2.


 ――それは、お盆で実家に帰ったときのことだった。
 同じく帰省していた姉から突然、青春十八切符を押し付けられた。しかもその切符は、スタンプがすでに三つ押されている。つまり、姉が使いきれなかった余りを、私にくれたというわけだ。
 ちなみに姉はそのとき、法事用の黒いワンピースを着ていたと思う。墓から帰った後、まだ片付けの済んでいない和室に座り込み、一休みしていた。
 私は先に私服に着替えて来て、後から姉の隣に腰掛けたところで、突然切符を差し出されたというわけだ。反射的に受け取りながらも、それを見て困惑した。
 私はいらないから自分で使い切れと、丁重にお断りしたら、逆に怒られた。
「私はそんなに暇があるわけじゃないの。それに一度あげたものを受け取れるわけないでしょ。あんたのことだから夏休み中ずっと家の中にいるつもりなんでしょうけど、いい加減、脳みそにカビ生えるよ? ……とにかく、どこでもいいから旅行にでも行きなさいよ。二日分残ってるし、一泊二日くらいで」
姉は昔から、ぐうたらで出不精の私を嘆いていた。
「え〜、一人でえ?」
 眉間をしかめて不服を漏らせば、姉は私を嘲るようにして、笑った。
「だって、あんた友達いないんでしょ? まあ、一人旅の方が気ままでいいじゃない。それとも、一人じゃ寂しいっていうの?」
 姉の挑発的な言い方に、私は思わず反射的に言葉を返してしまった。
「全然そんなことはないけど? まあ、せっかくですから旅行にでも行きますよ。全く、姉ちゃんは押し付けがましいんだよね」
「人の好意は謙虚な気持ちで受け取りなさい」
 本当に、やっかいな姉を持ったものである。
 ちなみに、私に友達がいないというのは、極論だと思う。全くいないわけじゃない、一人や二人はいる。
 元々、人間付き合いが苦手だった。愛想笑いも苦手だし、うわべだけの会話とか、噂話とか影口とか、そういうものに意義を感じないだけだ。
 そんな人間が将来社会に出られるのか、と言われれば肩をすくめるしかない。実際、社会人の姉にも心配されているようだ。でも今までこれで困ったことはないし、社会になじんでいけないこともないと、思う。ただ、付き合いにくい人間だな、とは思われるだろうけど。
 ともかくそういう経緯で、私はいきなり旅行への往復切符を渡された。場所はもちろん、決められていない。
 正直旅行なんて行かなくてもいいのだけれども、切符の期限も差し迫っているし、どうせ行くなら京都に行こうと思った。その理由については、前述したとおりだ。
 ともかく腰を上げてしまえば、なんてことはない。
 私は一泊分の着替えと財布だけを持って、青春十八切符で電車に乗り込んだ。宿も決めていなかった。観光センターかなんかをあたれば、何とかなるだろうと思ったし実際何とかなった。
 けれど正直、姉の気まぐれに不用意に乗ってしまったことを後悔している。
 そして後悔先に立たずして、こんな状況に陥ってしまった。


 部屋には、むわっとした湿気と熱気がこもっていた。それが更に私の気持ちを憂鬱にさせる。
 ひとまず旅の汚れを取ってから、これからのことを考えよう。
 私は部屋の中を興味深そうに見渡している彼を放って置いて、シャワーを浴びることにした。
 シャワーから浴びてまだ乾かぬ髪をタオルでぬぐいながら戻れば、彼は窓際に立って外を眺めていた。私に憑いているだけあって、私の傍から遠くへは行けないらしい。私はタオルを向こうへ放ると、万年床の上に腰を下ろした。
 六畳の和室には、ほとんど家具がない。ブロックで持ち上げた板の上にテレビがあり、オーディオセットがある。板の下にはCDや本が並ぶ。開きっぱなしの押入れに、服や雑多なものが詰め込んである。壁には古い映画の白黒ポスター。
 数少ない友達が来て、不思議な雰囲気の部屋だねえ、と言った。確かに自分でも、そう思う。
「何してんの。外の様子でも気になる?」
『……いや』
「あのさあ」
 私はとりあえず自分の部屋に落ち着いたのもあって、このこっくりと真面目に対面する気になった。
『なんだ?』
「私に憑くって、実際何すんの。なんかとりあえず、くっついて来てんのは分かるけどさ。こうして一緒にいるだけ? それで私が段々弱まって、死ぬだけ? あんたに何の利益があんの?」
『精気を奪うだけでも価値はあるが。……ふふん。まあ、それだけでもない』
 彼はそう言うと、窓を背にその場に腰を下ろした。私は顔をしかめると、小さな丸いテーブルの上に置いた灰皿とタバコを手に引き寄せた。一本を口にくわえ、火をつける。何気なくこっくりにも勧めたが、当然のごとく断られた。
『タバコはやめろ。精気が汚れる』
「そんなん知るか。つうか、精気ってなによ」
 ぷは〜と煙を吐き出して、問う。
 旅には持っていかなかったから、久々にタバコが回った。元々ヘビースモーカーではない。必ず吸うのは酒の席か、疲れたとき。あるいは、食後だろうか。そのくらいであるから、吸っているタバコのニコチンも、三ミリグラムと軽めだ。
 けれど二、三日も間が空けば、すぐに頭に霞がかかる感じになる。そして少し、気分が悪くなった。
『おぬしは、変わった人間だな。いや、時代が変わったせいか? 俺に憑かれたと言っても死ぬと言っても、大して動じんな』
 精気とは何か、という問いには答えず、こっくりはしみじみとそう言った。
「ていうか、じたばたするのが面倒くさくなった。実感もあんまり沸いてないし。で? それだけでもないって、どういうことよ」
『しばらくすれば、弱ったお前の体を乗っ取れるようになる。しばしお前の体を、借りる』
「……はあ?」
 驚いた振動で、タバコの灰が少し落ちてしまった。慌てて、手で払う。
『この現世に、用があるのでな』
「はあ、マジで。ふうん、そうなんだ」
 そういう反応しか出来なくて、私はしばしタバコをふかした。本当はその、用というものに興味を抱かないでもなかったが、詳しく聞くのは止めた。
 自分から、何か面倒くさいものに踏み込むつもりはない。無関心でいれば、面倒なことも起こらないし、傷つくこともない。
 そして彼も、その後何も言わなかった。




