半身下着だけのまま、座椅子に座り込んでテレビをつけた。
 そうして特に面白くもないバラエティ番組を見ながら、ふと考える。
 あの、ぶつかりそうになった青年。暗かったし、人の顔をあまりじろじろ見るのも何なのでよくは分からなかったが顔は整っていたと思う。髪は・・・多分茶髪、いや金色に近かったのではないだろうか。暗がりの中でも髪だけは白っぽく明るく見えた。背はおそらく180センチはあっただろう。あの寒さの中長袖のシャツだけで、下は恐らくジーンズだった。
 それより、一番不思議なのは彼がどうやって衝突を避けたかということだ。自分はあの瞬間、ぶつかる事を確信したのだ。でなければ自分はあんなに焦って急ハンドルを切らなかった。
 危険を避けて瞬時に後ろに跳びすさることは出来るのだろうか。相当の動態視力とか反射神経がないと出来ないだろう。
 そこまで考えて、まぁいいやと葵は思う。どうせもう会うことはないだろう。

 深夜、葵はベッドの中に入って眼を閉じたものの、何時間経っても眠れず目を覚ました。空腹感も手伝って、目は冴えきっている。葵は寝ることを諦めてベッドから起きあがった。部屋の電気をつける。何となく冷蔵庫を開けてみるが、引越しのために食材は使い切っていたので、そこには調味料くらいしか入っていない。葵はため息を吐いてから、冷蔵庫の扉を閉めた。
 葵はカーディガンをパジャマの上から羽織ると、ベランダに出た。
 葵は、昔から夜空を見るのが好きだった。そこには小さく瞬く星たちや、強く光り輝いている月がある。何も考えず空を見上げていることが好きだ。全くの無意識で、心は静まり時間はゆっくりと流れていく。
 そうしてどのくらい過ごしただろうか。
 葵はさすがに寒さを感じて、部屋の中に戻ろうと視線を下げた。
「えっ」
 思わず声を上げて、葵はビクリと体を上下させた。
 そこにはあの青年が立っていた。
 先ほどとは違って、何故かこの月の光の下、青年の顔がはっきりと見えた。
 葵は声を上げることも出来ずに、その場に立ち尽くした。
「よぉ、眠れないみたいだな」
 葵の心境とはうってかわって、青年は人懐こい笑みを浮かべてそう話しかけた。葵の立つベランダの元に二、三歩歩み寄りながら。
 青年は、葵にとって今まで見たこともない不思議な顔をしていた。外国の血が混ざっているようでもあり、しかし見方によっては純粋な日本人にも見える。とにかく彼は美形だった。
 背は高く、太っても痩せてもいない。服装は先ほどと同じ、白い長袖のシャツとジーンズ。真っ先に目が行くのはその髪だ。彼は茶髪でも金髪でもない。それは白髪だった。月の光を浴びて、かすかに光っている。
 こんな真夜中、自分の部屋の前に立つこの青年に、葵は少し恐怖を覚えた。ストーカーとかそう言うものではないだろうが、彼は明らかに異質で、奇妙だった。
「頬の傷、大丈夫か?」
 葵は動こうとしない自分の体を叱咤して、そして急いで部屋へ続く窓を開けた。
「待てよ。何かをしようってわけじゃない」
「な、何ですか? 私、もう寝るんですけど」
「ああ、じゃあいいや。ちょっと聞きたいことがあったんだけど」
 まさかこの時間に道を聞こうってわけでもあるまい。けれど、そう言われて葵は青年の方に体を向けた。
「……私で分かることなら」
「サンキュ。あのさぁ、この辺りに何か、こう、神を祭るものはないかな。遺跡とか、何でも」
「神社ならこの近くにあるみたいですけど。何個か」
「ああ、神社ね。どこ?」
 青年は自分を見上げたまま、尋ねる。
 何なのだろう、この動悸は。恐怖でも緊張でもない。ましてや恋とかそういうものでもないだろう。とても不思議な感覚だった。常識と非常識、日常と非日常の狭間にいるような、そんな感覚。
「えっと……言葉で説明するのは難しいんですけど……この道を……」
 葵が戸惑いながら要領を得ない言葉で説明していると、青年は少し怪訝そうな顔をして、そして更にベランダの方に近寄って来た。
「何? 聞こえない」
「えっと……」
 葵は更に困ったような顔をして黙り込んだ。道を説明するのは苦手だ。自分の足で歩いていくのならともかく、言葉で説明するのは至難の技だ。この辺りには目印になるような物も少ない。
「ま、いいや。後は自力で探すよ。近くにあるにはあるんだな」
「すみません、うまく説明出来なくて」
「いや、そもそもこんな時間に道を聞くっていうのも非常識だったからな。じゃあ、これで」
 青年は、少し笑みを浮かべると、踵を返し歩き出した。
 葵はそれを見送りながら、一緒に行って案内をしてあげようかとも思ったが、それは危険なのでやめた。
 彼が何者なのかは全くわからないし、そもそも案内先が神社なんて人気のない場所であるなら余計に自重すべきだろう。
 いつも親に言われてる。お前は常識がなさすぎるって。社会を知らなすぎるって。



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