後編
「ユウ君!ぼうっとしてないで急いでよ」
「え、ああ。悪い」
あれから六年が過ぎ、俺は27歳になった。
職場の同僚のアヤと同棲を始め、もう二年半は経つ。アヤとは、結婚を前提にした付き合いをしている。
卒業と共にとある中小企業に就職した俺は、その会社の本社がある街へと引越し、あの海のある町からは遠くなってしまった。
俺はアヤに促され、重い腰をあげる。
今日は、アヤの両親と会う日だった。
俺は座っていたソファから立ちあがると、スーツのジャケットを羽織り、戸締りをしようと窓の前に立った。
今日は雲一つなく、太陽の光が真っ直ぐ落ちてきている。もう、大分暑くなってきた。
そして今年もまた、夏がやってくる。
サエコが飛び出してから、俺はどれだけ辺りを駆けずり回り、彼女を捜したことだろう。少しでも時間が出来れば、俺は車を走らせ、時には自転車で街やその近郊を隈なく捜した。
けれどサエコの姿は見つからなかった。
サエコは、自分の家に戻ったのだろうか。
俺はタウンページに載っていた、彼女と同じ苗字の電話番号を片っ端からかけてみたが、サエコと話すことは出来なかった。
サエコは本当に、跡形もなく姿を消した。
残ったのは少しばかりの衣類と、クシや化粧道具、そして二人で海へ行ったときの写真。
それだけだった。
俺は彼女のことをあきらめるためにも、それらを全てダンボールへ詰め込んで、クローゼットの奥へ押し込んだ。
捨てることは出来なかった。
あの、サエコとの思い出が詰まった部屋から引っ越す時も、俺はそれを大事に運び、現在も部屋のクローゼットの奥に収めてある。
自分でも女々しいことをしているな、とは思ったが、実際男なんてものは未練がましい性質なのだ。
「…ほら、ネクタイ、曲がってるよ」
アヤはそう言って、俺の締めたネクタイを笑いながら直してくれた。
サエコのことは忘れられなくても、アヤが俺にとってかけがえのない存在であることは確かだ。
サエコとの別れ以来、俺は恋愛に対して酷く億劫になっていた。
そんな俺が人を愛せるようになったのは、ただひとえに、アヤの持つ魅力のおかげに他ならない。
アヤは少し童顔であるためか、周りからはおっとりとした、大人しい女性だと思われがちだ。職場でも、そんなに目立った存在ではない。けれど、実は芯の一本通った性格の持ち主で、そして物事に対する目の付け所も他人とは変わっていた。
俺が仕事に関して行き詰まったり、周りの人間と上手くいかなかったりしたときに、そこから助け出してくれたのはアヤだったのだ。
そして俺はいつしか彼女に好意を抱くようになり、何回か食事に誘った後、正式に交際を申し込んだ。
彼女は最初、驚いたように目を丸くしてたが、突然大粒の涙を流した。そして一言、「うれしい」と言った。
前から俺のことが好きだったのだと、アヤは告白した。
付き合い始めてから半年で俺達は同棲することを決め、結婚の約束をした。
凍えるような冬の日のことだった。
「何だか、かなり緊張してきたよ」
部屋を出て歩き出してから、俺は苦笑しながら言った。
アヤもくすっと笑う。
「へ〜珍しい。重要なプレゼンの時だって緊張しないユウ君が」
「プレゼンなんか目じゃないよ、本当に」
困惑したような笑みを浮かべ、俺はアヤに軽く腕を差し出す。アヤの手が、スルリと絡み付いてきた。
俺の腕を抱きしめるようにして、アヤは嬉しそうに微笑んでいた。俺はアヤのこんな笑顔が好きだった。
幸せを感じていることを、素直に表してくれる、アヤの笑顔。
思い出すサエコの笑顔はいつも、憂いを含んでいるようだった。あの楽しかった夏の日の笑顔も、今思い出すとはかなく感じる。
「でも、外で食事って言う形にしてくれて助かったよ。俺さあ、和室に案内されてさあ、用意された座布団の横に正座して不機嫌そうな父親に『お嬢さんを私に下さい』何ていうイメージがあったから」
「あはは、それもいいかも。古風な感じで。ある意味、憧れちゃうかな。…でもうちのお父さん、何かひ弱な感じだから」
「はは、ひ弱か…」
