安全について
辛島司朗      
            
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 安全は、元来、生き物が当然自然に備えている本能よって求められ、確保されてきたもので、生きていく知恵の最も基本に属するものであります。動物が獲物を追う場合でも、その危険をまず測り、むやみに危険を冒すことはしません。ライオンは怪我を恐れ、ハイエナにムザムザ倒した獲物を譲ることがあるといわれています。後の配慮があり身の程を知るものだといえます。
 動物の親は子に獲物の取り方を教えますが、警戒し身を守ることも必ず教えます。自然災害などに際して、動物がいち早く察して逃げてしまうことも、よく知られているところです。意識がないとされる植物も、香りで虫を誘うばかりでなく、逆に害虫を寄付けないために匂い、その他の分泌物を出してもいます。
 人も、昔から柔道などを教える時、まず受け身から入るのが原則でした。どんな武術でも、捨て身の術は別として必ず「残心」を説き、バランスを基本とします。しかし発展、展開を忘れれば残心は単なる未練になってしまいます。そこで逆説的に“攻撃は最大の防御である”ともいわれますが、攻撃一本槍は無謀です。攻撃と防御の調和こそ安全です。槍は「しごく」べきものです。遣りは繰りを伴い、やりくりを繰り返しながら敵に迫ってゆくのが安全な槍の用い方です。
 安全は、生きる上で最も大切なものであり、古くから人間の営みのほとんどは、根本において実は安全にほかならなかったと言うことができます。ただ安全の語が用いられなかっただけです。それが今日では、はっきり「安全」の言葉を用いて問題にするようになってきたのですが、一般にはその安全の意味が正しく理解されていません。そこで、さまざまな混乱が生じ、安全の問題がわからなくなってしまい、いろいろな見当違いが引き起こされます。
 ややもすれば“安全のためには何も積極的にはしない方がいい、なまじなことをするからかえってよくない、利便の拡大、不便、災害の除去よりも自然のままがよいのだ”と考えたりします。そして「自然」を「保護」しうると考え、そう主張し、環境保全や生態系保全も「自然」保護と同じことと考え、科学技術こそ自然破壊の元凶であって、全く否定されなければならないとさえ考えてしまいます。
 このような極端な考え方に対して、“安全、安全といって、人は貧しいまま、不便のまま、自然災害や病気や悪疫にさらされたままでよいのか”といった強弁がまかり通ることになり、その反動として、ますます目先の利便の追及に逸って、全体を見ないことにもなります。
 幸福や利便の追求も、保身や保全も、どちらも安全の一面なのです。何もしないようにしていればいいというわけのものではありません。生まれた子は成長するにつれ、旧套を捨て、外的環境を択び変え、それに応じてまた発達します。変身してはまた外的変化を加えていかなければならないのは理の当然です。変化することも自然であり、生まれ死ぬのも自然であって、奪い捕食し合うのも、相互に扶助し睦み合うのも自然、争うも愛するも自然であります。
 自然は出来上がったものとしてではなく、「おのづからなること」として、「みづからの内なるもの」として、自発性内発性において正しくとらえられるべきです。
 文化的存在である人が「自然」を変更し、超出しようとするのもまた自然であります。そしてその中にあって、安全が求められ図られているのは自然であるばかりでなく、当然のことでもあるのです。いわゆる「自然」の尊重は、全知全能ではない有限な人間の、安全のための自戒にほかなりません。自然は「緑」のことではないのです。敢えて言えば、人間にとって必要なのは「自然」ではなく、然るべき環境であり生活の場であります。
 安全というのは何か必要なこと、目的のことをした上で弊害の無いこと、よい事を求めてなおかつ無事であること、生活を営んで、生を傷つけ精気を失うことのないことなのです。何を捨てても失ったことにならないのか、また捨てなければならないのか、何は捐ててもよいが、何を棄ててはならないのか、安全はそこの見当、検討が欠かせません。
 ところが、安全志向はひたすらな利益追求とただの安泰願望との両極に、しばしば分解分離してしまうのです。そしてその結果として、安全は安泰と一緒くたにされ、消極的な後ろ向きのものと誤解されてしまっているのです。                       

