2.



 翌朝、午前中にガスの開栓を済ませた葵は、暇を持て余して外出することにした。
 昨日あの青年に心配された頬の傷の上には、大き目の正方形のカットバンが張ってある。少し恥ずかしい気もするが、仕方ない。傷自体はかさぶたになっている。
 葵はウインドブレーカーを羽織って、自転車を漕ぎ出した。昨日転倒したせいで籠が変に潰れているが気にしない。元々この自転車は、高校入学の際買ってもらったもので、大分古びて傷だらけだ。
 葵はいつも使っているスーパーに向かった。ここから大体二、三キロメートルはあるだろうか。
 スーパーのある辺りは、大きな薬局やクリーニング店、美容院、本屋などが並んでいて、この片田舎にしては多少開けている。この市には電車の駅がないせいか、商店街やデパートと呼べるものがなく、都会方面からやってきた人にとっては退屈で仕方ないだろう。けれど葵の実家は、ここほどではないがやはり田舎に近い場所にあるので、あまり不満はない。
 スーパーに行く途中、ふと葵は気になって自転車の向きを変えた。
 葵のマンションから一番近く、そして昨日拙いながらも道順を教えようとした、神社。大通りから外れて、畑の間の細い道を通り、何度か角を曲がってそれは見える。
 古く、小さな神社で何を祭ってあるのかも知らない。隣接してこれも小さな公園があった。
 境内の土は固く、湿っていてそして辺りは薄暗い。鳥居は表面が剥げ落ちて、紅い色が少し残っている程度だった。社は濃茶の古い木で出来ていて、古いしめ縄がかかっている。鈴はない。壊れかけた小さな賽銭箱が前に置かれている。
 葵は自転車から降りると、少し神社の中を覗き込んだ。そこには誰もいなく、静まり返っている。自転車を鳥居の傍に置いて、境内に足を踏み入れた。
 上を見上げると、新緑の葉が日の光に照らされて揺れている。その葉は幾重にも重なっているので、結局その下の地面には光がほとんど届いていなかった。
 葵はぐるりと辺りを見まわしてから、そこを離れた。特に変わったことはなかったし、人が来るような気配もない。この神社は誰が所有しているのだろう。神主みたいな人はいないのだろうか。
 葵は再び自転車に乗ると、公園の前をすれ違って向きを変えようとした。
 そして、見つけてしまった。
 ある一種の期待を込めてここに来てしまったのかもしれないのだが、まさか本当にいるとは思わなかった。
 その青年は、公園に二つしかないベンチの一つに横たわっていた。足がはみ出て地面についている。頭の下に両手を組んで、瞳を閉じていた。服装は昨夜のままだった。
 まさか、と思う。まさか昨夜ここに来てそのまま夜を明かしたのだろうか。
 葵は自転車ゆっくり自転車を降りると、そのままその自転車を引いて公園の中に入り、青年の元に近づいていった。かすかな風が、青年の髪を揺らしている。相変わらず少年の髪は白い。いや、もしかしたらこういう髪の色を、外国では銀髪と表現するのかもしれない。
 明るいところで見た彼の顔は相変わらず綺麗に整っている。テレビで見る俳優や、人気のあるジャニーズの男の子の誰よりも綺麗で、格好良かった。
 そうしていると、すっと彼の目が開いた。
 彼の目は躊躇なく葵の視線とぶつかり、そしてそこから離れなかった。葵は慌てて視線をそらし、何か言おうと口を開いた。
「あの、神社、分かったみたいですね」
 葵は何となく神社のある方を見て言った。しかし公園からは高い木々に遮られて鳥居すら見えなかったが。
「まぁね」
「昨日の夜からずっとここに?」
「ああ、他に寝るところなかったし。とりあえずね、疲れてたし」
 青年は起きあがると、少し長めの前髪をかきあげて欠伸をする。
 ふと、その手の親指に、幅のある指輪がはまっているのが見える。それは薄桃色の水晶で出来ているように見える。例えるなら古墳から出てくる服飾品のようなもの。今流行っているものでもなく、若い人がつけるには少し違和感を覚えるものだった。
「昨日はどうも」
「あー、あの後少し気になって……でも、寝るところがないって……」
「…それ、痛そうだな」
 青年は言って、葵の頬のカットバンを指差す。葵は思わず後退って、そしてその頬に手を当てる。
「あ、これはもう、だい……いぃぃ」
 大丈夫だと言いかけた葵の頬を、青年の指が強引に強く押した。葵はそれを避けようとする反動で、バランスを崩し、支えていた自転車ごと倒れ掛かる。
 その葵の腕を青年が支えてくれた。
 ガシャンと、自転車だけが倒れる。
「な、何を……痛いじゃないですかーっ」
「痛い? まだ痛い?」
「え……?」
 言われて、葵は手を頬にやった。カットバンの上を強く押してみるが痛くない。カットバンをそっと剥がして指でなぞってみても、かさぶたのざらざら感がなく、そこには何の傷もなかった。
「なんで……」
 葵は恐る恐る青年の顔を見た。青年の顔は笑っている。
 葵は青年に腕を捉まれているのに気がついて、それを振り払った。
「ま、そういう反応が妥当かな」
「は? これ、どう言うことですか?貴方、何をしたんですか」
「……貴方とか言うなよ。敬語もやめろ。俺のことはセツって呼べよ。お前は?」
 何だか突然馴れ馴れしくなったような気がする。
「神崎、葵」
「アオイか。ふーん。というわけで、これからよろしくな」
「……はい?」