 さて、問題です。半年の猶予で何をするべきでしょう。
 答え、特になし。


 翌日、暇を持て余してしばらくの間考えていたけど、妙案は浮かばなかった。
 本当は、憑いた狐を払うために色々な努力をするべきなのかもしれない。色々調べたり、奔走したり、誰かにすがったり。
 けれども、そういう一切のことが、無駄なことのように思えた。しかも誰かに話したところで、信じてもらえそうにない。
 もし私が逆の立場だったら、思い切り引くと思う。
 あるいは、一番文句を言うべき我が姉なんかに相談するとしよう。だが話し終えたとたん、「ついに脳みそにカビが生えたんだね」ぐらいの言葉で済まされそうだ。
 じゃあ、狐を払うのは諦めたとして、余命を楽しむべきか。
 普通だったら出来ないようなことをしてみるとか。
 金はないから、銀行強盗をする。……いや、失敗してはもともこもないから、キャッシングしよう。
 それで、好きなものを買いまくる。美味しいものを食いまくる。
 そして……
 そこまでが、限界だった。他にしたいことが思い浮かばない。特に夢も希望もない自分に、愕然としてしまう。
 人を傷つけたり、人に傷つけられたりもせず、日々安寧に暮らしていければそれでいい。日がな一日、本を読んでいられれば幸せだと思う。
 そのくらいのことしか考えつかなかった。
 タバコを燻らせながら、私は彼がしたように、窓の外を見た。
 と言っても、何ら面白い風景が広がっているわけでもない。窓のすぐ正面には、またアパートが建っているからだ。このアパートは木造築うん十年のボロ、家賃も三万円台なのだから、窓からの景色が悪かったからといって文句は言えない。しかも立派にトイレも風呂もついているのだし。
『おぬしは、それでも女か』
 万年床に胡坐をかいて座っていたら、斜め向かいに同じように座っていた彼が、わずらわしいことを言ってきた。
 何のことかわからず首を捻っていると、彼はあからさまに不機嫌な顔をして、私を指差してくる。人を指差しちゃいけません、って、神様に言われなかったのか。
『その、格好、姿勢。いくら暑いとはいえ、だらしがないことこの上ない』
「あんたはあたしの母ちゃんか。ほっといてよ」
 そう反論はしたものの、格好と言われ、私は一応自分の着ているものを確認した。
 洗いざらしのタンクトップに、ハーフパンツ。別におかしいことはない。むしろ、彼がいるせいで気を使ったくらいだ。普段は、下着姿でいることも珍しくない。
 何せこの部屋にはクーラーなんて贅沢なものはない。あるのは扇風機くらいで、この暑さの中でこれ以上服を着るというのは、拷問に近い。
 でも服装はともかくとして、私自身の見た目は確かに、酷いかもしれない。スッピンだし、肩下まで伸びている髪もボサボサ。
 姉からは、もうちょっとちゃんとした格好をしろと言われる。そうすれば、あんたも結構美人なんだから、と。そう言われれば悪い気もしないけれど、自分が美人だという実感はあまりない。私が本当に美人ならばもっと違った人間になっただろう。
 更に胡坐をかくのは、それがラクだからだ。いちいち自室で正座をしていろとでも言うのか。自分だって胡坐をかいているくせに、男なら良くて女は駄目ということがあるだろうか。
 そういう意味で、女らしくない、というのは認めよう。
 そもそも、私は男に生まれたかった。女は面倒くさいことが多いから。
 身体的なことも、人間付き合い的なことも。
 普段からそういうことを考えていたので、彼の文句に私は少し機嫌が悪くなる。
「大体なんで女らしくしなきゃならんのよ。どうせあたしは、半年で死ぬんだし? どんな格好でいようと関係ないでしょ」
『憑いている気が失せるな、全く』
 それは全くの、言いがかりである。だったら、私なんかに憑かなければいい。そのほうが、私としては大歓迎である。
 けれどもそれをわざわざ突っ込むのも馬鹿馬鹿しかったので、別のことを口にした。
「そういう自分はかなり暑苦しい格好してるんだね。それともあれか、狐だから暑さ感じないのか」
 宮司のような白装束は、実際に着たら本当に暑そうだ。
『厳密には狐ではない。そこらの畜生と一緒にされても困るがな。……ところでおぬしは、今日は一日そうして過ごすのか』
 彼は、私の手にしている本を指摘して、そう言った。
 大学も休みの今の私は、ほとんどを部屋の中で過ごす。結果、本を読むはめになるのだが、こっくりはそれが気に入らないらしい。
「出かける予定もないからね」
『ふん、つまらぬことだ』
「あんたが退屈しようが、あたしにはぜ〜んぜん、関係ありません」
 言ってタバコを一吹きしたら、『とんでもない女だ』とこっくりは小さく零した。
 私はそんな言葉を無視して、再び活字の中の世界に集中する。とたん、この部屋には珍しい来訪者が、呼び鈴を鳴らした。



index/back/next