2.


 玄関を出て鍵を閉めると、冷たい風が髪を揺らし、思わず身体を強張らせた。風呂上りの乾ききらぬ髪の水分が、凍りつきそうな寒さだ。さすがにシロを首に巻くことは出来ないが、まさに毛皮のマフラーでも欲しいところである。
「さ、寒すぎる」
 私は思ったことをそのまま口に出しながら、歩を進めた。
 その足元に寄り添うように、シロが着いてくる。
『風邪引いても知らんぞ』
「……うう、マジで風邪引きそうなんスけど」
 私は言いながら、小走りに目的の場所へ向かった。近場なので、さすがに車を使うわけにも行かない。
 電話を切った後、清めの意味でシャワーを浴びて出てきたから、もう九時を過ぎていた。
 通りには街灯があって、人通りもなくはないし治安の悪い場所ではないけれど、やっぱり夜の住宅街を歩くのは不安だ。ちょっとした暗がりから、何が出てくるかわからない。
 特にシロと出会ってからは、人以外の存在も意識しなければいけないから、厄介だ。
 とはいえ特に何事もなく、五分ほど歩けばその小さな稲荷神社に行き着いた。
 最寄の稲荷神社まで徒歩五分。
 部屋選びに神社の場所を意識する人は皆無に近いだろうけど、今の私にとっては駅の場所と同じくらい重要だ。
『簡単に取り次いで貰える補償はないぞ』
 辺りに人がいないことを確認していると、シロに釘を刺された。私がこれから会おうとしている相手は、簡単に会って貰える相手ではないらしい。
「わかってるって。まあ、一応連絡だけ取ってもらって、いつもの所で時間を潰すから」
『……やれやれ』
 シロの小言を聞きながら、私はその小さな社の前に立った。小さい神社で手水舎すらないので、清めはいつも省略だ。浅くお辞儀をした後大きく腰を折って二拝した。拍手は夜なので、軽めに打ち鳴らす。そうしてからまた深く礼をして、そのまま小言かつ早口で、簡易の祝詞兼祈願を唱えた。
「かけまくもかしこき稲荷の大神の大前に恐み畏みも白す 穢れの多き身なれど 大前に参り出でることを許されたしと祈願申し給う 夜の守り日の守りに守り幸へ給えと 恐み畏みも白す」
 言い終わるか終わらないかのうちに、シロが先に足を踏み出した。私もその後を追うように、足を踏み入れる。社の暗がりに吸い込まれるように、飲み込まれるかのような恐怖と共に息を詰めて歩を進めれば、辺りは一気に暗闇に包まれた。
 けれど、それも一瞬だ。
 数歩先のシロが、狐火を出して辺りを照らしてくれた。
『相変わらず、慣れないようだな』
「……いやあ、もう、拒否反応っていうかさあ。未だにこれまでの固定観念を捨てきれないというか、なんというか」
 日常とはかけ離れた現象に、心も身体もついていかない。
 正直なところ、こちらの領域に足を踏み入れるこの瞬間が、酷く緊張する。
 本当はシロに引き入れて貰うのが一番早いんだけど、いつまでもシロを頼っていると、いざ一人で来なきゃならないときに出来なくなるとシロに言われた。
 狐火は、ぼんやりと青白く、辺りを照らしていた。
 後ろを振り返っても、そこはただ真っ暗な空間しかない。足元には古い木の板が並べられており、まるで湿原の中に渡された遊歩道のような趣だ。
「……ねえ、シロ。……やっぱり、封じるしかないのかな」
 数歩先を誘導するように歩くシロに、私は話しかける。少し前から考えていた解決策に、ためらう気持ちが強かった。
『どういう意味だ?』
「シロのご先祖様だって、畜生上がりだって言ってたじゃない。コウリだって稲荷様の加護を受ける権利はあるんじゃないかな」
『無理だな』
 私の提案を、シロは一蹴した。
『もう何百年と、畜生上がりは受け入れられていない。ただでさえ狐は増えるんだ。稲荷神はこれ以上眷属を増やしたくはないと思ってるさ』
 言われて、黙るしかなかった。どっちにしろ、神様の都合なんて、人間にわかるものではない、か。
 黙々と歩いていくと、やがて景色が少しずつ変わってきた。真っ黒だった地面に草花が生え始め、やがて、木製の歩道が尽きると辺りは完全な森の中に入っている。
『着いたぞ』
 言われて見上げれば、目の前には大きな門が立ちふさがっていた。ここへ来るのは二回目だ。
 関東稲荷総司、王子稲荷の御館である。