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 安全問題は、今日ではもはや昔ほど単純明快ではありません。しかし、これまでは、本能や個人的経験とそれに基づく生活の知恵レベルで、すなわち、「仕合わせ」と同様な個人的努力と注意とで、安全が図られましたし、図ってもまいりました。しかし安全は「しあわせ」とは違って、気の持ちようで或る程度までどうにもなるような主観的なものではありません。「生きる」ということと同じくらいに、客観的な生の事実そのものです。
 一般的安全問題の中心はつねに火の用心戸締まり用心でしたが、安全は日常的基本的心掛けでした。ただ、それが生活の根本であるため、大事件が頻発したり、大火に見舞われたりした時でなければ、特に意識することは少ないと言えます。例えば、大きな普請工事などの時に組織的努力を展開する以外には、安全がまさに安全の問題として今日のように特には社会問題となることが嘗つてなかったのです。地震、雷、火事、親父がかつてのいわば不可抗力的災害でした。前の二つは天災です。しかし、無くすこともできず予知もかなわぬながら、後の二つ同様、心掛け次第で被害を軽くし、少なくすることが出来ます。
 火事には、山火事のように自然災害もありますが、放火もあれば貰い火もあり、不注意による失火の場合もあります。浜の真砂とともに尽きることのない盗賊の害も、放火や貰い火と似た性質の害です。個人レベルの努力を超えた害毒に対しては、その防遏を社会的に保証する制度、機関として、警察や消防が昔から組織されています。
 しかし、“国家は必要悪だ”と言われもしますように、そのような組織制度などが、逆にまた私達を苦しめ悩ますものとなったりすることもあります。“親父”が震・雷・火と並べて挙げられているのは正にそのことであり、古い時代にあっては、統制・支配や権力に伴う社会制度的弊害を代表しているものと考えられます。その危険に対して親も要慎し、子も用心し警戒しなければなりません。しかし、だからといって、いっそなくしてしまおうとしても、それは出来ません。軽率に親を否定してしまっては、それは船頭のない、舵のない舟のようになってしまい、それこそ元も子も無くなってしまいます。
 生活している以上は、火を使うことをやめることができないように、人のすることに、地震・雷と同じく、どうしてもなくすことが出来ないものがあります。たとえ、燐寸を追放し火炎の利用を止めても、漏電やガス爆発などの火事までなくすことはできないでしょう。また、門前の虎、後門の狼ということもあります。目先の利益だけを見て古いものを新しいものと取りかえようとするのは安易にすぎ、大過につながるかもしれません。その危険についてよく承知しているもののほうが、いないよりましともいえます。
 だからこそ、制度・方法上の改善や、遇害防止のための設備・施設の改良を含めて、厄介ではあっても、いろいろな安全問題に正しく真剣に取り組んでいかなければならないことになるのです。

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 今日では、科学技術の発展とともに、通常の個人の目には見えず、個人的には対処しきれない危険が世に溢れるようになりました。交通安全、労働安全、公衆衛生、環境衛生、食品安全・・・、原子力利用の安全、生物改変のための遺伝子操作技術の安全・・・など、新技術、新システムに伴う諸々の弊害がそれです。
 文化文明の発展、特に科学技術の進展に伴う新しい危険については、単なる個人的知識あるいは既成の常識ではどうにもなりません。事前の認知や具体的認識は科学技術の目によるほかなく、その対策には社会的な手が必要であります。長期計画的な、総合的基本的態度決定には、それなりの組織的体系的な知恵も欠かせません。
 科学技術のもたらす新しい害は科学技術の手でというのが「安全科学」的な安全認識であり、対策でありますが、今日の科学技術は巨大です。また経済の仕組は複雑です。技術問題が科学技術問題で終わりはしません。運用を誤ると大事に至ります。
 純粋に「科学的」な問題にしても同様で、もはや分科の学としての科学の枠内に納まる問題ばかりではなくなっております。いってみれば、科学が「科」学でありえなくなってしまい、純粋科学と工学の区別もつきかねるようになってもいるのが現状でしょう。綜合的問題について「学際的協力」が叫ばれながら、かえって専門分化が激しくなり、綜合的に考えるどころか、真に学際的に「協力」してゆくこともなかなかできません。必要なのは科学の「科学」性を徹底的に反省してみることかも知れません。
 一般に、技術開発に関しては産官学の協力も容易に見えます。戦争目的のため、国際競争のための技術開発目的ならば、いわゆる「ビッグ・サイエンス」さえも容易に成立します。動機が強力であるばかりでなく、目的に応じてプロジェクトがはっきりしているからであり、協力のための評価基準が定かだからです。「必要性」、実現可能性、効率性、実用性、「経済性」などです。そして安全性が平和とともにようやく今日、開発の際のそれら重要基準の一端に加えられつつあります。
 しかし、安泰との混同から、安全志向は新しい努力に対して基本的に否定的であるという誤解がいきわたっています。そしてまた、その安全のためのアセスメントは本来の開発目的からはずれた、外からの要求によるものであり、余計な面倒、荷厄介な代物と考えられてもきました。一種の経済外強制であり、不当な犠牲や損失を強いるものというわけです。
 しかし、それにもかかわらす、法規制による不承不承のではなく、製造物責任や賠償責任を考えた上での、積極的な取組みが見られるようになってきました。問題は、それが道義的責任のためであるよりも、むしろ、経済性のためであるといわざるをえない点であります。
 積極的な姿勢も、時代の流れがそれを要求する以上は、安全のためのコストが当然に市場性を考えた場合の経済内的必要とならざるをえなくなってきたからであります。そしてまたそれは、抑圧的でありコストを強いるものであるばかりでなく、経済活動にとっても、科学研究にとっても新しい研究分野や開発分野を積極的に拓いていく、むしろ望ましいものであるからです。
 しかし経済性のための安全性であれば、やがてそれは間違いやごまかしに連なっていきかねません。安全の問題は、それそのものとして追求されるべきもの、すべてに優先すべきものであり、社会的人間的な倫理・道徳上の問題であって、いわゆる「経済性」に従属する問題ではないのです。

