1.
近所を散策すれば、きっとそれは見つかるだろう。
赤い鳥居に小さな社、その両側には小ぶりな狛狐が、参詣する者を静かに待っている。
誰がいつ建てたものか、知る者は殆どいない。
参詣する者は、数えるほどしかいない。
それでも社には、今でも確かに、正一位稲荷大明神の神霊が鎮座する。
私の名前は今井祐。大学卒業を数ヶ月先に控えた22歳。
就職はせず、大学院への進学が決まっている。
専攻は、「環境社会学部・民俗環境機能研究科」といって、果たして文系なのか理系なのか良くわからない学問を選んでいる。
まあ、どちらかといえば、文系に近いんだろう。
研究室で実験しているというよりは、地方の山野にてフィールド研究をしている。
そして、一通りのフィールド研究を終えればひたすらパソコンに向かい、日本語を操り、文章をひねりだす作業を延々と続けるわけだ。
「私には文才がない」
一言呟いてため息をつくと、私は両手を持ち上げて伸びをした。そしてそのまま後方へ寝転び、天井を仰ぐ。
下半身を収めたコタツが温く、このまま数分もすれば、きっと眠りの深淵へと導かれるに違いない。
『少しは進んだのか、その、卒論とやらは』
俗世とは無縁でお気楽な狐、シロは小ばかにしたような表情で私を見下ろした。
「全っ然」
私は投げやりに答えると、頭の近くに立ったシロの身体に手を回し、引き寄せた。冬は彼のフワフワの毛皮がいとおしい。卒論作成というストレスを抱えた私には、最高の癒しグッズである。腕の中に収めて頬擦りすれば、本人はあからさまに嫌がり私の肩に爪を立てた。
「痛い」
顔をしかめて手を離せば、シロはさっと離れて、文句を言う。
『俺は毛皮のマフラーじゃない、と何度言えばわかるんだ?』
「そんな、マフラーだなんて思ってないって、心外だ」
『……言っておくが、お前のペットでもないからな』
釘を刺すように言われては、苦笑するしかない。
……シロは、恐れ多くも偉大なる食物神、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)のご眷属である。今は毛がフワフワの狐に憑いているが、本来は人の目には見えない白狐様である。
宇迦之御魂神を祭神としている稲荷神社は全国に散在し、分祀された神社の数は三万以上あるといわれ、個人や法人に勧請された御霊もあわせれば、四万〜五万にも及ぶらしい。
というわけで、お稲荷さんといえば、日本を代表する有名な神様なわけだ。
その神様のご眷属が、なぜこんなごく普通の女子大生の部屋に、狐の姿で居候しているのかといえば、色々と事情がある。
出会いは二年前だが、彼に出会ってから、私の人生は大きく変わったといっても過言ではない、と思う。
もちろん実生活に大きな変化はないけれど、価値観というか、意識というか、根本的なところでもう、昔には戻れない。
この世に本当に神様がいるなんて、昔の私だったら信じられなかった。
「そろそろ餌をやる時間か」
時計を確認すればもう午後六時を回っていた。私はコタツから出ると台所へ向かう。
シンクの下の収納を空けると、ドッグフードや猫缶がどっさりと納められていた。
狐一匹を飼うには、犬や猫を買うのと同じくらいお金がかかる。けれど、シロは犬や猫と違って、自分でその費用を捻出してくれるから私のお財布には全く影響が無い。
どうやって捻出するのかというと、さすが神様、懸賞が当たるのである。懸賞だけではない。宝くじやロトなど、その当選確率は半端じゃない。
とはいえ、そんなに運を使っていたら後が怖いので、狐の餌代が儲かればそれ以上を得ようとは思わないけれども。
私は猫缶を開けて器に移すと、部屋の片隅に置いた。
シロは軽い足取りでそこへ向かう。
……と同時に、白い着物と袴を着た一人の男が、スッと部屋に立った。
それが、シロの本当の姿である。
憑坐として狐の身体を使用しているけど、さすがに本当の獣のように猫缶を食べるわけにはいかないようで、食事の際にはこうして憑坐から身を離す。
この姿は普通の人には見えないが、因果によって結ばれている私には、実体を伴って存在を示している。
白い髪は肩に届き、釣りあがった眼の中の瞳孔は縦長だ。それ以外は全く普通の人間とおんなじで、残念なことに、狐の耳としっぽはついていない。
シロは、私の頭にぽんと手を置くと、ニヤリと笑んでこう言った。
『ユウ、酒』
電話がかかってきたのは、夜八時過ぎである。
電話の主は、焦りを無理やり抑えてながら、それでも逼迫した状況にあるのか、暗い声で訴えた。
『もう、限界だ』
彼は、その一言の後、深くため息をついた。
『僕のせいだという確証はないんだけど、身の回りの人が一人亡くなった。このままこの地に留まるには限界があるよ。僕も寝ている間のことは責任取れないし……何より、僕の体調が最悪だ』
彼の身に災難が降りかかってから、もう何ヶ月経っただろう。夏の頃だったから、もう4ヶ月は経ってしまう。
私は彼と同じようにため息をつくと、口を開いた。
「……実は少し前から考えてたんですけど、上原さんがよければ、あちらにしばらく滞在してもらえませんか? 監視してくれる知り合いもいるし、上原さんには不便だろうけど……」
私は話しながら、シロの様子を伺った。シロは未だ人の姿のまま、私と一緒にコタツに入り、酒をちびちび飲んでいる。シロも私の顔を眺めていた。何を考えているのかは、その無表情からは読み取れない。……多分、私の提案を良くは思ってないだろう。
『あちらとは?』
「……あちらとは、つまり……“あやかし”の世界のことです。あやかしの世界とはいえ、滞在して貰うところはどちらかといえば神域に近いんですが……。上原さんは白河で物の怪道を通ったことがあるんですよね?」
『ああ、物の怪道かあ。この間は本当に通っただけだからね、それにしてもあそこに滞在なんて出来るの?』
「出来ますよ。……そう言う意味では上原さんはもう、普通の人じゃないんです。でもまあ、今回はあそことはちょっと違う場所だって考えて下さい。ともかく、仕事とかは大丈夫ですか? 準備が出来次第東京へ来てもらえると嬉しいんですが」
『……わかった。体調がとにかく悪くてね、実をいうと仕事は先月から休んでるんだ。極端な話、明日にでも向かえるよ』
上原さんの言葉で、彼の深刻さが更に伝わってくる。それと同時に、そんな状態になってさえ、1ヶ月も私に連絡することをためらっていたことが分かり、胸が痛んだ。
私は壁面の時計をちらと見てから、返答した。そんなに遅い時間でもない。
「そうですか。じゃあ、こちらも今晩中に準備しときますから、明日、東京に着く時間を連絡してください。駅に迎えに行きます」
『助かるよ。……迷惑かけて御免ね』
「いやいや、私のほうこそ、力が及ばず……」
『それとこのことは、坂下さんには内密にね。心配するから』
「……まあ、そうですね。じゃあ、また明日」
うん、おやすみ。
その返事を待って、私は電話の終話ボタンを押した。そのまま、コタツに突っ伏する。額をテーブルにつけて、しばし頭を冷やした。
『安請け合い……とまでは、言わないが』
シロの声が頭上から、落ちてくる。彼が言いたいことは、分かっていた。
「……わかってるよ。でも、ほっておくわけにはいかないでしょ。私にも責任があるんだから」
彼を見捨てるわけにはいかない。
不運にも妖狐に取り憑かれた上原さんは、このままでは近いうちに、その命を失うことになるだろう。