前編



 今年は、9月も終わりに近づいたというのに、この暑さが和らぐ気配は全くないようだった。
 新井春香はその日、冷房の効きの弱い学校の図書館で、全く進まない参考書を枕に仮眠を取っていた。
 暑さで汗がにじむ。
 受験を控えた高校三年生という身分は、ひたすらストレスがかかる。
 中途半端に成績の良い春香は、それなりの有名大学を目指していたが、はっきり言って今のままでは合格は望めないだろう。
 勉強しなくちゃ、駄目だ。
 それは分かっているけど、はっきり言ってやる気が湧かない。
 参考書を開いてはみるけれど、問題は解けないまま、時間だけが過ぎていく。
 いっそのこと、全部放棄してやろうかとも、思うのだけど…。


 暑さのせいで、眠ることも出来ない。
 春香は上体を起こすと、暈けて焦点の合わない瞳をこすりながら、ため息をついた。
 最近視力も落ちているような気がする。
「…あれ、星野?」
 焦点がようやく合ってきた視界の隅に、同じクラスの星野将行の姿が映った。
 彼は、専門に行くことを決め、大して勉強をすることもなく、日々を過ごしているようだった。
 はっきり言って、羨ましい。
 そんな星野が、図書館で何をしているのだろう。
 春香と星野は、すれ違えば挨拶を交わす程度、用事のあるときにしか話さないといった仲である。
 ただし。
 春香にとって、目下気になるクラスメイトナンバー1が、将行なのである。
 外見はそこそこだけど、お調子者でクラスでも中心的存在と言っていいだろう。
 モテルのかどうかは知らないけれど、密かに片思いをしている女は少なくないと思う。
 とはいえ、なぜかそういう噂は聞かない。
 本人も、あまりクラスの女とは、親密に話さない傾向にあった。
 春香は、席を立つと星野の背後に回って、彼が見ている本を覗いた。
 どうやらそれは、大学の案内本のようだ。今更、なぜそんなものを開いているのだろう。
 春香は、席に戻って、参考書を開いた。
 数学の問題が並ぶ。それに嫌気が差して、結局は再びそれを閉じた。
 今日はもうやる気が起きなかったし、帰ることにする。
 春香が荷物をまとめて立ち上がったその時、同時に星野が立ち上がり、不意に視線があってしまった。
「お、新井」
「…ういっす」
 何とも色気のない挨拶をしてしまう。
「ベンキョ、終わり?」
 大学の案内本を元の棚に戻して、星野が尋ねてきた。
「…ああ、まあね」
 気になる相手に限って、ごく自然に対応してしまう自分が呪わしい。
 春香は心の中でため息をついた。
「星野は、何してたの?」
「あ〜、別に?」
「…ふうん?……じゃあ、また」
 本当はもっと話していたいくせに、春香はそうして、星野と別れた。
 元々告白する気はないし、変に期待してしまうようなことは、しない方がいい。
 その方が、きっと、いい。


「ただいま」
 春香が家に帰ると、そこには誰もいない。
 両親は共働きで二人とも帰りが遅い。姉が一人いるが、7歳も年上の彼女はすでに結婚して、ここから遠く離れた街で夫と子供と、三人で暮らしている。
 姉は短大を出て、一度中小企業に勤めたが、3年程で止めた。短大時代に合コンで知り合った人と結婚したからだ。いわゆる、出来ちゃった結婚というやつである。
 今は専業主婦で、子育てと家事と、パートとに追われているようだ。
 はっきり言って春香は、そういうふうにはなりたくなかった。
 春香の夢は、バリバリのキャリアウーマンである。結婚、出産願望はあまりない。働いて、男並みの給料を稼いで、老後も自分で面倒をみるつもりだ。
 だから、ちゃんと有名大学に入って、大手に就職したい。
 …そのつもりなのだが。
 はっきり言って、今は専業主婦の方が、気が楽な気がする。
 受験勉強というストレスを積もらせることもない。


「行ってきます」
 春香は制服を私服に着替えると、再び家から出た。
 肩からかけている水色のトートバックの中には、とりあえず、沢山の参考書と問題集が入っていた。
 家では勉強出来ない。
 テレビに漫画、ペットの猫。
 雑念となるものが、家には沢山ありすぎる。
 春香はそうして、市の図書館へと自転車で向かう。途中駅前を通って、家から約25分の距離だ。
 受験生の運動不足はこれで解消されるだろう。
 春香は多少汗ばんだ額に手を当てながら、ひんやりとした図書館の中へ入っていった。


