中編



 それは本当に、突然のことだった。
 サエコが家へ来なくなって2日。
 俺は少し焦り始め、何とかサエコと話がしたいと思って、ふと気がついた。
 俺はサエコの家の住所も、電話も、連絡を取り得る手段を、何一つ知らなかった。
 何故だろう。聞いておくべきだった。俺は全くそのことに関して失念していた。
 サエコは毎日同じ時間に俺の部屋に来たし、それが当たり前のように錯覚していた。
 何か、病気をしているのかも知れない。
 最初の内はそう思った。またすぐ顔を出すだろうと思ったのだ。だから、いつもその時間は部屋にいるようにしていた。
 けれど夏休みも終わり、大学が始まって何週間か経つと、もう俺は諦めていた。
 息抜きも終わったのだろうと、そう思った。
 あるいは、両親に縛り付けられているのだろうか、とも思った。それが事実だったら、彼女はまた追い込まれ、泣いているのかもしれない。
 そう考えたところで、俺には何も出来なかった。

 だからその雪の振る日、俺は外へ買いだしに出ていた。
 秋口に購入した中古の自動車に乗って、遠くのホーム・センターまでストーブを買いに行っていたのだ。
 散々悩んだせいで、帰りが遅くなった。
 辺りはもう真っ暗で、気温も大分下がっていた。
 俺はストーブの大きな箱を両手に抱え、部屋へ向かった。古いアパートの、2階へ続く鉄板の階段を危なっかしげに登り、自分の部屋へ向かう。
 箱のせいで狭い視界から何とか自分の部屋の前を見たとき、俺は驚いて足を止めた。
 サエコが小刻みに震えながら、部屋の扉に寄りかかって立っていた。
 吐く息が、白く夜の空気に溶けていった。

 サエコは、家出をして来たのだ。
 というか、勘当されたらしい。
 サエコには出来のいい兄が一人いて、両親はそちらの方を大事にすればいいのだと、サエコは言う。
 俺には今時、親が子を勘当するなんて話は信じられなかった。
 親は子供のことを無償で愛する、なんてお綺麗な言葉は嘘だとも思うが、それでも心の中では、親にとって子は大事なものだろう、と信じている。
 だから、一度は説得をした。
 俺にはサエコを養うことは不可能だったし、それこそ、何の責任も取れない。
 俺は成人してはいたが、まだ学生であったし、親の庇護を受けている子供でもあるのだ。
 けれどもサエコは引かなかった。
 最初に「責任を取れとは言わない」と言っていただけあって、この部屋に住めないのならそれはそれで良いと言った。
 でもかと言って、家には絶対帰らないという。住み込みの水商売でもしながら生きていく、というのだ。
 俺ははっきり言って、呆れた。
 確かに世の中にはそういう人達もいるが、サエコがそういう世界に入る必要性はないように思えた。
 選ばなければどこかしらの大学には入れるだろうし、いくら厳しい両親だって無理は言うまい。
 子を予備校に行かせる金があるのならば、私立の大学にも行かせられるだろう。それが無理でも、偏差値の低めの公立大学は結構ある。

「どうしても、受験は止めるつもり?」
「…私、大学へ行っても今と同じような気がする。同じように勉強が出来ないって悩んで、卒業できるかどうかも分からないし…」
「いや大学は結構、楽といえば楽だけど…まあ、高卒で就職する奴なんかざらにいるし、受験は無理にしなくてもいいんだけどさ…」
 俺は言葉に詰まって、サエコを見た。
 夏の頃と比べて、サエコは大分痩せていた。それは、厚着をしている服の上からでも分かるほどに。
「でも、俺は本当に、何も出来ないし…」
「…何もしなくていい」
 サエコは、そう言って縋るような瞳で俺を見た。
 その表情に、俺はドキリとする。
 正直に言えば、欲情したのだ。
「だから、お願い。…私、祐輔さんのこと、本当に好きなの。ここに来れなかった間、ずっと考えてた。祐輔さんと手をつないだり、抱きしめあったり、一緒に寝たり…そういうことが出来たらいいなって、ずっと考えてた。…だから、決心がついたの。祐輔さんに会えたからこそ、私、今の状況を変えようと思っ…」
 言葉の途中で、俺はサエコを抱きしめた。
 サエコのことが本当に愛らしく思えて、そしてその感情を押さえることが出来なかった。
 その晩、俺とサエコは愛し合った。
 この冬の寒さを打ち消すかのように強く抱き合い、サエコは俺との行為で、何かを吹っ切るかのようだった。

 そうして始まった二人の生活は、多分、うまくいっていたのだと思う。
 サエコは近くのコンビニエンス・ストアでアルバイトをし、俺が大学から帰るころになると、部屋に帰り食事の支度をしてくれていた。
 家事をすべてサエコに任せるのもどうかと思い、平等に分担することにした。
 それでも結局、7割はサエコが家事をすることになってしまったが。
 やがて俺も同じコンビニエンス・ストアでバイトを始め、疲れた夜はそこの弁当を食べたり、給料日には美味しいものを食べに行った。
 冬はあっという間に過ぎ、春がやってきた。
 
