20.



 セツは、倒れ伏した玲菜の傍に膝まずき、その細い指に嵌められた薄桃色の指輪を抜き取った。
 葵の元に置いてきた、自分のその指輪。
 自分がこれを持っていれば、いつか、再び二人が巡り合う時が来るのだろうか。
 セツは、そんな馬鹿馬鹿しい想念を打ち払うと、立ち上がった。
 これで、終わってくれればいい。何も破壊せず、あとは自分が消えていくだけだ。
 玲菜の中のサナが、消えていくのと同じように。


 ……だが、その、刹那。
 ゆらり、と、玲菜の身体が歪んで、霞んだ。
 投げ出された手の、細い指の先から白く、ごく小さな粒となり拡散していく。
 セツはその光景に、息を呑んだ。
 一体、何が起ころうとしているのか。玲菜を殺して、それで全てが終わるのではなかったか。
 やがて、玲菜の身体は白い粒子となって消えた。
 白い粒子は広がり、大きくなって辺り一面を覆い尽くす。後退するセツの身体までも包み込んで、暗い異空間の全てを飲み込んだ。
“葵……!”
 セツは最後にその名を呼んで、意識を手放した。




 東京、いつまでも明るくネオンで照らされる、眠らない街……、その、一角。
 つい先ほど玲菜が腰掛けていた広告看板の辺りが、小さく揺らいだかと思うと、強い光が辺りを貫いた。
 瞬きの間だけ、都内全てのものが白い光に包まれた。そして、その後は何もかもが平常に戻る。
 この一瞬の閃光に気が付いたものは、誰もいなかった。
 ただ、一人を除いて……。
「……何、今の……」
「え? 何?」
「一瞬、白く光りませんでした? 本当に、一瞬だったんですけど……。何だか、嫌な予感がする。天木さん、すみません、急いで貰えますか?」
 葵の言っていることを真剣に受け止めた亮介は、黙って頷き、アクセルを踏む力を強めた。
 道路を走っている車を縫うようにして、二人の乗る車は進む。
 一度嫌な予感を味わうと、葵は居ても立ってもいられない気分で、中指の指輪を包むように両手を握り締めた。
 願うのは、ただ、セツの無事だけだ。
 どうか、あと一度だけでも、セツに会いたい。例え彼が消えてしまう運命だとしても、その瞬間に、一緒にいたい。
 人類の存亡、そんなことはもはや、どうでもいい。
 ただ今は、彼のことだけを、想う。




「……一体、どうなってるんだ?」
 亮介の、緊張を孕んだその声で、葵ははっと意識を取り戻した。
 少しの間だけ、寝てしまったらしい。
 一瞬、ここがどこか分からなくなる。フロントガラス越しには、前方で停止している車のテールランプが見える。信号待ちか何かで、停止しているのだろう。
 隣の亮介を見れば、ウインドウを開け、身を乗り出し前方の様子を見ている。
 事故でもあったのだろうか。
「ごめんなさい、私寝てたみたい……。ここ、どこですか?」
「もう、東京のど真ん中だよ。……もう少しで東京駅だ。それなのに、何なんだ、これは」
「え……?」
 よくよく冷めた頭で周りの光景を見れば、その違和感にすぐに気が付いた。
 街が、静止しているのだ。通りを歩く人も、車も、全てが静止して動かない。
「……え、何ですか、これ。いつから……?」
「分からない。気が付いた時には。いつからだったかな……」
 亮介はそう言って、頭を抱えた。
「ともかく、これ以上はちょっと車では無理かな。どうも、渋滞……というか、まあ、動いてないし、な」
 亮介は戸惑いを隠せないまま、ひとまずウインドウを閉めると、エンジンを止め車から出た。葵もそれにならう。
「嫌な予感って奴、的中したな。……まあ、俺には何が起こってるのかさっぱりだけど」
 葵はそうコメントする亮介を横目で見つつ、すぐ近くに歩いている格好で立ち尽くしているOL風の女性を眺めた。
「私だって、さっぱりですよ。……この人たち……息してないみたい、ですけど」
 すぐ間際まで寄って確かめるが、まるでマネキンのように微動だにしない。
 はっきり言って、気持ちが悪い。
「ていうか、完全に固まってるよな。……動いているのは俺たちだけか? 一体どうして?ついさっきまでは普通に車も動いてると思ってたんだけどな。……俺もぼっとしてたのかな」
 亮介がそう言った、その直後。
 耳をつんざく轟音に、二人は反射的にその方向を見た。
 方向的に東京駅のすぐ近くだ。暗い灰色の粉塵が、大きく舞い上がっている。
 続いて二回目の爆発音が続き、紅い色まで見える。静かな街の中で、一体何が起こっていると言うのだろうか。
 爆発がそれ以降続かないのを確認して、亮介はそろそろと葵の方を伺い、口を開いた。
「ガス爆発、って訳でもないよな……」
「……急ぎましょう!」
 葵は亮介にそう叫ぶと、一目散に爆心地に向けて走り出した。