 図書館にある学習室の席は、すでに多くの学生でうまっていた。さらに、冷房の効きが甘いように感じるのは気のせいだろうか。
 どんよりとした空気の中、半ばうんざりしつつ春香は座る席を選ぶ。
 学習室は横に3列、縦に5列机が並んでおり、一つの机には3人が座ることが出来る。しかしながら、多くの机が3人で使われていない。
 間を一つあけて、両端に一人ずつ。
 見知らぬ人とは並んで座りたくない。誰だってそう思っているだろう。
 だが春香が来たときには不幸にも、人と間を空けて座れる席が残っていなかった。
 春香は入り口で数分悩んだ後、ため息をついて踵を返した。
 学習室以外の机で勉強してしまえばいい。
 基本的には禁止されているけれど、しばらくすれば、学習室の席も空くかもしれない。
 そう思って学習室から出ると、一般の机のある場所へ移動した。
 出来れば人気の無い、奥の方の机が良い。
 そしてここの常連の春香は、古い、同じ大きさで同じ色の、何だか難しそうな本が並ぶ棚の奥に、机がいくつか並んでいるのを知っている。
 その机の一つが空いているのを確認したところ、もう一つの机を使っている人物が視界に入って、春香は思わず声を出してしまった。
「…小田君」
 男子生徒からはオダヤンと呼ばれている。
 オレンジ色の頭が動いて、こちらを見た。
 まだ学生服を着ているので、学校帰りにそのまま寄ったのだろう。
 赤いペンを持っている。その下には、赤い文字が書かれたテキストと、ノート。
「あ〜、新井さん、奇遇だね」
 小田裕也、という姓名だったはずだ。
 去年同じクラスだった。別に仲が良かったわけでもないし、話した回数も少なかったと思う。それでも彼のことが印象に残っているのは、星野と仲が良い男子生徒だったからだ。
「新井さんも勉強?」
「…うん。小田君も、偉いねー」
 そう言われると、小田は笑って上半身を椅子の背もたれに預けた。
「俺バカだから勉強しないとね〜、受かる大学も無いさ〜。新井さんは頭いいし、余裕っしょ?」
「…まさか。いっぱいいっぱいだよ。勉強進まないしね。……学習室混んでたからここに来たんだけど、小田君はこの机よく使うの」
「うんまあ、火曜日だけ。ほとんど予備校行ってるし」
 小田はそう言って開いていたテキストを見せた。
 それは駅前の予備校のテキストである。
 春香は今のところ予備校に行く予定はない。何とか自力で大学へ行こうとしているところだ。…とはいえ、不安が無い訳ではないが。
「予備校か。私も行くべきかな…」
 春香はそう呟きながら、小田の隣の、空いている席にバックを置いた。
 椅子を引いて、腰掛ける。
 小田はもうテキストに視線を戻していた。赤いペンで、何か重要な箇所に線を引いているようだ。
 春香はバックから参考書やノートを出しながらも、小田の方をちらちらと盗み見た。ピアスだらけの耳が見える。
 頭はオレンジだし。
 いつもふざけて遊んでいる印象があったけど、そんな小田が真面目に勉強しているのを見ると、こちらも内心焦りが出てくる。
「…そういえばさあ」
 突然小田がこちらを見たので、思わず視線が合ってしまった。
「…え?」
 こちらがチラ見していたのに気づかれたと思って、春香は少し焦りながら返事をする。
「新井、星野のこと好きなんでしょ?」
「……な、何イッてんの!?」
 思わず声が大きくなってしまった。
 不意打ちとはこのことである。
 自分が星野のことを気にかけているのを、他の誰かに言った事なんて一度もないし、しかもあまり話したことも無い小田に指摘されるとは夢にも思わなかった。
「やっぱりね〜。いやさあ、二年のときの修学旅行でさ、新井さんが一人だけポツ〜ってぼんやりしてたから気になってね、その視線の先に星野がいたんだよね。だから、何となく好きなのかな〜って思って」
 小田は楽しそうにそんなふうに話した。
 春香は赤面していく自分の顔を自覚しながら、何とか落ち着こうと大きく息をついた。
「そ、そんなこと何で覚えてんの〜?私でさえ覚えてなかったのに」
「俺、人間観察好きだから。ヒューマンウォッチングさ〜」
「そんな、人に見られてるとは思いもしなかったよ……」
 自分はクラスの中でも地味な存在だと思う。
 女友達はいるけど、男友達はいないし、話せる男子さえ少ない。
 見た目も普通の、男子にもてるような容姿ではないし。
 それでも見られているときは見られているものなのだな、と思いつつ、黙り込んでしまった。
「…ごめん、怒った?」
 黙っていたのを、怒ったものと勘違いしたらしい。
 春香はハッとして頭を振った。
「全然怒ってないっす」
「…あはは、そっすか、良かった」
 良く笑う人だなあ、と思う。春香も何となく和んで、笑顔になった。
「まさか小田君に知られちゃうとはな〜。小田君、星野と仲良いじゃん?」
「あ〜、クサレ縁って奴?幼馴染だからね〜。でもアイツのどこがいいの?」
「さあ?何だか、謎なところかな〜?興味持てるから」
 春香は率直に言った。
「…へえ?……ちなみに、俺には興味持たないわけ?」
「ん〜。今興味持ったかも。っていうか、こんなに男子と話したの、初めてかも知れない。小田君って良い人だね」
 そういえば、小田は少し複雑そうな表情をした。
「…ところで星野、今日学校の図書館で大学の案内本見てたんだけど。大学行くことにしたの?」
「あ〜、何かね、あいつ車の整備士になりたがってたんだけど、俺がキツクて給料安いこと教えたら、止めようかな〜つってた」
「…あはは、そうなの?」
「動機が不純だよね〜?あいつ、来年絶対浪人だ」
 小田はそう言って、手にもっていた赤ペンをくるくる回した。
「…ん〜、確かに、今からじゃ大変かもね……。って、私も勉強しなきゃ」
 そう言って、春香は机に向かった。
 小田も春香に倣ったようだ。
 しばらくお互い黙って勉強をしていた。
 しかし、やがて春香は集中が途切れて、席を立つことにした。
 学習室にもう一度行ってみようと思う。実際、小田が隣にいることを意識し出したら、勉強なんて出来なくなってしまったのだ。



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