6.


 休憩を入れたおかげで、私は再び歩ける程度まで回復した。
 そしてなんとか住宅地の迷路を抜け出し、ようやく浜岡の家を見つけ出す。表札には、浜岡亮輔とあった。
 辺りはもう、薄暗い。私は再び疲れきって、その家の前にしゃがみこんだ。
「あ〜〜、もう駄目。疲れた」
『あと一息だろう。家の中に入れ』
「はあ? 入るの? つーか、入れるかな。留守じゃない?」
 家には人の気配がなかった。
 それは古く小さな平屋で、同じような家が何軒か建っているから、おそらく借家なのだろう。
『なんとかしろ』
「え〜……」
 私はよいしょと立ち上がって、家のすぐ前まで来た。
 家の入り口は、引き戸になっている。すりガラス越しに中を伺いつつ、呼び鈴を押すが、案の定応答はなかった。
 私は仕方なく、裏へ回る。裏には小さな庭があり、縁側がある。物干し竿があったが、洗濯物はかかっていない。窓ガラスにはカーテンがかかっていて、中の様子を見ることは出来なかった。
 念のため窓ガラスを引いてみるが、当然鍵がかかっていて、開けることは出来なかった。
「開いてないよ」
『……これ、割れるんだろう?』
 シロは、ガラスを指差して、さらりと言ってくれた。
 私に不法侵入者になれと。
 正直なところ、犯罪者にはなりたくなかった。けれど、私が死ぬのと犯罪者になるのとでは、親はどっちが腹立たしいだろう。
「やだよ。私が捕まったらあんただって一緒に刑務所入りだからね」
 不法侵入だけで実刑が下るのかどうかは分からなかったが、とりあえずそう言った。けれど、シロにとってはそんなこと、関係ないことだったらしい。
『男はこの中にいる。なんとかしろ』
 シロは幾分イライラしたような口調で、言った。
「……ホントに? なら、もうちょっと頑張ってみるけどさ〜」
 私はしぶしぶ、再び表に回った。呼び鈴を鳴らして、大声を出す。
「すみませ〜ん、郵便で〜す。浜岡さん、いらっしゃいませんか〜?」
 ついでに、がしゃんがしゃんと、引き戸を叩いた。かなりの近所迷惑だと思う。
「浜岡さ〜〜ん、電報ですよ〜」
 いつの間にか、郵便が電報になってしまった。まあいいやと思いつつ、辛抱強く待っていると、ようやく中から人が動く気配がした。
 私はドキドキしつつ、浜岡が出てくるのを待った。
 人影が、引き戸越しに見えてくる。鍵を開けて、引き戸を数センチほどガラリと開いた、そのときである。
『ご苦労』
 シロが、私の肩に手を置いて少しだけ笑うと、ものすごい勢いで家の中へ飛び込んだ。
「……うわあ!」
 浜岡らしき、男の悲鳴が聞こえる。
 引き戸が開いているのはほんの数センチばかり。シロが家に飛び込む瞬間、その姿が溶けて、わずかな隙間をくぐっていった。
 私はポカンとして、立ち尽くした。けれど、男の悲鳴の後には何の音もせず、辺りは静寂に満ちている。
「シロ?」
 待ちきれなくなって、私は引き戸越しに声をかけた。正直、安易にその中を覗くのは、躊躇われた。いつの間にか辺りはもう、真っ暗である。引き戸の中も、暗闇に満ちている。なんだか、不気味な雰囲気が漂っていた。
 その暗闇の中から、異様な空気が出ているかのように、感じる。けれど、確認せずにはいられない。私は一歩一歩、引き戸に近付いた。
『……ユウ、来るな』
 引き戸に手をかけかけたところで、シロの声が聞こえた。
「え、どうなったの? ……殺したの?」
 私はシロの声に怖気づき、一歩下がって尋ねた。
『我が役目は果たされり。おぬしはもう、行け』
 感情のこもらない言葉だった。それにあまりにも、唐突すぎる。
「は? どういうこと。あんたは私に憑いてるんでしょ? 私はどうなるの」
『ふん、生きてるのか死んでるのか分からぬ奴に憑いていても、俺には何の面白みもない。お前からはもう、離れる。好きに生きろ』
 突然そんなことを言われて、私は何がなんだか分からなかった。なんだか、私は死なずに済むらしい。けれど、なぜか、嬉しいとは思えなかった。
「あんたは、どうすんの」
『それはお前の知るところではない』
 突き放すような言い方だった。こいつは本当に、何も教えてはくれない。
「また、そんな言い方をする。……なんで何も教えてくれないのさ」
『おぬしは、俺に執着したくないであろう?』
 笑い含みの返答が聞こえた。