「……サナ? 嘘、だろ?」
 黄金の錫杖の先から繰り出された衝撃波を、すんでのところで避けて、呆然と彼女を見上げる。
 白い光が収束し、姿を現した、白い肢体。
 瞳だけが黄金に輝き、蒼白な顔は何の表情も称えていない。
 二人は中空に浮かび上がったまま、対峙した。遥か足下には、無機質なビルが乱立し、細かい網目状の道路が地面を覆っていた。
「……何故、嘘だと言うの? 貴方が、望んだことでしょう? セツリョ」
 はっきりとしたその肉声が、その存在感を確実なものにする。
 セツが求め、追い、決して届かなかった存在が、今目の前に存在していた。
「玲菜の魂と肉体を糧に、私はこうして、今存在出来た。これが、何を意味するか分かる? 私が、これから成すべきこと。……人間を、地球を滅ぼすこと」
「……何故、何故なんだ? 何で地球を滅ぼす必要があるんだ?」
「この星は、神の病。私という存在は、それに抵抗するための免疫機構の一つに過ぎない。……もしくは、私自身が病を引き起こしたとも言えるけれど。……でも、それは貴方には関係ないわ。貴方が私に執着し、私の輪廻に入り込んできたその日から、こうなる運命だったのよ」
 サナはそう言って、何かを忌み嫌うかのように眉をひそめた。
 セツはまだ良く分からないという表情で、けれどもゆっくりとサナに近寄っていく。
 サナは、そんなセツの姿を見つめて、それでも動こうとはしない。
 やがて、セツの手がサナの頬に届いて、彼の両手が彼女の頬を包んだ。
「本当に、サナなのか……。ずっと、届かなかった、触ることの出来なかった……」
 セツはそう呟いて、両手に包んだサナの頬の感触を確かめた。すべらかで、きめ細かい肌の触感。
「皮肉ね。最後の最後に、ようやく私たちはまた、触れ合うことが出来るのね」
 セツの手に自分の手を添えて、サナは小さな声で言う。
 永遠というに近い時間を越えて、ようやく、二人の存在が重なり合った。
 セツの、執念に近い追走と、破壊、幾度もの輪廻の末。
 セツはそのままサナの身体を抱きしめた。か細く、華奢な肢体。けれども、どんなに強く抱き締めようとも、セツの中で何か変わるものはなかった。
「……それで、貴方はどうしたいの?」
「何を言って……?」
「貴方は自分の業をまだ、知らない。……そして、まだ、知らなくてもいい。私たちに課せられたものは、まだ、大きくこの世界を揺るがすでしょう。……けれどもセツリョ、あなたはもう、セツリョとしての輪廻を回ることは許されない」
 シャン、と、錫杖の装飾が鳴った。
 セツは、自らの後ろ、首筋に冷たく鋭利な感触があることに気が付いた。
 抱きしめたサナの持つ錫杖が今、確かな殺意を持って自らの首筋にあてられているのだ。
「……俺を、殺すのか? それで、全てが終わると?」
「貴方の呪縛は、私が断ち切ってあげるわ。……そして、全てを終わりにしましょう」
 サナは、柔らかく微笑んだ。
「過ちは、誰でも犯してしまうこと。けれどもその罪が、許されないことはない。やり直すことが許されるべきでしょう? ……神の過ち、私と貴方の存在、人間の繁栄、神への侵食……。世界をまだ、終わらせたくはないの……」
 セツは、その言葉に自分の心が瞬時にして冷えていくのを感じた。
 それは、恐怖に近い感情だっただろう。そして、セツはその感情に任せて、サナの身体を遠ざけた。
 サナはセツに突き飛ばされたが、すぐに体制を整える。
 黄金の錫杖を片手で構え、それを一振りした。
 大きく、セツの身体が吹き飛ばされる。重力に引かれ落下し、それでも何とか、一つのビルの屋上に着地した。
 続いて細い光の閃弾が雨のように振ってきたのを、床を蹴って何とか避ける。床を転がって、体勢を整えたところへサナが降りてきた。
 セツを見下ろして、無表情に口を開いた。
「逃げても意味ないわ。これで、全てを終わりにしましょう。私もようやく、神の指示から逃げ出すことが出来る」
 サナが再び錫杖を振りかぶった時、セツは慌てて身を起こし、その腕にしがみついた。
 サナはやはり、僅かに眉をしかめた。
「……サナ、教えてくれ! サナの存在は……」
「私と言う人格は、一つの脆い、精神に過ぎない。強靭な精神からは程遠く、追求の先に突きつけられた真実から、目をそらすことさえ出来なかった。……私は、全てを凍らせて、逃げ出したの。自らの意思も、全て、投げ出した」
「それは、どういう……?」
「何が正しくて、何が間違っているのか。その判断もつきかねたわ。私には荷が重すぎたの。貴方もそれに気がついていないだけ。私を追っても、貴方は自分の存在を確かめることは出来ない。……そして」
 サナはセツから離れると、ゆっくりと屋上の端へ歩いていった。
 下を見下ろし、豆粒のような人の影を確かめる。どれもこれも、微動だにしない。
 サナが実体化したせいで、その大きな力の影響を受け、この辺り一帯の時間軸がずれてしまったらしい。
「人間という小さな存在には、決して分かるはずもない。……小さな、無力な存在」
「人間を忌むのか……?」
「……いいえ、愛しているのよ。だからこそ、私が……、私がこの世界を守らなければ……」
 サナはそう呟いて、悲しそうな表情を見せた。
 人間を、地球を滅ぼそうとするサナと、その発言はまるで矛盾しているかのように感じた。
 セツは、訳も分からない焦燥感に襲われて、慌ててサナの傍に走り寄る。
 足元を見れば、小さな粒が二つ、こちらに駆け寄って見上げていた。
「……まさか、葵?」
「彼女もまた、何も知らない人間の一人に過ぎない。そしてセツリョ、貴方に、彼女を愛する資格はない」
「……サナには、分からない。……俺の気持ちなんて……」
 睨め付けるセツに対し、サナは涼しい顔で応じた。
「ええ、そして、人は人と理解しあうことはないの。……あなたもわたしも、決して理解し合えることはないわ……」
 そう言うと、サナは、錫杖を大きく振りかぶった。
 何もかもを、終わらせるために。