「で、どこに向かってるわけ?」
「……うるさい!」
 葵は風を切るかのごとくに自転車をとばして、道を急いでいる。セツはといえば、後ろの荷台に後ろ向きに跨って空を見上げているようだ。
 二人乗りで漕ぐのが苦手な葵が、なぜふらつく事もなく全速力で漕げるかといえば、それはセツの体重を感じないからだ。
 葵が思うにセツはかなり万能な「超能力者」だ。葵の傷を治したかと思えば、目の前で宙に浮かんで見せた。葵は一瞬眩暈を感じた。
 ここはマンガの世界だろうか。それとも夢を見ているのか。あの眠れなかった夜、本当は自分は寝ていて今夢を見ているのだ。夢の中で痛みを感じたっていいじゃないか。風を感じたって、息が切れたって……
 気づけば、葵はスーパーの前にいた。
 これが、今日の本当の目的だった。
「突然無言で自転車に跨って、どこに行くのかと思えば…」
「あ、あんた何な訳っ? 私は……」 
 そこまで言って言葉を途切らせた葵は、大きく息をついて、俯いた。
 自分の足と向かい合って、セツの足が見える。コンバースのデッキシューズだった。
 通りすがる人の視線がこちらを向いていることは、嫌でも分かる。俯いたまま、葵はセツに問いかけた。
「なんで私についてくるの」
「お前が説明を聞こうとしないからだろ」
「あんた何者?」
「だから、俺は……」
 セツは説明しかけて、先ほどの葵に負けない大きなため息をついた。
「ごめん、俺のホントの名前はタカノヒロキ。……一人旅をしているんだ」
「……え?」
「葵とは縁があるように思えたから、少しからかった。……悪かったな」
 セツはそう言って、手を動かした。葵は反射的に後ろに避ける。
 その手に触れれば、セツとの関係が全て終わるように思えた。それが、なぜか怖かった。
「今更そんなこと言って、ごまかさないでよ。……ごめん、ちゃんと話を聞くから、ちょっと買い物につきあってよ。自分の部屋に帰ってから説明してもらう」
 葵が言えば、セツは口の端に笑みを浮かべて頷いた。


 買い物の最中、目立つとの抗議を受けたセツは、例の万能の「超能力」で髪を黒く変え、今はそれほど違和感がない。葵は驚くより先に呆れてしまった。「白い髪は生まれつきか」と問えば、セツはそうだと答えた。本当は瞳も色が異なるそうだ。それはありえないはずの色なのだそうで、さすがにまずいと思って黒くしているらしい。
 ではなぜ髪の色は変えなかったのだろうか。「白髪は別に珍しくないだろ」とは彼の説だが、それはないと思う。年をとっているならともかく。
 葵はそれから一通り買い物をすませると、再び自転車を走らせてマンションの部屋に戻った。
 玄関先で何分か待たせた後、セツを部屋に招き入れる。セツを適当に座らせ、葵は湯を沸かしてお茶を淹れる。それをコタツのテーブルに置いた後、姿勢を改めて彼の方を見た。
「それで、あんたは何なの?」
「……そうだなあ、何から話せば良いのかな」
 セツはマグカップに入った緑茶に、息を吹きかけながら話す。
「まず、俺は人間じゃない」
「……」
「うわ、ひどいなあ、その疑いの視線」
 セツは苦笑しながら言った。そしてお茶をすする。
 それにしてもひどい出だしだ。「人間じゃない」って、そりゃあんな力を見せつけられたら妙に納得してしまうが、ではセツは何だというのか。
「じゃあ、俺の目的から話そうか。俺は今、“サナ”を捜しているんだ」
「サナ? 人の名前?」
「うん……いや、人というか、そういう存在というべきかな」
 セツはそういって、話し出した。それはとても長い話だった。



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