8.


 翌日私たちは、前に私が狐を踏んで転んだ場所にいた。
 あるいはここは、吉田恭子殺害現場かも知れないけれど……。まあ、そんなことは、私は気にしない。
 私は、ここに来るまでに並んでいた土産物屋で、日本酒を買った。
 とはいえ、買ってきたのは小さなビンに入った日本酒で、千円もしない。ちょっとケチったけど、それはまあ、許してもらおう。お試しサイズだけど、それでも一応、銘酒のうちに入るものだ。
 私は道の脇にシロの狐を置くと、酒をその手前に置いて、手を合わせた。
 シロが、神様の使いに戻れますように。
 無意識に、そんな願い事をしてしまった。願はかけるつもりはなかったのだけど、ふと、シロと酒の話をしたときのことを思い出してしまったのだ。それでこんな願い事をしてしまった。
 もう、神酒を飲むことはないと言ってため息をついたシロ。本当は、妖怪になってしまったことを、悲しんでいるんじゃないかと思う。
『叶えた』
「え!?」
 私は驚きのあまり後ろに尻餅をついて、あたりを見渡した。
「どうした?」
「え、今何か声が聞こえて。……イッサは聞こえなかった?」
「全然。きっと吉田恭子の亡霊だよ。もうお参りも済んだんだし、そろそろ帰ろうぜ」
 言われて、私は釈然としない気持ちでもう一度狐を見た。何も、変わることはない。でも、さっきの声はシロの声ではなかった。
 ……まさか神様の声? って、そんなわけはないか。


 そうして私たちは、その日のうちに自分たちの街に戻った。イッサとは駅の改札口で別れた。
 私は部屋へ入ると、どっと疲れを感じて、万年床に倒れこむ。机に手を伸ばしてタバコを取ろうとしたが、やっぱり止めた。シロに一度憑かれてから、タバコを吸うと気分が悪くなるようになってしまった。もう、タバコは止めることにしよう。
 私は手を下ろして、そのまま目を瞑った。今日はぐっすり眠れそうだ。
 そうして、夢を見た。
 それは、私とシロが二人で酒を酌み交わしている夢だった。
 私もシロも、気分が良かった。けれど、途中でシロがこんなことを言い出した。
『……ユウ、酒が足りんぞ』
「?」
 夢とリンクした声が、現実に耳に届いたような気がした。私は目を覚まして、慌てて起き上がる。そして窓際に見たものは……。
「シロ?」
『神に酒を奉納するのは良い心がけだが、あまりにも少なすぎる。全然足りぬ』
 私はしばし絶句したが、意地の悪そうなシロの顔を見て、心の底から嬉しくなった。
 シロが、戻ってきたのだ。しかもその手には、私が奉納した酒まで持っている。シロは黙って、私に一つ、白い杯を差し出した。
 私に、酒を分けてくれるらしい。なかなか、気の利いた狐だ。
 私はシロが注いでくれた酒を、一口飲んだ。日本酒の芳醇な香りが口一杯に広がった。一口飲んだだけなのに、非常に良い気分になってくる。
 なので、私は改めて、シロの勝手な文句に言い返してやった。
「全く、我が侭な狐だな。大体、あんたがまた酒を飲めるようにしてやったのは、私なんだからね?」
 言って、杯を煽った。シロが再び酒を注いでくれる。そうしてから、自分の杯にも酒を注いだ。
『ふん、だからこうして、お前にも神酒を振舞ってやっているのだろう』
「あ〜のね、そもそもこの酒だって、あたしが買ってきたものだっつ〜の」
 小さなビンに入った酒。でも少量なのに、気分良く酔いが回る。
『そういえば、おぬしは知らぬか。狐の焼き物は、願をかけるときに奉納するんじゃない。願いが叶ったときに奉納するのだ』
 突然シロが言い出した言葉の意図が良く分からなかった。
 けれど確かに、それは知らなかった。ということは、吉田恭子が死んだときにあれを持っていたのは、なぜだろう。
 それを尋ねれば、シロは、少し的外れだというような顔をしつつ、答えた。
『あの二人か』
 シロは、しばらく黙り込んだ後、話し始める。
『彼らは社で逢瀬を重ね、共に他所へ移り住む算段をしていた。だが、いつしか男は心変わりをし、移る当日、社で待ち合わせ女を殺した。……まあ、最初から殺すつもりはなかったのだろうが、口論のうちに女が転倒し、頭を売って死んでしまったのだ。そして転倒した時に、女が持っていた狐の焼き物が転がり落ちた。共に他所へ移り住むことが、女にとっては、願いの成就だったのかも知れぬ』
「へえ」
『だが、女は殺され結果として、願いは成就しなかった。俺はその咎めで神の眷属から外された』
 そうだったのか。
 それは、まあ、とんだ災難だったな。吉田恭子にとっても、浜岡亮輔にとっても、シロにとっても。
「神様になんて関わらない方が身のためなのかね」
 正直に言えば、シロは意地悪そうに笑った。
『もう、関わっているではないか。おまけに、そのおかげで祟られている』
「……はあ?」
 私の目は点になった。シロの言っている意味が分からない。
『叶えた、との、神の返答があったであろう。おぬしの願いは、こうして成就した。だがおぬしはその礼参りをしなかった』
「え、ちょ、ちょっと待ってよ」
 では私はあの時に、狐の焼き物を奉納しなければならなかったのだろうか。
「冗談でしょ〜」
『まあ、まだ間に合う。死にたくなければ、すぐにでも奉納するのだな』
 シロはそう言って、酒をあおった。
 ……また、私は狐憑きに逆戻りか。けれどもそれは、私が望んだ結果のような気がする。
「また、半年の命っすか」
『そういうことだな』
 でも、今回はその回避方法を知っている。死のうと思えば死ねるし、助かろうと思えばいつでも助かるのだ。
 ならば。
 もう少し、この状況を楽しんだって、いいか。