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 技術が、元来、人の幸福に役立つべきものとすれば、それ自体が技術による営為としての、現代的意味での経済もまた、安全の理念にもとづいて展開され運用されるべきものです。そしてまた逆に、本来家政であり、経世済民のことであり、またその技術的実践的展開である「経済」を離れた安全や、一人だけの安全のある筈がありません。前者の経済に対応するのは安全工学的安全、技術的安全ですが、後者の本来の経済に対応するのが十分な意味での真の安全です。
 経済は生きてゆくための基礎にかかわるものです。経済の仕組みや、技術的関心が、人の幸福や社会の福祉を忘れ真の安全を離れて、勝手に働いてしまうことこそが問題なのです。またしかし、そのことの批判から生まれた共産主義が思想としては人道主義に立脚した崇高なものであるとしても、人間性を見失った共産社会にみる理想主義的「全体主義」的統制や計画及びそのイデオロギーが現実性をもたないことは、既に歴史的に明らかなところであります。
 安全問題は時と事に応じて、その都度、問題毎に限定され個々別々に区切られます。しかし、安全そのものは人の一生を通ずる、また国家社会などの存続にかかわる、一続きの一つの問題事であります、「安-全」はあらゆる意味で全体の問題です。いわゆる全体主義は経済社会的全体とその関連構造をこそ捉ええても、個々の人間性の全体性を把え損なったものといえます。
 民主主義は衆愚制に堕しかねず、決してすぐれた政治理念とはいえないでしょうが、民主制は全体を見失わない現実的体制であるかと思われます。しかし、必要で誤りのない政治的決定、適切で過不足のない行政的規制や指導も容易ではないのが現状です。科学技術政策も十分に安全問題を捉え真の政治理念に立脚しないまま、目先に追われてただ安全科学的対策に終始し、いたずらに右往左往しているといわざるをえない状況なのであります。
 そして民主社会の世論は、事に当たって“してはならない、しなくてはならない”の綱引きを繰り返し、ただ勝ち負けを賭けているのです。それというのも、根本的理念もなく、安全についての綜合的議論を展開して、安全について確固とした理解を得ることもないからであるといわざるをえません。

