後編



 図書館を出たら、辺りは真っ暗になっていた。
 夜、8時半。
 図書館は9時まで開いていたが、春香は少し早めに帰ることにした。
 少し肌寒い。夜になると、やはり気温が下がってくるらしい。
 春香は自転車を力いっぱい漕いで、家路を急いだ。
 家にはそろそろ、両親が帰って来ているかも知れない。けれど、春香が毎日図書館で勉強していることを知っているので、遅くなっても心配することはない。
 急いで駅前を通過しようとしたが、春香は何となく、スピードを緩めた。
 前方に、予備校が見える。
 桜花高校の生徒で、この予備校に通っている子は多い。
 予備校の前は自転車でいっぱいだった。
 パンフレットを貰ってみようか。冬期講習とか、短い期間だけ講習を受けてみるのもいいかも知れない。
 春香はそう決めて、自転車を予備校の前に置くと、明るい建物の中に入った。
 入ってすぐにカウンターがあって、職員が数名働いていた。
 カウンターの脇にはパンフレットがたくさん置いてある。
 春香はそれを一冊取って眺めた。
 冬期講習のカリキュラムをざっと通し見する。
 そうしていると春香の頭上から、パンフレットを取る腕が伸びてきた。
 春香は邪魔になったことを反省しつつ、「すみません」と言いながら身体を横の方に移動させる。
 そのまま踵を返し外に出ようとして、視界に入った人物に驚いて足を止めた。
「お、新井じゃん」
「……ほ、星野?」
 何とも奇遇な、としか言いようがなかった。
 春香は先程の小田との会話を思い出して、内心焦った。もちろん、星野が春香の気持ちを知っているとは思えなかったが、小田は星野の親友である。
 小田が無意識に話題にしていないとは限らない。
 修学旅行。
 複数の男子生徒とふざけ合う、星野の姿を追っていた。
 日の光を浴びて輝いていた、と思うのは錯覚だろうか。
 その時、羨ましい、と思った。
「…知り合い?」
 その声で春香は我に帰った。
 星野には連れがいた。
 顔を見てすぐに誰だか分かる。何せ、彼のことを知らない生徒は、桜花高校にはいないと言える程の有名人だからである。ついこの間も、彼女が出来たとか、それが一年生だったとかで話題になった。
「おう、同じクラスの新井。こっちは三月ね」
「知ってる」
 春香は少し笑って頷いた。
 それにしても、この二人の組み合わせは目立つと思う。
 何にしろ、自分とは違う世界の二人だけれども。
 話せることもなかったし、春香はもう帰ろうと思った。星野だけならともかく、三月が一緒では余計に緊張して話せそうも無い。
 そうして春香が、「じゃあ」と言いかけた時に、星野から話題が振られてしまった。
「新井、志望どこ?」
「…あ〜、今のところ、H大学。でも、多分無理」
「……はあ〜、凄いな。新井、頭いんだ」
「だから、無理だって。……星野は?塾、入んの?」
「いやあ、考え中。とりあえず、パンフだけ貰っとこうかな〜と。三月に案内させつつ」
 星野はそう言って笑った。三月は苦笑している。
 春香はといえば、早くここから立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。
 平然を装ってはいるけれど、本当は無理している。
「…そう、なんだ」
 返事がぎこちなくなってしまった。
 会話が続かないことが怖い。春香は何気なく足を出口の方に向けて、「じゃあ」と言いかけた。
「新井さあ〜」
 もう、何なんだろう。春香は内心大きくため息をついた。
「何?」
 少し口調が荒くなってしまった。内心後悔したけれでも、結果的には良かったのかもしれない。
 星野は次の言葉を続けるのをためらって、頭に手をやったりした。
「…いや、やっぱいいや」
「……そう?…じゃあ、あたしは、これで」
 きっと顔も強張っていたと思う。
 好きな人ともまともにしゃべれないなんて、何て空しいんだろう。
 でも、駄目だった。
 どういうふうに話していいのか分からないのだ。
 春香は強張った表情のまま、予備校を出た。



