1.


 私はその半紙を両手で持ち上げると、未だ墨の乾かぬ宝珠の絵を眺めた。
 先のとがった丸い珠に、炎が揺らめく。
 霊力が備わり、持つ者の願いを叶え恵みを授ける不思議な珠。
 この珠の力を引き出す鍵は、私の手の中に……。


 畳の目に沿って丁寧に掃除機をかけ終えると、私はうんっと背伸びした。
 しばし曲げていた腰がゴキッと音を立てて、自分でもびっくりする。誰もいないことを確認してほっと息をつくと、掃除機のコードを回収した。
 部屋の入り口で振り返り、全体を見渡す。我ながら完璧な仕上がりだ。疲れたお客様をお迎えする旅館の部屋たるもの、塵一つ落ちてないくらい、きれいでなくちゃ。
 ……さて、そろそろお昼の時間だ。
 客室の掃除を終えて、掃除機を手に提げたまま部屋を出ると、ちょうど向こうの廊下の方から叔母の美千代がこちらに向かってくるところだった。
 美千代おばさんはこの旅館の女将さんで、とっても気風の良い女の人である。先代の女将さんと支配人が亡くなってから、女手一つでこの旅館を支えていた。
「ああ、里緒。今終わったとこ?」
「うん、ようやく。叔母さん、確認よろしくお願いします」
「はいはい。って、そんなに畏まらなくていいんだよ。いきなり頼んじゃったこっちが逆に、申し訳ないくらいなんだから」
 美千代おばさんはそう言って申し訳なさそうな顔で笑うと、私が持っていた掃除機を受け取った。
「お昼のお弁当が厨房に出来てるから、それ持ってちょっくら出かけてくればいいんでない? 今日はもういいから。あんた、公園さ散策してみたいって言ってたでしょ? 自転車も貸してあげるから」
「ホント? お手伝いはもういいの?」
「いいのいいの。のんびりと散歩してきな」
 ここまで言ってくれるなら、その言葉に甘えさせてもらうことにしよう。
 私は厨房に向かうと、近くにいた仲居さんに一言挨拶してからお弁当を持って、勝手口から外へ出た。勝手口を出ると旅館の裏側になっており、そのまま隣の家に続いている。この家が、女将さんの住まいになっている。
 私は合鍵を使って、家に入った。客間を一時的に使わせて貰っている。
 今は、夏休み。
 私の実家は東京で、家から通学出来る大学に通っている。まだ入りたての一年生だ。
 先日、福島県白河市で旅館をやっている叔母から、どうしても人手が欲しいとの要請があった。それで現在、二週間という期間でお手伝いに来ている。人手不足らしくて、猫の手でも借りたい勢いらしい。お小遣いも奮発してくれるらしいし、特に予定のなかった私は快諾した。元来アウトドア志向で未知の場所に行くことが好きな性質だから、こういう話に乗らないわけがない。
 私は身支度を整えると、お弁当を自転車のカゴに入れて勢い良く漕ぎ出した。今日は天気が良い。暑いけれど風があって、気持ちがいい。最高の公園日和だと思った。
 旅館から自転車で五分ほど走ったところに、南湖公園がある。松平定信によって千八百年代に造られた公園で、四季を通じてその景観が美しい。……と、旅館に置いてあったパンフレットに記載されていた。
 私は公園入り口の脇に自転車を留め置くと、中に足を踏み入れた。
 入って間もなく眼前に、大きな湖が広がる。
 空を映した湖面はキラキラと光り、まるで絵のように構図良く配置された睡蓮が、美しく咲き誇っていた。
 私は心中で、感嘆の声を上げる。
 こんなとき、一人で来ていることがもどかしい。誰かと来ていれば、思い切り声を上げてその感動を表現するのに。
 私はウキウキした気分で湖沿いの歩道をてくてく歩き、その半分も行かないくらいの場所で歩を止めた。
 行く先に、立派な神社があった。
 南湖神社とある。
 日本人であれば、目の前に神社があればお参りしていくというのが筋である……のかどうかは別として、私の足は自然と神社の奥へと進んでいった。
 石で出来た大きな鳥居をくぐり、何本もの石灯篭に挟まれた境内の道をまっすぐ歩いていくと、目の前に本社が見える。静かな境内には人影はなく、社務所にも人がいない。
 脇に神社の由来があったので読んでみれば、どうやら南湖公園を作った松平定信を祀る神社であるらしい。私は本社正面まで進むと、ショルダーバッグから財布を取り出した。小銭の中から五円玉を選び、賽銭箱に投げ入れる。
 そうして、立て看板に書かれている作法に従って礼拝した。ちなみにお願い事は家内安全。
 私はお参りを済ませ満足してきびすを返すと、せっかくだからおみくじでも引いてみようかと思いつつ来た道を引き返しかけた。
 ……若い男女が混じる、三人の話し声が聞こえてきたのは、そんな時だった。


