2.


 私は二人と一匹が見えなくなった後、その場にぽつんと立ち尽くしていた。それこそ、狐に化かされたような気分だった。
 しかし唖然としていたのもほんのつかの間、風が強く一吹きし、地面に落ちた枯葉を大きく舞わせた。それでようやく、私は我に返る。
 そして、恐る恐る無人の稲荷神社へ足を向けた。
 女の人が念入りに観察していた、社に向かって左側の狐の傍に歩み寄り、私も同じように眺め眇めしてみる。台座の上に立つ、高さ六十センチほどの石像。かなり古いものらしく、尻尾や耳の先がやや欠けたりしている。またところどころには、苔が生えていた。
 姿勢はちょうどお座りをしている状態で、更にお手をしているかのように右手だけを上げていた。そういうふうにして上げた右手の下には、何もない。なんの意味もなく片手を上げているだけの姿勢は、ちょっとだけ不自然に見えた。
 私は首を傾げつつ、今度は右側の狐の方を見ることにした。
 左右の狐は向かい合うようにして座っており、姿勢は大体同じだった。ただ左側の狐と違う点は、同じように左手を上げているその下に、四角い渦巻き状の、鍵があることだった。
 一体何の意味があるのだろう。狐と鍵……平生から稲荷神社にあんまり縁のない私には、分かるはずもない。けれど昔から好奇心だけは強いのが災いして、私はふと、その鍵に手を伸ばしてしまった。もしかしたらすごく罰当たりなことだったのかも知れない。
 そして後から考えて見れば、この時そんな好奇心を持たなければ良かったのだけど、後悔先に立たず。でも確実に、好奇心は猫を殺すっていう外国のことわざは間違っていなかった。
 ……鍵の柄に触った瞬間、ボロッとそれが取れてしまった。


