1.
京都にやってきたのは、ある成り行きからだった。
セミの鳴き声も段々おさまってきた、夏の終わり。八月下旬。けれどもまだまだ、暑い頃。一人で電車に揺られたどり着いたのが、京都。
自由気ままで、少し孤独な一人旅、かな。
私の名前は今井祐。
ユウ、なんて、男だか女だか分からないような名前で、気に入っている。
現在大学2年生。夏休みの半ば、思い切って部屋を出た。
お金はあんまり持っていない。
もともとは出不精で消極的な私が、何故電車に乗って半日以上つぶれる京都まで来たのかというと、伏見稲荷大社に来たかったからである。
きっかけは、気まぐれに読んでいた小説の中の描写だった。朱色の鳥居が連なる幻想的な迷宮、とかなんとか。ミステリだったかホラーだったかは、忘れた。けれど、変に記憶に残ったことは確かだ。
それで、前々から自分の目で見てみたいとは思っていた。
しかし、東京に住む私にとって、京都は近い場所ではない。
けれど新幹線を使えば三時間程度で着くし、鈍行でも半日ほどしかかからないから、気軽に行けない距離ではなかった。ただ、普段行こうとしないだけだ。
それなのに、今回重い腰を上げたのには、もう一つ理由がある。
が、それは後ほど説明しよう。
というわけで今、伏見稲荷大社にいる。
着いたのがすでに夕方だったから、本殿に至るまでに並んだ土産物屋もそろそろ店じまいを始めていた。
私は狛狐の並ぶ本殿を参拝して、いよいよ山の方へ入った。朱い鳥居が、連なっている道だ。千本鳥居というらしい。真新しいものもあれば、色あせているものもある。けれども本当に、ここまでぎっしり鳥居を並べなくてもいいじゃないかと思う。正直、狂気じみている。
ところでお稲荷さん、と言われると思い浮かぶのが狐だけれども、お稲荷さん自体は狐じゃないらしい。狐は単なるお使いで、もともとは目に見えないものだから、「白狐」として祀られているそうだ。確かに、ここ伏見稲荷大社にも沢山の狐がある。焼き物なのだろうか、白い狐。今までに沢山の人が色んな願いを込めて鳥居を建てたように、この白い狐も納められてきたのだろう。信心深いことである。
……さて、ここはどこだろうな。
前方にT字路が現れたので、私は足を止めた。
道は左右に別れている。片方は上り、片方は下り。その両方共に、未だ鳥居が連なっていた。
ただし、道は大分細くなっている。道の両側には鳥居だけではなく、杉や雑木が密集しているから、一人で歩くには何だか心細い。
それにしても、ずいぶん歩いた気がするのに、まだ先があるのか。目の前に簡単な山のマップがあったので現在地を確認してみたら、まだ半分ほどにしか至っていないらしかった。
一方辺りは山だけあって、けっこう暗くなってきている。山の夜が早いというのは、こういうことか、なんて感心している場合じゃない。
伏見稲荷大社はもともと山丸ごと一つで成り立っているのだから、中途半端な時間に登り始めたのでは全部を見られるわけもない。適当なところで引き返すべきだったのだ。夕方だから、人もほとんどいない。一人で彷徨っている場合じゃない。
と、いうわけで、私はさっさと山を下り始めた。鳥居なんてもはや、見飽きたくらいだ。さすがに最初は感動したが、ここまであると逆にくどくなってくる。しかも、日ごろの運動不足が祟って、息まであがり始めた。
不運にも、ソレと遭遇してしまったのは、そんな時だった。
前方に、白いものが落ちていた、らしい。と、いうのは、石の階段を重力のなすがまま、勢い良く下りていたから、正直それが何なのか分からなかったし、分かってからじゃ遅すぎたし、ともかく避けきれない事故だったのだ。
それを思い切り、踏んだ。おまけにそのせいで足を捻って、転んだ。
これでは踏んだり蹴ったり、ではなく踏んだり転んだり、だ。
で、私はにじむ涙を何とか堪えつつ、踏んだそれを探した。尻餅をついたその横辺りに、無残に砕けて転がっている、首。狐の、首。
「うげっ」
思わずつぶやいて、まじまじとそれを見た。
さきほどから嫌と言うほど目にしている、焼き物の白い狐だった。口に丸い珠を咥えている狐。見た目はかなり汚れている。大きさは高さ約8センチほどの小さなものだ。
(うわ〜、罰当たりとはこのことを言うんだろうな。どうしよう、どうしよう、あわわ)