 そうして、私は再びシロと一緒に暮らしている。
 あれから頻繁にイッサが遊びに来るようになった。私の元にシロが戻ってきたことを話すと、イッサは少し、そわそわしながら私の周りを意識するようになった。そして同時に、自分にはシロが見えないことを大変悔しがっていた。
 あれから一週間が経ち、遺体の身元が明らかになったことを報道で伝えていた。司法解剖の結果死因も分かり、殺害現場も明らかにされた。
 多分、私の見つけた写真と、遺体に付着していた植物や土などが決め手になったのだろう。
『ところで、俺の名は見つかったか』
 部屋で読書をしていると、シロがそんなことを尋ねてきた。名前を知りたいと思うように執着すれば、会えると言ったシロ。
 私が名前を知ろうと起こした行動の結果、再びシロに会うことは出来たが、名前までは結局分からなかった。
「……ああ、それは無理だよ。そんなの、分かりようがない」
 私の中では、彼はまだシロという名のままだ。
『おぬしが付けた、犬猫のような名前は好かぬ』
 いつからか、常に持っている酒杯を片手に、シロがそんなことを言った。なんだ、知っていたのか。
「じゃあ、あんたの本当の名前を教えなさいよ」
 試しに言ってみた。もちろん、いつものように一蹴されるだろうけど。
『ふん、誰が自ら教えるか』
 ……ああ、やっぱり。
 いい根性をしている。ならば、見つかるまで探し続けてやろう。私が生きている限り、永遠に。ただしそれまでは、シロはシロである。
 そう言ったら、シロはフンと鼻を鳴らしてこう言った。
『ならば、おぬしが俺の名を見つけるまで、ずっと取り憑いてやる。簡単に殺してなどやらぬ。生きながら永劫俺の名を探し続け、苦しみ続けるといい』
 シロは楽しそうにそう言った。
 なぜだか知らないけど、シロは私にずっと、取り憑いていたいらしい。……それは、私を気に入っているということだろうか?
 ともかく、そういうことなら覚悟をしておいて欲しい。いつか本当の名前を知って、シロを使役してやろう。
 それまではせいぜい、私の精気を味わっていればいい。死なない程度だったなら、いくらでも。これからはもう、離れようと思っても離れられない、運命共同体なのだから。


完。


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