 そりゃ、そうだけど。
 何かに執着しないように、生きたいと思っているけどさ。
 そのせいで、ぶっきらぼうでマイペースな人間だと思われても構わない。私はそれと引き換えに、平穏な生活を送っているんだから。
 でもだからこそ、私には何の価値もないんだよ。それは嫌っていうほど自覚してる。私はただ、傷つきたくないだけなんだ。
 こんな人間は、あんたに憑かれて死んだ方がマシだった。半年の間でも、あんたがそばにいて。小五月蝿いことを言ってくれた方が、これから先長く生きるよりも、はるかに面白かっただろうに。
 ……私のことを見透かしている、あんただからこそ。

「もうお別れってこと? 結局あんたの名前すら分からないまま」
 なぜだろう、なぜだか凄く、焦燥感をかきたてられる。ほんの数日一緒にいただけだというのに、こんなにもシロに執着してしまっている。
『知りたければ、探してみるが良い。おぬしが俺の名前を知りたいと思うように、俺に執着するのなら再び会えることもあるだろう。……さあ、ユウ、行け』
 その言葉には、圧倒的な強制力があるように感じた。それなので私は、意を決して、別れの言葉を言うことにした。
「じゃあ、またね」
 私はそれだけ言うと、踵を返した。胸が苦しい。相手は、実体のない妖怪だというのに。でもこれが、憑かれるということなのだろうか。
 ……殺されても、良かったのに。
 私は、自嘲した。それでも死なない限りは、これからも生きていくしかない。
 生きているのか死んでいるのか、分からない、か。
 では私がしっかりと物事に向き合って生きていたならば、あるいは何かに執着していたならば、シロは私に憑いたまま私を殺したのだろうか。
 それも変な話だ。
 ともかく私は、トボトボと帰路についた。
 このときほど、一人でいるのが嫌だと思ったことはない。私は本当は、誰よりも一人でいることが恐ろしいのだ。