 その瞬間、再び強風が辺りを襲った。
 私は鍵が取れてしまったことに対する驚きよりも、そちらの方に気を取られ、鍵を握り締めたまま数歩たたらを踏んだ。舞い上がった塵が目に入った痛みで、反射的にギュッと目を閉じる。風はビュウッと私の周りをらせん状に駆け上がり、そしてピタリと止んだ。
 私は塵の入った目を指でこすりながら何とか目を開き、そしてビクッと身を強張らせた。
 そこには、二人の男女が立っていた。
 それは、先ほどここを立ち去った者達じゃない。去った彼らは明らかに普通の人だったし、一人は着物を着ていたとはいえ、何も不自然なところはなかったように思う。
 けれども今自分の正面に立つこの二人は、明らかに雰囲気を普通の人と異にしていた。
『お前が、卑しいコソ泥か』
 男の方が、表情を顰めながら腕を組んだ。
 その際、白い着衣の袖から驚くほど青白い腕が露わになる。白い腕、白い着物、白い袴、そして白い顔に白い髪。
 そして女の方も、袴が鮮やかな朱色である以外、やはり白い。
『小娘、その手に持つ鍵を、どうしようとしていた?』
 女に指差され、ようやくそれをずっと握り締めていたことを思い出した。
 私は突然のことで、声がすぐには出ない。怖いという感覚が分からないくらい、困惑で一杯だったのだ。それでとりあえず、指差された先の、自分が持つ鍵に目をやってみた。
 柄の長さはおよそ、十センチ程だろうか。その先の四角い渦の部分は十五センチあるかないかという程で、素材が石であるせいかずっしりと重い。
 それより、なんで自分はこれを、鍵だと思ったんだろう。正直これが鍵であるとは、普通は思いつかない。
「あの、これってやっぱり、鍵でいいんですよね……」
 質問とは全く関係のない発言をしてしまった。女の顔がやはりしかめられたので、私は慌てて弁解する。
「あ、ていうか、その、別に盗ろうと思って取ったんじゃなくて、触ったら取れちゃっただけなんです。壊してごめんなさい。もしかしてこの神社の方ですか?」
 もしかしたら、祭りがどこかであったのかも知れない。
 きっとこの変な格好も、祭りの衣装なんだろう。
 私は無理やりそう思うことにして、とにかく頭を下げた。そしておずおずと、その鍵を二人に差し出す。
『宝珠を盗んだのは、お前ではないのか』
 男の口から、また宝珠という言葉が出た。私はとりあえず、頭を振って否定した。
 宝珠というものがどんなものなのかは知らないが、とにかく何かを盗んだ覚えはない。
 しかしその男は、気難しい顔をしたまま、こちらに歩み寄ってきた。さすがに怖くなって、私は後退る。話し方もおかしいし、何より二人の雰囲気がやっぱり、普通じゃない。
『……まあ、どちらにしろ姿を見られたからには、ただで返すわけにはいないだろう』
「え!?」
 ただで返すわけにはいかないって、何を意味しているんだろう。
 私は何だか嫌な予感がしつつも、足が竦んでしまって逃げ出すことが出来ない。男はゆっくり近付いてきて、その手を私の首にかけた。
 殺される。
 そう思った瞬間、短く女の悲鳴が聞こえた。
 男が咄嗟に身を翻す。そこへ何かがビュッと飛んできて、男はそれを腕で打ち払った。
 私は目を見張る。数メートル先から、先ほどの白い犬、シロが歩いてきていた。フサフサとした尻尾をやや持ち上げており、その尾の周辺には青い火の玉が二、三個浮かんでいた。あれは一体、何なんだろう。どうしてそんなものが、見えるんだろう……。
『あんたは……どこの狐だい?』
 少しだけ乱れた髪を直すようにして、女がシロに話しかけた。
『伏見より参った。……白河の』
 女の問いかけに返すようにして、またしてもはっきりとシロがしゃべる。ここまで来ると、幻聴だとは思えない。
 そもそも、犬じゃなくて狐だったのか。狐なんて実物で見たことなかったから、犬と勘違いしてしまっていた。それにしても白い狐なんて珍しい。
 いや、そもそも喋っている時点で珍しいの域を超えているのだけれども。
『なぜ伏見がこんなところにまで? 我らが領域を侵すのか』
 男が睨み付けるようにして、シロを威圧した。一方シロの方は涼しい顔で――といっても、元々動物だから無表情なのだけれど――、男の言葉に返す。
『磐城の総代には許可を取ってある』
 フシミとか、イワキのソウダイとか、私には何のことやらさっぱり分からない。
『なぜ人間をかばう?』
『色々とややこしいことになる。……ともかく、今は大人しくしていてもらおう』
 シロの言葉に男女が押し黙ったその時、また先ほどの女の人が姿を表した。確か、今井さんという名だった。
「シロ、何があった? って何、どうなってんの一体……」
 今井さんの後ろには上原さんが続く。
「あれ、どうしたの君……その手のものは」
 上原さんが女と同じように、私が持っている鍵を指差したので私は慌てて頭を下げた。
「あ、あのこれ、触ったら取れちゃったんです! 別に悪気があったわけじゃないんです、許してください!」
 何が起こっているのかは分からなかったけど、とにかく私は謝罪に徹することにした。本当は色々質問を浴びせかけたい気分だったけど、そういう雰囲気ではない。
 たぶん、事情を聞けるような相手はこの二人だけだろう。
 もちろん彼女たちだって、どんな人なのか分からない。ただ今井さんの格好は私とそんなに分からないイマドキの服装だったし、上原さんも悪人のような感じはしない。だから後で色々尋ねることにして、今はなるべく静観しているべきだと思った。
『一体、どうしたことだ? 伏見の、おぬしは人間と行動を共にしているのか。だからそんな姿で』
『便宜上な。ともかく、一度話し合いたい。俺たちがここに来たのは偶然だが、放っておける問題ではない。人間の仕業であれば、同じく人間が役に立つであろう?』
 シロが提案をすれば、当の男女は顔を見合わせてどうすべきか悩んでいるようだった。
『ふん、西の箱入りに何が出来るというのか。まあいい。ツキミ、お前が話をしろ。私は戻る』
 そう言って、男の方は風と共に姿を消した。
 ツキミと呼ばれた女の方だけが後に残る。朱の袴を着けた、髪の白い、面長釣り目の女。
 ……ここまで来ると、色々と想像が出来た。シロが狐であって、彼らがシロの仲間であるとするならば、やっぱり彼らも狐なんだ。
 そして狐と言えば、ここ稲荷神社。彼らはきっと、神様の使いなんだろう。
 けれどやっぱり、訳が分からないのは同じだ。
 なんで私がこんな目に会っているんだろう。今まで霊感とかそういう類のものは無かったはずだし、まるで夢のような出来事が目の前で起きている。
 狐に化かされる、なんて物語は色々あるだろうけど、まさか自分が体験するなんて。
「ねえ、今井さん、どんなふうに見えるの?」
 上原さんが、今井さんに小声で話しかける声で、はっと我に返る。私はまだ石の鍵を握り締めたままだし、何だか落ち着かないのだけど。
「ああ、上原さんは声しか聞こえないんでしたっけ。残った方は、赤い袴着た女の人って感じですかね。上原さんの斜め右にいますよ」
 上原さんは今井さんの言葉を受けると、体の向きを変えながら口を開いた。
 なぜだか分からないけど、どうやら上原さんには、ツキミの姿が見えないらしい。
「ええとそれじゃあ、ツキミ様。立ち話も何ですし、私の家にいらっしゃいませんか? 一応うちも神社なので、摂社ですが稲荷様もいらっしゃいますし」
『仕方あるまいね。どちらにせよ、私らはこの娘との因果が結ばれた訳だし』
 ツキミ……様は、上原さんに促されて歩き出した彼の後に続いた。
 そうだ、神様のお使いなんだから、様をつけなくちゃ駄目だよね。……と、それはいいとして。
「因果?」
 娘と呼ばれた対象が自分であることを察して、私は首を傾げる。
 そうしたら今井さんが、気の毒そうな顔をしながら私の隣に並んだ。
「それ、取れちゃったんでしょ? 悪気は無かったとしても、それが原因であの狐に憑かれちゃったんだよね。このまま放っとくとあんまりいい事ないし、とりあえず私たちについてきなよ。私の名前は今井祐。そちらは?」
「あ、坂下里緒です」
 こうして私は、何だか良く分からないまま、彼らの後についていくことにした。



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