 俺は卒業研究を始め、うまくいかない実験にイラついていた。更にその研究室は、遅くまで家に帰れないことで有名だったらしく、俺とサエコの生活はずれ始めた。
 夜遅く家に帰れば、サエコが準備しておいてくれた食事にも手をつけず、ベッドに倒れ込む。
 朝は当然起きれないから、サエコと食事も出来ないし、バイトへ行くのを見送ってもやれなかった。
 たまの休みがあっても、俺はただぼうっと過ごし、サエコをかまってやることが出来ない。
 というか逆に、サエコを鬱陶しく思い始めていた。
 誰でも、一人で過ごしたい時間はある。
 そんな時サエコの存在が、ひどく邪魔に思った。
 サエコがそんな俺の態度を心配して機嫌を取ってくるのも、うざいとまで思う始末だった。
 そしてやはり、実験も思うような結果を得られない。
 研究室でも人間関係がうまくいかなくなり、何もかもが嫌になりかけた。
 
 そんな時相談に乗ってくれたのが、同じ大学の同級生、ミチコである。
 ミチコは俺を励まし、慰めてくれた。
 研究室は違うものの、似たような立場にあったミチコに励まされると、自分が今こうして悩んでイラついているのが、恥ずかしいことのように思えた。
 そうして初夏のある日、俺とミチコは寝た。
 その日は二人で酒を飲んで、実験のことについて話し込んでいたのだ。俺の実験はその頃ようやく軌道に乗り始め、卒業までに何とか仕上げられそうな目処がついた。
 そして酒の勢いに任せて、俺達はラブ・ホテルへとなだれ込み、行為に及んだ。
 ミチコが俺に好意を寄せてくれているのは明らかであったし、誘えば断ることはないだろうと思っていた。
 そしてやはり、ミチコは誘いに乗った。
 でも俺は、こういっては何だが、サエコと別れてミチコと付き合いたかったわけでは、決してない。
 ミチコとはこの一夜限りで、それから特別な付き合いをする気もなかった。
 浮気、ということなのだろうが、それも相応しくないように思えた。
 とにかく、ミチコと寝たことは俺にとっては、そんなに大きなことではなかったのだ。
 けれど、そう思っていたのは俺だけだったらしい。

 ミチコが俺の部屋に来たのは、夏休みに入ってすぐのことだったらしい。
 俺はその日アルバイトに入っていたが、サエコは休みだった。
 そうして二人は出会い、互いに驚いたことだろう。
 俺はミチコにサエコの存在を話していなかったし、もちろんミチコのことも、サエコに話していない。
 とにかく、サエコはミチコを部屋の中へ導いた。
 ミチコが大学の友人であることは何となく悟ったのだろうし、もしくはミチコがそう言ったのかも知れない。
 最初二人は黙り込んでいたが、ミチコが話を切り出した。
 貴方は、誰なのかと。
 なぜ俺の部屋にいるのかと。
 そうして二人は、お互いの立場を話し合った。
 ミチコは俺と寝たことで彼女になったつもりでいたし、サエコも気後れしながらも、今までのことを全て話してしまった。
 ミチコは、サエコを責めた。
 サエコの存在が、俺の負担になっているのだと、束縛しているのだと。
 全く、余計なことをしてくれるものだ。
 サエコの存在は、はっきりいって負担ではなかった。もちろん鬱陶しく思ったこともあるが、金銭的に負担があったわけではない。
 サエコはバイト代から家賃と光熱費の半分を出してくれていたし、それがかえって有難いことだったのだ。
 そしてサエコは、俺を束縛したことなんて一度もなかった。
 けれどもサエコには、無理やり俺の部屋に転がり込んで来た、という負い目があったのだろう。
 ミチコに責められて、サエコは部屋を飛び出した。

 俺が帰ってくると、ミチコが一人部屋の中にいた。
 俺は驚いて、言葉を失う。
 状況はすぐには理解出来なかったが、それが悪い方向にあるということだけは、確かだった。
「…ミチコ、お前なんで…」
「…ここの近くに、来たの。…前に教えてくれたでしょ?反町の森公園の、すぐ裏のアパートだって。…だから寄ってみようって…」
 ミチコは抑揚のない声で言った。
 俺は、深く後悔する。
 いや、その時はミチコと関係を持つなんて夢にも思っていなかったのだ。ましてや、彼女が訪れてこようとは。
 そして、彼女から聞かされた今までの経過に、俺はしだいに憤りを覚えた。俺はミチコに怒りをぶつけ、責めた。
 罵倒に近かったと思う。
 ミチコは泣いて、部屋を飛び出した。
 俺は一人、立ち尽くした。

 全く、俺はなんて身勝手な男なのだろう。
 ミチコとの行為でサエコを傷つけ、そして何の罪もないミチコを罵倒するとは。
 サエコは、帰らなかった。
 その時の喪失感は、前のときの比ではない。
 俺は今まで、サエコとの生活の中で、漠然と考えていたことがあった。
 サエコとの、結婚…
 今となっては、もう遅いのだけど…



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