「ここの宝珠もなくなってるって?」
 怪訝そうな女の人の声。
 少し低めのよく通るその声は、少し離れた場所から発せられているのに、境内の方にまで微かながら届いてきた。
「まあ、見てもらえば分かるよ」
『こんな小さなところまでも、か』
 女の人の言葉に応じる、二人の男の人の声もする。
 僅かな好奇心が頭をもたげてきて、私はそっと声のする方へ足を向けた。本社の脇に、奥へ続く道がある。その道の先にあったのは、紅い鳥居。その向こうに、こじんまりとした稲荷神社が建っていた。
 神殿の前には、二人の男女が立っている。
 私はなんとなく、傍に立っていた石灯篭の影に隠れて、二人の様子を観察することにした。
 女の人は二十代前半くらいで、髪は無造作に波打ち背中に届くほど。服装はTシャツにジーンズというラフな格好だ。一方男の人の方は、変わった姿をしていた。とはいえ、別段珍妙な格好というわけではなくて、白の着物に水色の袴を合わせた、神主さんのような格好だった。年齢はやはり若く、多く見積もっても二十代後半だろうと思う。
 声では三人だと思ったけれど、その二人しかいない。そのかわりに、女の人の足元には尻尾のフサフサした白い毛並みの中型犬が寄り添っていた。首輪やリードをつけているわけではないけれど、多分女の人のペットなのだろう。
「この通り」
 男の人が、小さな社の両側に据えられた狛狐の片方を指差した。一見何の変哲もない、石で出来た狐だ。
「うーん……確かに」
 女の人は首を傾げながら、それでも納得した様子でその狛狐を眺めている。横から見たり後ろに回ったりして、けっこう念入りに観察していた。
 そんな女の人の足を追いかけるようにして、同じように動く犬が可愛い。
「シロ、どう思う?」
 突然女の人が視線を犬に落とし、ごく自然に話しかけた。
 ペットに話しかける飼い主も多いことだし、特別な意味はないのだろう。
 と、思った瞬間、私は自分の耳を疑った。
『今のところ人間の仕業としか思えんがな』
 犬が顔を上げて……喋った。
 まさか、そんなはずはない。女の人が話しかけたのと、犬が顔を上げたのと、偶然タイミングが合っただけだろう。
 けれど、その声はそこに立つ男の人の声とは全く違ったし、かといって他に人影もない。それとも私のように物陰に身を潜めている人がどこかにいるのだろうか。
 それはそれで、不気味である。
 この人たちは、一体なんなのだろう。この神社の関係者なのかも知れないけれど、何となく違和感があるように感じた。
 話の内容も全く分からない。
「でも、それにしては綺麗に無くなり過ぎてない?」
 女の人は謎の声に応じた返事をすると、犬から男の人に視線を移した。
 男の人もいまいち納得できないというような顔つきをしたが、その場から切り上げるように足を踏み出した。
「まあ、これでいくつか確認出来た訳だし、もう行こうか。……今井さんはこれから、何か予定でも?」
 どうやら女の人の苗字は今井と言うらしい。
「いや、特に。今日は休みにしたんで。……とりあえずもう少し調べないことには検討もつきませんし、シロと相談して適当に動いてはみますよ。何か分かったらすぐに上原さんに連絡しますから」
 男の人は、上原さんだ。恐らく犬の名前が先ほどから呼んでいるシロという名なのだろうけど、相談するっていうのはどういうことだろう。
「それはありがたい申し出だけど、出来ればご同行つかまつりたいものだね。正直言って、今井さんみたいな人に出会うのは初めてだから」
「それはまあ、そうでしょうけど。でも、お互い様ですよ」
「あはは、……かもね」
 二人が並んでこちらに向かって来たので、私は慌てて身を縮ませた。二人の死角になるよう上手く灯篭の周りを移動して、何とか見つからずにやり過ごす。見知らぬ人たちの話を立ち聞きしていたなんて、ばれたらばつが悪い。
 ところが、二人の後を追うようにして歩いてきた犬が最後、こちらを振り向いた。私は鼓動を高鳴らせつつ、無意味ながらも人差し指を唇に立てて懇願の表情を作った。
 犬は半眼でフンと鼻を鳴らすと、『小娘が』と呟いて小走りに去っていく。
 幻聴、だろうか。
 またしても、犬が喋ったように思えたけれど。



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