前編
それは、雪が静かに振り続く、ある夜のこと。
サエコは頭にも肩にも、至るところに雪を降り積もらせたまま、扉の前に立っていた。
サエコは赤く染まった冷たい手に、白い息を吐きかける。
その様子が今でも目に焼き付いている。
「ねえ、いつかあなたが私を見放す時が来て、私が路頭に迷うことになったとしても、私は責任を取れなんて言わない。それだけ貴方が好きだから、お願い、私をそばにいさせて?」
サエコはそう言って、自分の周りにあった全てのものを捨てて、俺の部屋に入りこんで来た。
サエコと出会ったのはそれから半年ほど前、日本列島が猛暑に包まれた、ある夏の日のことだった。
サエコは淡いピンクの水着を着て、防波堤に一人座っていた。
この海は海水浴場ではない。
人はそれなりに来ているものの、それは海水浴をするためではなく、釣りのためだ。
それなのにサエコは、水着を着ていた。
それがひどく違和感を覚えさせた。
「君、一人?」
俺はナンパのような言葉を、サエコの頭上に落とした。サエコは、ゆっくりと俺の顔を見上げた。
そこには、何の表情もない。
「誰?…何の用?」
「…いや、用はないけど。俺は安西祐輔」
俺はサエコの隣に腰掛けた。
強い日差しが二人の上に降り注いでいる。
座ったアスファルトの上は、とても熱かった。
「私は、サエコ」
「…何してるの?ここで」
「…海に、行きたくて…でもここの近くには泳げるところがなかったから、ここで眺めてる。こんな水着なんか着て」
そう言ってサエコは、少しだけ口の端に笑みを浮かべた。その笑みはとてもぎこちなくて、そしてはかなく消えた。
「海水浴場まで行けないの?…電車で幾つか先の駅まで行けばあるのに」
「…そんなに時間はないから。…もう戻らなきゃ。怒られちゃう」
そう言って、サエコは立った。
腰からすらりと伸びた足が、赤く染まっている。
サエコは、足元にあった荷物の中からTシャツとスカートを取り出すと、水着の上から着てしまった。
「また、会える?」
サエコが尋ねてきた。
「…たぶんね。いつもここに来るの?」
俺は、重そうな荷物を億劫そうに肩にかけるサエコを見上げて、尋ね返した。日差しの眩しさに思わず目を細める。
「この時間帯なら割と。でも、少しの間しかいないから、すれ違っちゃうかもね。…じゃあ」
今思えば俺もおかしなことをしていたものだが、翌日も翌々日も俺は海へ出かけた。
最初の時は、目的もなく海へきていたのだが。
いや、目的ならあったが、海へ出たのは偶然だった。
俺は今年、元々通っていた大学を2年で退学し、改めてこの町の大学へ入学した。つまり、3年次編入というやつである。
編入してから数ヶ月、慌しい時間がただ流れていった。
今までの大学で取った単位が認められるかだとか、足りない単位は何だだとか。更に、編入してきたばかりだというのに、卒研のための研究室を決めなくてはならなかった。そのための情報集めに、友達の間を右往左往していた。
そうして、引っ越してきて数ヶ月経ってからも、この辺りの地理を全く知らないことに気がついた。
だから夏休みに入った今、自転車を使ってこの辺りを散策していた。
そんな時だったのだ。サエコと出会ったのは。
だがサエコは、翌日も翌々日も姿を見せなかった。
すれ違っているのかとも思って、1日中海にいることもあった。おかげで俺は真っ黒に焼けた。
4日目、俺はこれで最後にしようと思いつつも、海へ向かった。どうせ、暇なのだ。
そしてそこに、サエコがいた。
今回は水着を着ていなかったが、それでもあの日と同じように防波堤に腰掛け、海を見ていた。
俺は何となく嬉しく思い、焦る気持ちを押さえながらゆっくりと、サエコの元に歩いていった。
そしてふと、サエコの横顔を近くで見て、ドキリとした。
サエコは、泣いていた。
サエコは黒く真っ直ぐな髪をかきあげながら、俺を振り返って少し笑った。相変わらず、それははかない笑みだ。
そして前方に向き直ったサエコの横に、俺は腰掛ける。
「…本当に来るとは思わなかった」
サエコはぽつりと言った。
「君が、会えるか聞いてきたんだろ?」
「…そうなんだけど。あれから4日も経つから。…ごめんね、毎日来てた?」
俺は答えなかった。少しだけ、腹が立っていたのかもしれない。けれどもそんなことより、気になることは他にあった。
「何で泣いてたの?」
「…色々、落ち込んじゃって」
そう言うサエコの頬はもう乾いていたが、瞳はまだ赤く染まっている。
「…今、浪人なんだ、私。両親がね、厳しい人たちでね。…私が勉強の出来ない子だっていうのは、嫌って言うほど知ってるはずなのに」
サエコは短いため息をつく。
「…偏差値って、そう簡単に上がるものじゃないんだよね」
「そうか…」
事情はだいたい呑みこめた。
でも今時、そんな厳しい親もいるもんだなあ、と俺は思う。俺の親はある意味、放任主義に近かったから。
「じゃあ、今日は予備校帰り?」
「今日は、サボっちゃった」
サエコは笑うでもなく、そう言った。
本当につらいのだろう。笑う術を、なくしてしまったのかも知れなかった。
「あ、じゃあさあ、俺が教えてやろっか?俺、こう見えても大学生なんだ。家庭教師もやったことあるし」
「…ほんと?…でも、お金出せるかどうかも分からないし」
「いいよ、金なんか。俺の部屋近くなんだ、今から来ない?」
「…でも…」
サエコはすぐには了解しなかった。
それもそうだろう。まだ2回しか会っていない男の部屋に、そう簡単について来るような女はなかなかいない。
実際俺も、下心が全くなかったというのは嘘だし、あわよくば彼女として付き合えたら、とも思っていた。
サエコに、一目ぼれしていたのかも知れない。
サエコはしばらく考え込んでいた。
今思えば、この時点でもうサエコは、勉強をするという行為に疲れ果てていたのだ。そしてそのストレスはサエコの心に高く降り積もり、精神的にも追い込まれていた。
だから、今更勉強を教えようと言われても、すぐには受け入れることが出来なかったのだろう。
それでもサエコは結果的に、俺の部屋に来た。
勉強をする環境が変われば、気分も変わると思ったのだろう。
それから、予備校をサボったことが家に知らされてからサエコは、予備校の後に俺の部屋に通うようになった。
両親には予備校の自習室で勉強していると言っているらしい。
最初のうちは俺も彼女に勉強を教えていたが、あまりに飲み込みの悪いサエコに、少しイライラしてきた。
それで一週間もすればサエコは、俺の部屋にただ息抜きのために来るという感じになった。
二人で話していると時間は早く過ぎていった。
ある日はゲームに熱中したり、ある日は俺の持っているマンガを読みふけったり。
サエコはそんな中で、少しずつ、笑顔を取り戻していった。
そして出会ってから2週間ほどで、俺達はサエコの行きたがっていた海へ行った。
日帰りではあったがその日はなんと言うか、時間が輝いていた、とでも言うのか。
とにかく俺達にとって最高の時だったのかもしれない。
今となっては。
そしてその日から数日して、サエコは全く姿を見せなくなった。