21.
ドン、と大きな衝撃が葵の身体を貫いた。
そして、その身体を受け止めてくれるセツの腕。大きな衝撃波は、葵の身体を貫いて、そして辺りに波紋を広げた。
何かが崩壊していく音が聞こえる。
ものすごい轟音が響き渡り、白い光と、破壊の情景が混雑した。
整然と並んだビルがなぎ倒され、倒壊する。人々や車が衝撃で巻き上がり、ガラスの破片が宙を舞う。
「ア、オ……! イ……!」
自分の名を、叫んでいるセツの顔が見えた。
白い髪、そして瞳は、紫紺だ。綺麗な色だと、ぼんやりと思った。
自分の身体を貫いた衝撃が、何だったのかは分からない。けれど、酷く苦しかったのは一瞬で、あとは、何の痛みも違和感もなかった。
感じるのは、セツの鼓動と、暖かさ。
自分を心配そうに、そして辛そうに見下ろす、秀麗な顔。
「セ、ツ……」
呟いて、願った。
どうか、セツが、私の前から消えませんように。
何もかもが、夢だったらいい。
そしてセツは、人間として、私と一緒にいてくれたらいい。
願うのは、一つだけ。
目が覚めたら、きっと、隣にはセツがいてくれる。そして暖かな手で、頬を撫でてくれる。
そんなことを、霞みがかった頭の中で、思い描いていた……
中指が、熱い。
セツから貰った、薄桃色の石の指輪。
それが、今、まるで焼けているかのように熱かった。それは痛みを伴って、葵を苦しめる。外したいけれども、外れない。ぴったりと、指に収まったまま。
まるで、指と一体化してしまったかのようだ。
「……とにかく、彼女たちが目覚めないことには……」
そんな声が、聞こえた。
すでに、聞きなれた声。天木亮介の声だ。
「そうですね。……じゃあ、私はこれで。色々荷物を持って、また来ます」
「ああ、頼むよ」
はっきりと聞こえるそんな会話。女性の声にも聞き覚えがある。天木家の家政婦さんの声だ。
葵は瞳をぼんやりと開いて、焦点の定まらない視線を何とか、一人の人影に向けた。
グレーのスーツ姿の亮介が、家政婦が出て行くのを見送っている。
「……あ」
天木さん、と言いかけて、声が思うように出せないことに気が付いた。
けれども、その声で亮介が気付いた。
「……ああ、良かった。目覚めたか。……このまま目覚めてくれなかったらどうしようかと思ったよ」
亮介はそう言って、こちらを覗き込んでくる。
葵はようやく視界がはっきりとしてきて、それで、少し身を起こした。
「あ、大丈夫? まあ、一応身体は何ともないらしいけれど。……でも、あんなことがあった後だしな」
「……もしかしてここ、病院ですか?」
少しかすれてしまったけれども、今度はちゃんと声が出た。
亮介が頷きながら、水を差し出してくれる。
それを飲み干してから、亮介を改めて見上げた。
「一体、何が起こったんでしょう……」
「それはこっちが聞きたいね。……あの後、白く光ったと思ったらあとはもう、君と玲菜が倒れているだけ。街も、元通り」
「……えっ、も、元通りって、そういえばビルとか倒壊してませんでしたっけ……?」
「……だよねえ。俺もそういうイメージが頭に残ってるんだけど、どうやら幻覚だったらしいな。人や車が動かなくなってたなんて、夢みたいな話だ」
それを聞いて、葵は沈黙した。
全てが夢だったとは思えない。行動を共にした、亮介もいる。
……そして。
「玲菜は……」
「ああ、隣のベッド。……まあ君と同じように、そのうち目覚めるだろ」
葵は、隣のベッドに視線をやった。
少しやつれた感じの玲菜が、横たわっている。
特殊な環境下で育ち、父も、母も姉も無くし、そしてサナを産み出した。
人間が嫌いだと言った、華奢な女子高校生。
「……これ以上人間が増えると、世界が壊れてしまう」
「え?」
突然何を言い出すんだ、と亮介の表情が言っている。
葵は少し笑って、続けた。
「玲菜が、言ってた言葉。人間は、神にとって病なんだって。精神の、病……」
「それは、どういうこと?」