そういえばベッドの脇にある台の上には、アヤが両親と共に写っている写真が飾られている。それを見るに彼女の父親は、学者然とした、何だか弱気そうな人だった。
少し禿げ始めの頭に、がっくりと落ち込んだようななで肩で、茶色のセーターを着ていた。
「全然厳しくないから、大丈夫だよ」
「でも、大事な一人娘を奪われるとしたら、やっぱり複雑なんじゃないかな」
「…ユウ君も、父親になったらそう思う?」
「多分ね。アヤとの娘だったら相当可愛い子に育つに違いないからな」
その言葉に、アヤははにかんだように笑った。
「あ、あそこ。あのレストランよ。もう二人は来てるのかしら」
「…どうだろう?見えるかな」
夏の初めの日差しは、外界のあらゆる物にキラキラと反射し、思わず人の目を細めさせた。
目的の場所であるそのホテルのレストランは、一階の広いフロアを占めており、道路側は全てガラス張りになっている。
けれどいくら目を凝らしても、太陽の反射で中の様子はあまり伺うことは出来なかった。
「まだ約束の時間よりかは早いけど、レストランの中に入ってましょ」
アヤはそう言って、俺の腕を軽く引く。
さっきからアヤは上機嫌だった。
「…30分も早く着いたのか。…アヤが急がせるから」
「だって、遅れるよりかはいいじゃない?」
ホテルの前の回転ドアを、俺が率先して押す。
アヤはその回転の速さに遅れないように、俺の体にぴったりと張りついて、扉を抜けた。
そんな、時である。
俺はアヤをいとおしげに見つめながらも、その眼の端に移った人影に、思わず硬直した。
俺達よりワンテンポ遅れて、その回転ドアからすれ違いざまに出ていった、女性。
俺が慌てて振りかえれば、黒く長い髪が、フッと視界から消えていった。
「…ユウ君?どうしたの?知り合い?」
「…アヤ、悪い!」
俺は短くアヤに向かって言うと、急いでホテルを出た。
向こうの角を、黒髪の女性が曲がって行く。
…あれは、あの、顔は…
忘れもしない。あれはサエコだった。大人びて、大分印象が変わっていたが、あれは絶対にサエコだ。
俺はそして、全速力で走り出した。
こんなスーツに革靴という姿で、しかも全速力で走るなんて一体何年ぶりなのだろう。
サエコが出ていった日、ミチコが部屋を飛び出していって、俺はしばし経ってから我に返った。すぐに部屋を飛び出ると、サエコを捜して近所を駆けた。
そして今も、俺はサエコを追っていた。
「…サエコ!」
俺は、角を曲がってすぐにそう叫んだ。
けれど、そこにはもう誰もいない。
…あれは、見間違いだったのか。いや、見間違える訳がない。
「ユウ君」
「アヤ…」
呼ばれて振りかえれば、アヤが心配そうにこちらを見ていた。
「…ユウ君、一体どうしたの?…サエコって、誰なの?」
「いや…」
俺は、自嘲気味に笑った。
何て馬鹿なことをしているんだ、俺は。
あれがサエコだったとして、追いかけていってどうするつもりだったのだろう。
呼びとめて、それから…?
どうするつもりもない。…俺にはアヤがいるじゃないか。
「いや、何でもない。悪かったなアヤ。…レストランへ入ろう」
「…ユウ君」
俺はアヤの背に手を回すと、軽く押し当てて歩き出すよう促した。
アヤは困惑したような顔で、俺を見上げている。
「ユウ君、もし何かあるんだったら、今日の食事は…」
「アヤ、違うんだ。…俺は、アヤの事を愛してる。今日は、ご両親に大事な報告をしなければならないだろ?」
「…うん。そうだね、ユウ君。…信じてるからね?」
俺はその言葉に軽く頷くと、歩を止めて、アヤの手を引く。
アヤも立ち止まり、俺を見上げた。
そして俺は、軽くアヤに口付ける。
…あれは、きっと幻だったのだろう。
この夏の始まりの日差しが見せた、サエコの幻。
冬の凍えた白い息のように、それははかなく消えていく。
「ねえ、いつかあなたが私を見放す時が来て、私が路頭に迷うことになったとしても、私は責任を取れなんて言わない。それだけ貴方が好きだから、お願い、私をそばにいさせて?」
けれどもサエコはもう、俺のそばにはいない…
完