辛島司朗
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 今いわゆる靖国神社参拝問題即ち日本国首相のいわゆるA級戦犯を祀る靖国神社への公式参拝問題は東アジア諸国にとって、そしてまた日本自身にとって大きな問題となっている。日本の国論は大きくは参拝論者と自粛論者にほぼ二分されていると言ってよいようだが、実は必ずしもそうは言えない。

 この二分は信仰問題としてでなく政治問題として言えば、外交問題として対外的に考えるか、内政問題として内国的に考えるかの対立的問題として考えられているのでもあるようだが、そうであれば、その二分法は賛否の賛の立場からの色分けによるものであって、始めから参拝否定論は排除されているのか、そもそも存在しないのか、そこには見ることができないのか。尤もわかりやすくするため、即ち分けて別けやすくし、別れやすくして分りやすくし、論争相手を説得しようとするためには、それ以外の土俵を排して用意した土俵に乗せてしまっての説得相手にしてしまっておくことが大切であるといってよく、更には真実を論理的に徹底させるよりも、乗せて思わせ信じさせ、奪ってしまうのがよい。

 万事考えやすくするためには、信仰と政治の両問題を別々に切り離して考えられるものとして、別々の参拝否定論も、しかも一様でなくあってよい筈である。否定論はありえないかのような錯覚を起こさせるようなことがあってはならない。私は敢えてどちらか分けて考えれば、否定論、まったくの否定論の立場になるであろうが、見方を換えれば容易には説得しにくく、逆に私の方こそ相手を説得してしまおうという立場でこそなくまた態度ではないように心掛けているにしても、それにしてもそのような姿勢になってしまい勝ちであるようである。しかし、これこそ正しく論争姿勢と言うべきであろう。そして互いにそのような態度になって、ただし勝敗を離れた正しい論争の姿勢を失わない限り、真の対話が展開すると言えるのである。勿論できるだけ冷静で穏やかに弁証されることが望ましいことは言うまでもない。

 信仰問題としてみれば、当然私などは、特に単一的宗教の国家でない限り、行為についてみるだけでも公人の公的特定宗教行為と政治的行為や行動が重なり合っては、誰もがそうでなければならないであろうが、個人の信仰か国家的信仰かの二分、従ってまた公人の宗教行為の公私の別があることを根底にして議論すべきであると考える。政治問題と考える立場の人達も、油断すればこの政治と信仰の二分的論議は、知らぬ間に何時しか信仰問題土俵の中に載せられて、信仰自由の前提の上の政治問題とされて、国教制の国家でない限り宗教は個人のもので公私別がなくてはならぬという常識さえ失われてしまう。ましてや現にみられるように国際協調的外交重視の立場と内政干渉排撃の国粋的国益中心の立場との二つにはっきり分けて考えている状況では、論争とは言えぬまでも少なくとも甲論乙駁の主張の相克の止揚をはかる工夫こそ必要であるが、この対立は、旧い主張の独尊的独立重視の政治思想と、今後将来の世界を見透した平等友好的国際協調ないし連盟的理念の相克と言ってよい。

 古い言葉で言えば、いままた合従か連衡かの、あるいは外交を力は正義なりの武力闘争の前哨戦と考えるか、国際問題を安全な平衡的正義問題として武闘廃止の根本的平等姿勢を決して失ってはならないものとするかのいずれかであると言わなければならない。安全な平衡といったが、旧く顔氏家訓などで語られているような「兵は詭道なり、兵は安全の道にあらず」という安全の道を世界の共存共栄のあるべき真の道とするのでなければならない。この道は言ってみれば、政治面を主とし、本質的には、少なくとも近代においては個人の自由に属すべきものと考えられる信仰の問題、どちらかと言えば、仏教的と言うならば、信心の問題と言うべく、信心と言えば、文字通り神に従うものでなく心にもとづき、心の働きに応じて、裏や裡に凝りこごり上り出来上がっては情として流れ出もする心の問題で、この心情の問題をまづ純粋に心の問題として取り上げることもなく、政治の問題の中に解消してしまう政治主導的立場はいかがなものであろうか。

 凡そ敗戦前の日本の滑稽なスローガンのように「億兆心を一にする」とか「一億一心」などと言っても、それは強制か催眠による以外にはむしろ考えられないものなのではないだろうか。いま、超越的神に従うものとして信仰を言い、各個に内在しながら共通の根拠である心に従うものとして信心と言うわけだが、仰ぐものは超越的神を仰ぐのであり、個々の一心を超えた客観的存在であって、一心作を否定するものであるのに対し、信心の立場の信ではそれぞれにそれぞれの心を信じながら、万教の帰一するように、寸心が感応し合って天心に結び上がって神として立てられ客観化もされることになるのではあるまいか。

 天にあって理を摂ってすべて支配するものが神そのものであるならば、一人ひとりの心の内の神は精神となり、細やかにしかし捨てるべきものは捨てながら粋は摂って働くものと考えることができるが、それが一丸一体となってそのうちのわれとかれとなりながらもわれとなんじの関係に止まる限り、照応し合いながら、万華法華の境地が開くものということができるのであり、たとえそれが超越神の立場に立てば小さなモナドの集まりの世界であろうとも心の働きをそれぞれの神としてみる立場からは華厳の荘厳の世界でもあるのであろう。

 これに対して、靖国神社の強引で頑ななというか、硬直したかのような姿勢には日本では今猶天孫として天に連なる現人神の八紘一宇の主としての統率の下の、まつりごとの二分科である神祇官、太政官の分理対立的構造の延長的姿であるかに見えてならない。しかし、いままたこの二つの阿吽の呼吸が合いかけているようにも見えなくはない。「歴史的」問題ではあるが、「歴史問題」と称される「お宮入り」していない極々近くの例によれば、これこそが善隣友好にそむく侵略的思想的よりどころとして機能したもの即ち神変不思議な独善的詐術を生み出して、自他国民を訛(イツワ)り瞞(ダマ)して、誑かし国を狂(タブ)らせたものである。