「よ、ユウ。桃持ってきた」
「……あんたねえ、連絡しろって言ったでしょうが」
 寝起きのぼさぼさの頭を手で撫で付けつつ、私は玄関口に立っていた。
 翌日の、昼過ぎ。イッサが桃を持って現れた。
 昨日は帰ってから、疲労困憊ですぐに寝てしまった。昼前に起きて部屋の中で一人きり、ぼうっとテレビのニュースを見ていたら、戸外で呼び鈴が鳴った。
 イッサは、私の格好を見てなぜか赤面しつつ、文句を言う。
「うわ、お前、それでも女かよ。もうちょっとマシな格好で現れろよ」
「突然来たあんたが言う言葉か」
 苦笑しながら、反論する。
 ちなみに今の私の格好は、キャミソールにホットパンツである。確かに、人前に見せるような格好ではなかったかもしれない。でも今は、格好なんかを気にするような精神的余裕を持ち合わせていなかった。
「上がってく?」
 出来る限り、いつもどおりの態度で彼に尋ねた。変にすがってはいけない。出来るだけ何気なく、軽いノリで誘わなくてはならない。
「……いや、止めとくよ。突然来て、悪いし」
 そんな努力の甲斐もなく、失敗した。
 私は差し出されたスーパーの袋を受け取りながら、落胆する。袋の中には、三つの桃が入っていた。袋口に鼻を近づければ、桃の甘い香りが漂ってくる。それで少し、気持ちが落ち着いた。
 ……失敗してよかったのかも知れない。部屋に上がるように誘ったところで、そのまま明るく振舞うことは無理そうだったから。
 人から遠ざかっていた私が、誰かに傍にいて貰いたいなんて、おかしな話だ。
 しかも素っ気ない態度を取っていたイッサにそれを、頼むだなんて。
「じゃあ、ありがとう」
 礼を言って、何とか笑みを浮かべることに成功した。
「おう、堪能してくれ」
 イッサは、軽く手を上げて踵を返す。あまりにもあっけなく、背中を向けられた。
 私はその直後、自分の笑みが瞬時に崩れ去るのを感じた。イッサが、背を向けるまでは保てて良かった。泣き顔に近い、情けない顔を見られたくはない。
 それなのに。
「それにしてもユウ、お前なんか今日、変じゃ……」
 イッサが、振り返ってしまった。
 私は慌てて片手で目もとを抑えると、イッサから顔を背けるようにして、俯く。
「ちょ、ど、どうしたっ?」
「……ちょっと、目にゴミが入った」
 我ながらベタな言い訳だと思った。けれど、イッサなら信じてくれるだろう。私のペースを乱すことなかった、イッサなら。
「そんな、すぐ分かるような嘘つくなよ。……なんか今日のお前変だし。何か、つらいことでもあったのか?」
 イッサは、私を慰めるように頭をポンポンと叩いた。
 私はしぶしぶ顔を上げる。別に、涙は流れていない。滲んではいるかもしれないけれど。
「何かあったなら、話してみろよ。俺に出来ることなら、いくらでも助けるしさ」
「……イッサは、優しいね。そうやって皆を助けていたら、大変なんじゃないの?」
 私はこんな状況下でも出来る限り強がって、そんなふうに言った。捻くれた性格は、そう簡単に直るものじゃない。
 言われたイッサは、慌てて頭を横に振る。
「別に、皆を助けられるわけじゃ……ていうか、ユウは、なんつうか」
 そこまで言って、言葉を切った。
 私が、なんつうか、何なのだろう。
 一瞬、シロが言った言葉が頭をよぎったが、私はそれを無理やり頭の片隅に押しやった。
「イッサ、お願いがあるんだけど」
 私は思いきって、それを切り出すことにした。少し、頼みづらいけれど。
「何? 遠慮すんな」
「明日とか、暇?」
「……え、なんで?」
「京都に、一緒に行ってくれないかな」
「は?」
 イッサは、ちょっと戸惑っているようだった。
 私はどうしても、伏見稲荷大社に用があった。もしかしたら、私が求めているものはないかも知れないけれど。どうしても、見に行ってみたい。そして行くなら、もう一人では行きたくなかった。
「……いいよ」
 イッサはしばしの逡巡の後、しかしはっきりと答えた。
 突然の遠出だというのに、本当にイッサはいい奴だと思う。その返事を聞いて、私の心も幾分晴れた。
「本当に? じゃ明日、朝九時くらいに駅改札口で待ち合わせね」
「お、おお。で、お前は大丈夫なの? 京都に行けば、悩みも解消するの?」
「うん、多分」
 泣きたいような衝動は、すでにもう、収まってしまっていた。
 イッサはそんな私の顔を伺うようにして眺めると、最後に私の肩をぽんと叩き、頷いた。
「……分かった。なら、明日な。……元気だせよ!」
 イッサは笑顔で手を振り、帰って行った。
 私も手を振り返して、半笑いのまま部屋に戻る。
 ……テレビでは、昨日死んだ男について報道していた。
 浜岡亮輔。
 玄関口で心臓発作を起こして死んでいた。それについては、何の事件性もない。だがその家から、もう一人の遺体が発見された。
 その遺体は女性で、死後数ヶ月が経過していた。遺体は大きなスーツケースに詰め込まれ、押入れの中に隠されていたらしい。遺体の損傷は激しく、身元はまだ、分かっていないようだった。


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