そんな心持ちで、私はとりあえずそれを手で拾った。胴体と首、散らばった細かい破片。それを何とか集めて、ジーンズのポケットからくしゃくしゃになったハンカチを取り出した。それで無造作に破片を包むと、よいしょと立ち上がる。
さすがにそのままには出来ない。接着剤でつなげて、何事もなかったかのように、明日ここに戻しておこう。
自分はとっさの判断で思い至った行動を、後で後悔することになる。
いやもう、踏んで転んだ時点で、いい方向に向かうわけがなかったのだけど。
その日は、素泊まりの小さな民宿に泊まることが出来た。
そこに至る途中のコンビニで仕入れた接着剤と白い狐の残骸を、部屋の真ん中に据えられたちゃぶ台に乗せて、眺めてみる。無宗教の私からすれば、それはただのモノであったが、これをあそこへ納めた人からすれば、大事な神様の一つなのだろう。それを壊してしまった私は、本当に祟られてしまうのではないか。
……と、そんな小説のようなことを考えながらも、私は接着剤の蓋を開けるとスチャッと狐の首を元の位置に貼り付けた。細かな破片も器用に接着する。もともと手先は器用なほうだ。
私は一通り接着し終わって、改めてその狐を眺めた。どうやら、土人形らしい。白く着色され、顔が描かれている。胸元には、金色で珠が描かれていた。
それにしても、けっこうな汚れ方だ。雨ざらしだったせいだろうか。泥汚れかもしれない。狐の胴体には、ぬぐっても取れない茶色いシミがある。
さて、一瞬で狐は元通り、やれ安心だ、と私は立ち上がった。
ひとっ風呂浴びてこようと思う。
明日はもう一度伏見稲荷大社に立ち寄って、その日のうちに帰るつもりだ。二泊も三泊もしている金はない。午前中のうちに動き出せば、あともう二、三箇所くらいは観光地を回れるかもしれない。ただ、遅くとも夕方前には発つことにしよう。そうすれば、夜中ギリギリには家に着く。
旅の目的はすでに達成されているのだから、それで十分だった。
風呂から出た後、足首に接着剤と同時に買った湿布薬を貼った。歩くのに支障はないが、少し腫れているような気もするし、痛みもある。貼った後は、布団に寝転んだ。
今日はもう、早々に寝てしまおう。山に登って疲れたし。
寝苦しさで目が覚めたのは、布団に入ってから数時間と言ったころだっただろう。かすかに目を開けて時計を確認すれば、時計の針は二時過ぎを指していた。ああ、これが丑三つ時というやつか、と思っているとなんだか辺りがぼんやりと明るい。
なんだろうなあ、と思ってその光源を探してみると、どうやら部屋の隅に追いやったちゃぶ台の上の、狐が光っているのである。
私は、息を呑んだ。
幸い、金縛りにはなっていないし、怖い怨霊が出てきたわけでもない。けれども心中は、「あひゃうひゃ、なに、コワ」と言った具合である。しかもそれをしばし見つめていたら、声まで聞こえてきたのだから、これで腰を抜かすなと言う方が無体な話だ。
『おぬし』
とりあえず腰を抜かした気分で、けれども上半身を起こしてその声の主を確認した。やはり、これは私が首を折った、狐が喋っているのだろう。
『……おぬし、感謝するぞ』
感謝と言われても、恨まれこそすれ感謝される覚えはない、と心の中で返事する。実際には言葉にならなかった。正直、突然のことに声が出ない。
『思わぬ形で社から出たわ。まあ、おぬしには災難な話だな』
……感謝はされるけど、災難なんですか。
私はごくりと喉元を鳴らした。そして、目を見張る。
ぼうっと、狐から立体映像のように、人の姿が浮かび上がったからだ。
顔色は真っ白く、つり目で白髪の男。宮司のような白い着物と袴を身に着けている。外見的には若いが、雰囲気からは若さを感じられない。
これは夢だろうか。私はその現象を凝視するしかない。
『ひとまずはお前に憑くことになる。まあ、俺を踏んだんだからしょうがない。その罪は償ってもらわなければな。開放されたとはいえ、俺は神の使いだったわけだからな』
「ああああああの、憑くってどういうことスか」
ようやく声が出た。
彼の人間じみた言葉使いに親しみがわかなくも無いし、そのせいで半分ほど緊張が解けた。それに彼の言葉を独り言にさせたままでは、何だか申し訳ない気がする。
……内容はさておき。
『憑くは、憑くだ。お前に取り憑き精気を奪い、やがて死に至らしめる。まあ、そう長くはない。半年がいいところだろう。不運だったと、諦めるんだな』
「……はい?」
目が点になる、というのはこのことだ。鳩が豆鉄砲を食らう、でもいい。そっちのほうが何だか間抜けな表現で、この状況にはぴったりだろう。