「あれ……!」
 ビルの屋上の縁に、小さな人影が見えた。
 遥か頭上に見えるそれは、金色に光る長い錫を持っている。
「……玲菜?」
「え? あれが……? いや、ちがくないか?」
 葵と同様にして、亮介もそのビルの屋上を見上げた。
 錫杖を持っているのは、全身、白い姿。
 あれは、葵がいつか夢の中で見た、サナと同じ……。
 しばらくして、もう一つ人影が現れた。こちらを、下を見下ろしているような仕草をする。葵はすぐに、それが誰か判断した。
「……セツ!」
「え? あれが?」
 やがて、サナが錫杖を振り上げ、セツの頭部を激しく殴打した。葵が悲鳴を上げる暇もなく、セツの身体は屋上より投げ出され、こちらに向けて落ちてくる。
「……う、嘘だろ!? 落ちて……」
 亮介は慌てて足を踏み出そうとしたが、なにが出来るわけでもない。
 そして葵も同様に、彼が落ちる様子をただ見上げているだけしか出来なかった。
 やがて、錫杖を持ったサナも、落下するセツを追って屋上から飛び降りた。
「え? うわ、どうなって……」
 亮介は訳がわからなくなって、上を向いたままニ、三歩よろめくと、足元がおぼつかなくなり尻餅をつく。
「あいたっ」
 葵はそんな彼を気の毒そうに見たが、すぐに視線をセツに戻した。
 セツは落下中に体勢を整え、やがて落下速度を落とし、難なく地面に着地した。葵から、五メートルほど離れた位置に立って、同様に降りてくるサナを迎えている。
 葵は戸惑いながらも、少しずつセツの傍に歩み寄った。
 サナは、落下速度を落としもせず、錫杖を構えたまま真っ直ぐにセツに向かっている。
「セツ……!」
 刹那、葵は大きな不安感を覚えて、セツに向けて走り出した。
 サナの構える錫杖の先が、白く、強く光を放ち、それがあたり一面に広がる。
 セツが、葵に向けて何かを叫んでいるようだったが、聞き取れなかった。



index/back/next