亮介はまるで分からない、というような表情で葵に尋ねた。
けれど、葵にも分かるはずもない。葵はただ、頭を横に振った。
「神って、俺にはピンと来ないけどさ。まあ、存在するとして、でも俺たちは神の被創造物じゃないか。病気扱いされる筋合いはないね」
「……そう、ですよね」
けれど、何かが引っかかる。
戦いを憂いたサナと、サナを追うセツの存在、そして神の調律……
これらが一切、意味の無いことだとは思えない。
では、何を意味するのだろう。
「セツは……?」
そこでふと、一番大事なことを思い出した。
彼は一体、どうなったのだろう。
「残念ながら、彼の姿はどこにも無かったよ。……まあ、何とも、不思議な存在だったよなあ……」
亮介にとっては、セツという存在は実感が湧かないものだろう。
けれど、葵にとっては……
「消えて、しまったの……?」
葵は、口の中で小さく呟いた。
それがどういうことなのかすぐに飲み込めず、葵は呆然としたまま、沈黙してしまった。
理解できなかった。というより、理解したくなかったのだろう。
……涙さえ、出なかった。
「あ、そうそう。一応念のため検査するから、ニ、三日入院することになるって。ま、事情も事情だし、君の親の方には連絡してないんだけど、大学生一人暮らしだし、支障は無いよな。……君も、その方がいいだろ?」
「……はい、有難うございます」
亮介の説明にそう答えて、葵は少し微笑んだ。
今は、何も考えることが出来なかった。
送信者:Reina AMAGI 宛先:aoi2001909@×××univ.ac.jp
件名:やほ〜☆
おひさ〜、葵さん、元気??
私は元気だよん。
何とね、この間探偵事務所に依頼してた件だけど、見つかったってさ〜? な〜んか、すごくない?
ま、ずっと会ってなかった姉ちゃんだから、違和感ありまくりだけど、かなり嬉しいよ〜。私にも家族、まだ残ってたんだってね。
そうそう、彼は、まだ見つからない?
私の想像だけど、彼は絶対生きてるよ!
サナっていう存在は消えてしまったけど、私の中では、ちゃんと生きてる。
サナは、私の姉ちゃんみたいな存在だったし、多分、実在のサナと私によって実体化したサナは、違うものだったと思う。
彼、セツが、セツリョとは違うようにね。
さてさて、ということで、私も今年は受験生だし、いちお葵さんの大学も考えてる。まあ、私だったら楽勝??
そっそ、亮介の妻、ようやく帰ってきたかと思ったら、しばらくしてまた旅立ってしまったらしいよ? 亮介も大変だね、年中欲求不満だな、あいつは。
まー、それはどうでもいいとしてー。
ではでは、お互い生きてることに感謝しつつ、頑張りましょ〜ということで。
またメールしまっす、ジャネ!
葵はそのメールを読み終わると、自然と顔に笑みを浮かべつつ、返信をしてから席を立った。
大学の、コンピューター室。
葵はもう、三年生になる。
セツが姿を消してから、あと少しで一年が経ってしまう。
考えると、セツが自分の前にいた期間は、何て短かったのだろう。あの短い期間に、色んなことがあった。
きっと、死ぬまで忘れることが出来ない、そんな思い出の一つだ。
玲菜からのメールに書いてあったように、葵もセツが死んだとはどうにも思えなかった。ただ、玲菜の中のサナが消えてしまったように、セツの本体である高野裕樹は生きていても、セツとして存在しているかどうかは解りかねた。
葵はコンピューター室から出ると、学食へ向かう。
友達の愛子と待ち合わせて、昼食を摂る。
ふと、自分の中指を見た。そこにはもう、あの指輪はない。あの日病院で目覚めたらすでに無くなっていたから、セツの存在と同じように、消えてしまったのだろう。
玲菜の指にも、指輪はもう無かった。
それを考えると本当に夢だったんじゃないかと、ふと考えてしまう。
夢であったら、それはそれで幸せだっただろう。
……こんなに、辛い思いをしなくてすむのだから。