今起こっている現象ですらいまいち理解できていないのに、いきなり半年の命を言い渡されても信じられない。
しかも、ホラー小説や映画ほど、おどろおどろしい現象でもない。
……ふむふむ、やっぱりこれは夢だろう。だとしたら、もう、寝るしかない。
私は無理やりそう結論つけると、ばたっと上半身を布団に倒した。目をつぶって、頭の中を空っぽにする。夢から覚めれば何事もなかったことになるだろう。
「うそでしょ」
起きて第一声が、それである。まだ寝ぼけているのかと、自分を疑いたくなる。
私はそれ以上何も言えず口をあんぐりあけたまま、目を開いたり閉じたりこすったりしてみるが、それは消えてくれない。
ちゃぶ台に肘をついてこちらを眺める、白髪の青年。
私はしばし考え込んで、頭の中を整理することにした。
つまり、昨日のことは夢ではなかった。そして、夢ではないならば彼は白い狐の置物から現れた神の使い、白狐の化身であり私に取り憑き命を奪う……祟り神。
『ようやく起きたのか。寝坊だな』
祟り神の割には、呑気な言葉だった。
それが神の使いである白狐の言葉だろうか。
「はあ〜、マジですか」
私は恐る恐る彼に近づくと、しげしげと眺めた。つり目と馬鹿にしたかのように歪められた口元のせいで、非常に意地が悪そうに見える。
不用意に手を伸ばしたら、バシリとその手を打たれた。
『不遜な奴だ。軽々しく触ろうとするな』
「って、ええ〜。でも今、そっちの方が触ったでしょ!」
ひりひりとする手の甲をさすりながら、私は涙目で反論した。にじみ出る涙は、手の甲の痛みのせいじゃない。けれども、余命半年を言い渡された悲しみからくるものでもない。
ただ単に、寝起きだから。
でもこれで、彼が実体であることが確認できた。それにしてもこの状況は未だに納得できない。
「これ、現実?」
『残念ながら現実だ。お前は俺に憑かれた、立派な狐憑きだ。やがて衰弱して死ぬだろう』
「……そんな、理不尽な」
言えば、彼はニヤニヤと笑った。
『そういうもんは、理不尽に出来てるんだ。まあ、諦めるんだな』
言われて、私は大きくため息をついた。ちらりと時計を見れば、あと少しでチェックアウトの時間となる。私は一先ず沈黙を決めて、朝の身支度に取りかかった。
「それじゃあ、また来てな」
人の良さそうなおばあちゃんに笑顔で送り出され、私も笑顔で手を振った。そんな私の隣には、狐の化身がいる。
どうやら彼は、私以外には見えないようである。
(って、そんなのその時点でおかしいじゃん! ていうか、私がおかしくなったのか? って、おかしくなるから狐憑きなのか。……むき〜っ)
一人で地団駄踏んでいると、まさしく通行人が奇異の目で眺めてくるから、私の狐憑きっぷりもかなりの段階に来ていることだろう。
「はあ、うんざりだ」
そうため息をつけば、狐の化身はせせら笑っておっしゃった。
『だから狐憑きは嫌がられるんだろ?』
だから、狐憑きなんて時代錯誤もいいとこなんだ、と私はやはり心の中で憤慨した。
ともかくも、目指すは伏見稲荷大社である。
ところが伏見稲荷大社に来たところで、なんともはや、なんの収穫もなかった。一先ず例の狐の焼き物を、踏んだ場所に置いてきた。
それなのに、駅まで引き返したところで自分のポケットに何故か狐の焼き物が戻っている。「絶対こいつのせいだよ、この狐が拾って戻るんだよ、このくそやろう」と汚い言葉交じりに憤慨するが、あくまで心中での話である。
彼に直接言ったとたん、何をしてくるか分かったものじゃない。何せ相手は、私を殺そうとしている祟り神である。
というわけで、今度は宮司に相談することにした。……が、残念ながら会えなかった。祈祷でもしてもらうかとも思ったが、「そんなことをしても無駄だ」と当の本人に言われたし、本人が言うからには本当に無駄なのだろう。
……ああもう、うっとうしい。
『諦めろ』
狐の化身が、感情のこもらない声でそう言った。
すでに、午後になる。
心身ともに何だか疲れきって、私はもう、諦めの境地に至った。とりあえず、帰ることにしよう。
……私は疲れました。先立つ不幸をお許しください。
そういうわけで、私は再び電車に揺られ、部屋に帰ってきた。
本当に疲労困憊である。なぜこんなことになったのだろう。なぜ京都に行く羽目になったのだっけ、と思い返しながら玄関を開けた。