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 安全というのはどういう事なのか。一人一人の個人的幸福、公共の福祉や平和の維持、そしてまた倫理・道徳などの価値観と安全がどうかかわるのか。そして技術や便益と安全は本来どうかかわるのか。
 安全問題に関連して、技術的な環境整備と墨守的な環境保全、便益増進あるいは利益追求のための開発と保守的安定のためあるいは稀少性尊重からする保存、また根本的なものとしては自然と文化などさまざまな背反的な選択的対立問題があります。具体的場面での安全か危険かという対立、さらには概念としての「安全」と「危険」という二律背反的な対立は、ほかのものとは違って全ての安全問題の根底にある基礎的な対立の図式ですが、この対立こそ実は根本的な誤りなのです。
 そもそも安全と危険は反対のものでも、相容れないものでもありません。生きてゆくことがそもそも危険にみちているからこそ、災害にあったり、怪我をしたり、破滅したりしないように、また対応を過ってあらぬものになり、否定すべきもの、切り離されるべきものとなってしまわぬように、安全を考え対策を練るのです。
 問題なく不満のない時には、現状肯定や現状維持が望ましく、安泰を願うのも当然です。しかしそうでないから、「このまま」の安泰ではなく、「何かと」安全をはかるのです。「何かと」の心配は既に安泰を失わせているのですが、不安に対して気慰めや心の持ちようだけでは済まない時、手段を講じ方法を見出し、安心の事実的裏付けとしての安全をこそ追求してゆかなければならないのであります。
 いつの世の中でも様々に警戒、吟味、対策などの用心、要慎が事に応じて説かれてきました。そして五穀豊穣・商売繁盛と並んで家内安全が常に庶民の願いでしたし、天長地久四海波静であることが帝王たるものの祈りの中心でした。しかし庶民が天下泰平、千秋万歳の楽しみを享受できるのは、国家の安康、社会の安寧秩序あってのこと、つまり公共的安全保障の結果にほかなりません。はじめから安泰を願望して安泰が成就するものではありません。ですから、ついつい繁盛繁栄または成功、功名に心を奪われ忘れがちになる事に対して、安全第一といって戒めることにもなっていました。
 もし私達が安心して、ゆったりのんびりと安泰を享受できるとすれば、それは日夜安全のために腐心している親や指導者などの庇護下にあったり、然るべく運用されている然るべき組織や体制のもとに置かれているからであるといって差し支えないでしょう。
 私達がその中に身をおいている状況としての「危険」と積極的行為における「リスク」とは峻別されなければなりませんが、一人前の自由な人間として生きてゆくためには、危険に挑み、リスクを冒すことも必要です。だからこそ、リスクをまさにリスク即ち「冒険」として認め、安全を常に考えなければならないのです。
 安全を図ろうとするには、その前に、「安全とは何なのか」がしっかり理解できていなければなりません。私達はその上で「今どうしたら安全でありうるのか」をその都度具体的に正しく考えることができるのではないでしょうか。そしてまた、そのために安全学概論、安全学各論、安全方法論および安全施策論ともいうべきものがあらかじめ整備されていなければならず、そのための努力がまずもって必要なのではないでしょうか。

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今や人は優れた科学技術を育て、自然には出来ないこともできるようになりました。今の時代は少なくとも日本その他世界の大部分においては平和で満ち足りた生活を送っているということができます。そして身の丈を超えた力を手にし、繁栄のあまりに身の程を忘れ何でも出来るような錯覚にも陥りかねなくなりました。欲望に衝き動かされ脚下を顧みず、必然や当然の埒を越え貪欲にわたっていると言わざるをえない面も多々あります。いま安全について深刻な反省が迫られているのはそのためです。
 私たち一人一人の「しあわせ」の願いも幸福も、公共の福祉の努力も、この世界の繁栄も豊かな生活も、平和の事実があってこそで、単に心掛けや技術の進歩発展だけで可能なのではありません。しかし、ただ平和でありさえすればよいわけではありません。もし平和の実質内容が問われないでよいなら、恐らく決して戦いや争いは起こらないでしょう。平和は何よりもまず安全の根本的可能性なのであり、安全は様々な可能性の基本条件となるのであります。しかしよく考えてみれば、平和の願いさえも、実は安全の願いに外ならないことが明らかとなるのです。
 「和をもって貴しとなす」と言いますが、付和し屈従することを強いる力づくの平和では力によってくつがえされます。無理は無理をよび和を保ち「全」を全うできません。平和は調和の上にあるべきであり、調和を欠いた平和は問題です。そしてその調和の上に安全があるのですが、逆に安全志向の上にのみ調和は可能なのです。
 さまざまに反発し、分散して不協和音を発し、不和を招いて分解し、破綻し破滅しかねない相反的事物に一致をもたらし、一体性を保持する綜合的調和こそ、安全であります。
 「安-全」は変化、化易のうちに全を全うすることでありますが、それこそ「命を全うする」ことであります。しかし、「全を全うする」ことは、決して「全てを全うする」ことではありません。安全こそは「いのち」の生きてあり、生き延びてゆくありようでもあります。
 すべてのものごとを、生きるということ、生活してゆくということの根本にかかわる安全という見地から考え直し問い直してゆくことが、今日私達にとってもっとも大切なことなのではないでしょうか。

この文の著作権は、書き手の辛島司朗氏にあります。
無断転載はお断りします。<安全学研究所HP編集部>
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<1988年脱稿>
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