 4ヶ月前――
「わからない? 微塵も感じない?」
 思わず聞き返した私の言葉を受け止めながら、コウリは誤魔化すように鼻で笑った。
『ふん、そうは言うが、一体何年前の話だと思ってるんだ。三百年も経てば人間だって十代近く変わるだろう』
「……完全に開き直ってるし」
 安行寺にて展示された柳行李を眺めながら、交わした会話だ。
 コウリは完全に、復讐相手のことを忘れていた。あやかしであれば感じるであろう、相手の気配、体温、臭い……なんでもいいけど、とにかく相手の居場所を特定する感覚を全て忘れていたのである。
 私は思わず足元のシロを抱え込んで、ヒソヒソ声で会話する。
「そんなことって有り得るの? シロは前に浜岡って男を殺したときは、ちゃんと相手の居場所わかってたよね?」
『……俺のときは、三百年も経ってなかったからな』
「そ、それにしてもさあ。三百年経ってさえ果たそうっていうくらいの強い思いな訳でしょ? 忘れるってどうよ? 妖怪としてどうなのよ。復讐する権利あんの、それ」
『おい、聞こえてるぞ』
「ぐえ」
 襟首を掴まれて、思わず息が詰まった。そのまま立たされると、コウリはがしっと私の首に腕を回し、ぐいっと顔を近づけた。
 上原さんの顔が邪悪に笑っている。きっと本来の彼はしたこともない表情に違いない。
『俺が相手を忘れてようが忘れてまいが、取引は取引だ。お前が俺の報復相手を探し出せない限り、俺はこの身体を手放さんぞ』
 それはすなわち、上原さんの不幸を意味する。
 妖怪に身体を奪われて、いいことなんて無いだろう。私がシロに憑かれたときは、半年の命と言われたのだから。
『おい、ユウからその手を離せ』
 シロが唸りをあげて威嚇すれば、コウリは笑って私を解放した。
『まあ、俺はこの身体が死んでも次を探せばいいだけで、困ることは無い。とりあえず久しぶりのうつつの世界を楽しむさ』
 私は大きくため息をついた。
 もはやこの地に意味はない。報復相手にも意味が無い。
 コウリは報復の相手を忘れ、ただ憎しみの感情だけを抱いて、この世に悪影響を与えるだけの邪妖に成り果てたということだ。
「……なら、お前を封じるしかない」
 安行寺を出て駐車場に向かう途中で、私はコウリに言った。
 コウリは数歩そのまま歩いた後、ゆっくりと振り返ると、不敵に笑った。
『出来るものならやってみるといい』
 言って、私に歩み寄る。見定めるように、私を上から下まで眺めた。
『なかなか面白い奴だ。何の力もないくせに、なぜそこまで強がるんだ?』
 腕組みをして、コウリは言う。
「……強がってるわけじゃない。フェアじゃないのが嫌いなだけ」
 私は無意識に自分の耳元の髪を握りしめて、コウリから目を逸らした。コウリは、何かを見透かすかのような目をしていて、視線を合わせていられなかった。さすが、何百年も生きている妖狐である。
『フェア?』
「公平じゃないってこと。いきなり封じられるのは、あんただって嫌でしょ?」
『……ふん、あやかしに公平も不公平もないさ。今この場で、お前を殺してもいいんだ』
 コウリはそう言って、私に手を差し伸べた。ひんやりとした手が、私の頬を撫で、首元まで移動する。私は身体が動かなかった。
 けれど、それも一時のことで、コウリはすぐに私から手を離した。
『面白い。こんな面白い奴を、すぐには殺さないさ』
 コウリはしゃがみ込むと、威嚇の体勢を取っているシロに手を伸ばしかけ、咬みつかれそうになって手を引っ込めた。
『神もあやかしも、人が好きだからな』
 笑って、立ち上がった。
 そして目を閉じて、次に開いたときには、彼は上原さんと代わっていた。



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