 外はやっぱり、肌寒かった。
 会社員や、学生、多くの人がまだ街に残っている。
 春香はたくさんの自転車の中から自分の自転車を探した。
 見つけたそれは、すでに両側ともに自転車で挟まれていて、出すのも一苦労しそうだった。
 春香はため息をつくと、更に大きく吸って、自転車の列に踏み込んだ。
 いつも思うのだけど、自転車は密に並ぶと、本当に取り出しにくい構造をしていると思う。
 ハンドルにサドル、ペダル、車輪。
 それぞれがそれぞれに引っかかりあって、なかなか取り出せない。
 力いっぱいやると、将棋倒しになってしまう。
 春香は少しイライラしつつ、自分の自転車をぐいっと引き寄せた。
 そして案の定、ペダルが隣の自転車の車輪に引っかかって、バランスが崩れる。片方の手で自分の自転車、もう片方の手で隣の自転車を支えた。
「あ〜〜、もうっ」
 春香はうんざりして、そのイライラを声に出した。
 とりあえず、足で自分の自転車を支えつつ、ゆっくり手を離した。そうして、隣の自転車の車輪とペダルを外す作業にかかる。
 腰を折り曲げた無理な体勢になって、自転車がぐらぐらとゆれた。
「っと、外れ……た」
 がしゃん、と隣の自転車が倒れた。
 続いてその隣も。幸いにして、その次で将棋倒しは止まる。
 四つ這いに近い体勢のまま、春香はやはり、大きくため息をついた。
「…新井、大丈夫か?」
「え…!?」
 そんな春香の後ろには、呆れ笑いの星野が立っていた。



「……三月君は?」
 それぞれ自転車を引きながら、二人は何となく駅の方向に向かって歩いていた。
「あいつは、塾」
「…あ、そっか」
 星野は春香と同じく、パンフレットを取りに来ただけなのだ。
「そういえばさ、さっき言いかけたの何だったの?ちょっと気になったんだけど」
 さっきのこと、やはり後悔していた。
 あの時はただ、あの場から離れたくて、いい加減な態度を取ってしまったから。
「…いや、大したことじゃないけど。っていうか、受験のこと」
「…うん、何?」
「俺、今まで専門行くつもりだっただけど。でも最近やっぱ大学行こうかな〜とか思ったんだけどさ〜、そういうこと今まで調べてなかったし、分からんくて」
 だろうねえ、と心の中で思った。
 小田君いわく、動機が不純だし。
「専門って、何系?」
 知ってたけど、聞いた。
「自動車の整備士。俺、車好きだからさ〜。っていうかね、多分ディーラーの雰囲気が好きなんだわ。日曜とかさ、ちょいっとしたイベントじゃん?」
「…そうなの?」
 うん、と星野は笑って頷く。
 ディーラーの雰囲気が好き、という理由も珍しいな、と思った。
「で、真っ先に整備士が思いついたもんで。…でも、考えてみりゃああいうイベント系取り仕切るのは販売とか営業の役だよなあ、とか、思ったり何なり」
「あはは、そうかもね。整備士は裏方って気がする」
「っしょ?俺はどっちかっていうと、表舞台が似合ってるからな」
「…自分で言ってるし。…あ〜でも、そういうのって、三月君とか小田君とかの方が相談しやすいんじゃない?」
「あいつらは真面目に答えてくれないもんねー」
「…もんねー、って。カワイイし」
 春香は思わず吹き出してしまった。
「でも…そうすると、何学部が相応しいのかな…?」
 会社に入って経営に携わるなら、経営学部だろうか。
 でも自動車関係を学びたいなら理工学部(機械工学科?)とかなのかもしれない。
「あ、それは今日調べた。俺の希望的には工学系がいいかな、と、思ったわけで」
 何故だか『北の国から』ふうのしゃべり方で、星野が応えた。
 恐らく今日図書室で見かけたとき、大学案内を見ていたからその時調べたのだろう。
「そっか〜、そうだね。バリバリの理系だね〜。星野、数学とか物理とか得意なんだっけ?」
「…いや、あまり。…っていうか、これからっしょ」
 星野はそう言って笑った。
 これから勉強を始めて、合格する。目指す大学にもよるけど、それはとても難しいことのように思えた。だから、こんなことを聞いてみる。
「浪人覚悟?」
「いや、現役希望」
「……無理かもよ?」
 春香はやや呆れつつ、そんなことを言えば、星野も顔をしかめた。
「無理でもやるしかないでしょうが。…っていう、新井だってさっき全然無理とか言ってたけど、じゃあ、どうすんだよ」
 痛いところを突かれてしまった。
「……う〜〜ん、ランクを落とす…かも」
「新井はそれで良い訳?努力より妥協をするんだ」
 努力より妥協。
 自分だってそんなことはしたくないけども。
 何かに追われて勉強して、それでもどうしても問題が解けなくて、模試でもC判定しか出なくて。
 そういうときは、どうすれば良い?
「…だって、努力しても、どうにもならない時ってあるっしょ?」
「…さあ。努力してから考えるかな」
「努力してるし」
 春香はそう言いながらも、その後の言葉が出なくなってしまった。
 努力って、どうすることが努力になるのだろう。
 勉強しようという意思はある。けれども、やる気が湧かない。机に向かっても、問題集をめくるばかり。
 とっくに計画倒れした計画表は、今でも机の前に張ってある。
「星野だって、まだ始めてもいないんだから、偉そうなこと言えないじゃん」
 結局、そう言うしかなかった。
 星野は、まあな、と言った。
 何時の間にか、駅の前までたどり着いていた。