「葵、どうした?」
妙に真剣な表情をして沈黙してしまった葵を心配して、愛子が話し掛けてきた。
葵ははっとして、そして慌てて時計を見るふりをする。
「……ごめん、事務に急ぎの用事があるんだった。……もーすぐで事務、昼休み入っちゃうし、先行くね??」
「あー、了解」
愛子は何の疑問も感じなかったようだ。
葵は急いで食器を片付けると、トイレに駆け込んだ。
我慢していた涙が、溢れ出す。
日常の中で、ふいに、泣きたい衝動にかられてしまう。授業中でもお構いなしだから、困ったものだ。
葵は一頻り涙を流したあと、大きくため息をついた。
いい加減、こんな未練たらしい感情からは解き放たれたい。前向きに考えたいのに、どうしても、思い出してしまう。
強く、抱きしめてくれた時の鼓動のリズムと、体温。くだらないテレビを見て笑っていた表情、離れたくないと言って、流した涙。
セツの全てが、思い出される。
葵は涙を拭うと、トイレから出た。
もう、午後の授業はサボることに決めた。
自転車の鍵を外して、またがる。漕ぎ出そうとしたところで、向こうの校舎からこちらに向かって来る人物に目が止まった。
数人の男子生徒と一緒に、歩く青年。
「……え? 嘘」
思わずバランスを崩し、ガシャンと自転車を倒してしまった。
ひしゃげたカゴが、さらに無残な姿になる。
最初に出会ったときの、名残り。
「お、大丈夫〜?」
その学生たちが通りすがる際、一人の生徒が、手を貸してくれた。
日本人離れした秀麗な顔立ち。サラサラの真っ直ぐな直毛は、少し茶色がかっている。瞳は漆黒。
鮮やかなブルーの、綺麗な柄のシャツに、インナーは黒のTシャツ。ネイビーのコットンパンツ。アクセサリーも、ペンダントにバングル、リングと男にしては多めにつけている。
白のTシャツとジーンズしか着ていなかった彼とは大違いの、おしゃれさんだった。
自転車を立たせてくれたが、けれどもちろん、葵に対して何か特別な反応は見せない。
妙に鼓動が高まったが、それを必死に押さえつけた。
まさか、彼のはずがない。
「お、タカピーさん、優し〜」
他の生徒に、そんなふうに冷やかされていた。
……タカピー。その可笑しなニックネームに笑ってしまう。
「うお、人前でそういうふうに呼ぶのやめろよ、笑われただろーが」
「アイドルばりの男に天誅なのだ」
可笑しなやりとりに、更に笑ってしまう。
タカピーと呼ばれた彼は、照れくさそうに首の後ろ辺りを押さえた。
「……アホか。んじゃ、ね」
「あ、はい、ありがとう」
葵はまだ笑いの収まらない表情で、彼に礼を告げた。
彼らに背を向けて、やはり、もう一度振り返る。
そして、無意識に呼びかけていた。
「……セツ」
その消え入るような小さな声は、彼に、届くことは無かっただろう。
葵は自転車にまたがると、ペダルを強く漕ぎ出した。
一時の時間を置いて、彼が、驚いたような表情で振り返った。
急に立ち止まった彼を、その友人たちも訝しげに見やる。
「おい、どうした、裕樹」
「……いや、何でも、無い」
彼は、再び前に向き直って、歩き出した。
自分の中指を見る。サナの破壊を抑えるために力を使い果たし、消えてしまった薄桃色の指輪。けれど、効果はばっちり残っていたらしい。
「なんだよ、気持ちわりいな〜。あの子に一目ぼれか?」
思わず笑みが漏れていたらしい。
大学に入学してすぐに友達になった男が、いやらしい笑みを浮かべて尋ねてくる。
「まあね。つーか、運命の人?」
「……はあ? 頭おかしくなったか?」
「いや、大マジ」
そう言って、笑った。
その名を呼ばれることによって解かれた最後の術。
サナが自分との呪縛を解き放つと同時に、意地悪でかけたとしか思えない最後の呪術だ。
「……いや、駄目だ。我慢できん。……わりいけど、俺行くわ」
「……は? 行くって、どこに!?」
「葵のとこ〜」
彼は、友人たちにそう言い残して、駆け出した。
完。