「っていうかごめん、私何の相談にものってないけど。…結局、何だっけ?」
「…いや、もういいや。何となく、大変なんだな〜っていうのは分かったし。…新井、頑張れよ」
 星野は笑いながらそれだけ言って、じゃあ、と背中を向けた。
 駅からは二人は別々の方向に帰ることになる。
 春香は、何だかもどかしいものを感じて、星野を引きとめた。
「星野!……あのさ」
「…はい?」
「やっぱ、妥協はしない方がいいよねえ?」
「そりゃそうさ。……あ、でも俺はけっこう妥協しっぱなしだけどな〜!」
 星野は自転車を漕ぎ出しながら、最後にそう、大きな声で言った。
 春香は思わず、笑いがこぼれてしまった。星野だって、自分だって、まだどうなるか分からないのだ。
 可能性だけは沢山あるけれど。
 でもその可能性に振り回されている気がする。可能性がありすぎて、選びきれない自分がいる。それは誰だって同じ訳だし、結局は時間が解決してくれるのだろう。
 春香は星野と話せたことで、少しだけ、心がすっきりした。


「あれ、新井さん?まだ帰ってなかったの?」
「……小田君こそ」
 星野の姿が見えなくなるまで見送ってから、自転車を引きながら踵を返したところに、小田の姿が見えた。小田も数人の女の子と別れたばかりのようだった。
「っていうか、小田君ってもてるんだね〜」
「…まさかあ。全部女友達ですよ」
 小田はそう言って笑う。
 それでも凄いな、と思った。春香は男友達なんていないから。
「さっき、星野と一緒にいたでしょ」
「げ、見てた?…っていっても、別に何にも無かったよ。たまたま、偶然会って」
 春香はそう言って苦笑した。
 実際、複雑な気持ちであった。
 星野のことを好きといっても、気持ちを伝えたいとか、星野と付き合いたいとかそういうのは無いから。あんなふうに話すことがあると、複雑な気分になる。
「新井さんは、告らないの?」
「…告りません」
 ずばっと尋ねられて、春香は苦笑しながら答える。
「小田君って、図書館でもそうだったけど、気持ちいいくらいはっきり言う人だね」
「あはは、ごめん。…だって気になるじゃ〜ん。あーでも、そうか…言わないんだ」
 小田はそう言うと、少しだけ気まずそうに首の後ろを掻いた。
「小田君はすぐに言っちゃいそうだね?好きな人が出来たら」
「いやあ、そうでもないのよ?ず〜〜っと好きだった子がいたけど、何年も言わなかったもの。…最近言っちゃったけど。そして振られたけども」
 小田は笑う。さっぱりと。
「未練はないの?」
「ないって言ったら嘘だけど。…新井さんこそ、言わなきゃ未練残るかもよ〜」
 そう言いながら、小田は両手を垂れ下げて幽霊のようなジェスチャーをする。
 春香は笑った。
「…かもね。…難しいよねえ。受験も、恋愛も、選択しなきゃならないことが沢山ありすぎて、ストレス受けまくり」
「そりゃ、俺ら若いもの。それが特権だもの」
 可能性や選択肢が沢山あって、過去のことより未来のことばかり考えている。
 そんな時期に自分たちは立っている。
 出来れば未練とか後悔とか、そういうものは残したくはないけれど、上手くはいかないものだ。
「妥協はしない方がいいよね?」
 春香は先程星野に尋ねたことを、改めて小田に訊いた。
 小田は一応頷いた。
「ま、出来ればね。…でも案外、妥協してもいいかな、くらいの余裕があった方がいいのかも」
 そう言われて、気が抜けた。
「…そっか。そうかもね〜。余裕無さ過ぎだよね〜、私たち」
 今日、星野や小田と話せて、良かったと思う。
「だねえ。頑張ろうねえ」
 小田はにっこりと笑いながら春香を励ますと、じゃあと言って、春香とは別の方向へ足を踏み出した。
 春香も、歩き出しながら、手を振る。
 それぞれが、それぞれの方向へ。
 多くの可能性に向かって。
 今日の日のことを忘れてしまっても、今日の日が無駄になることはないだろう。





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<ちょこっとあとがき>
 何だか小田が出張りすぎになってしまいました。…作者の愛ゆえに(笑)?
 この話、結局何が書きたかったのかな……。
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