辛島司朗
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 このごろ「神社に参拝する」といわずに「神社を参拝する」と言う。神仏一体という言い方には耳なれてはいても、神と神社が一体とは全く考えられない。何故ならば神と神社は自然当然の結びつきではなく、人のするたまたまの結びつけにすぎないからである。カソリックでは神の居坐すところが教会であるということのようであるが、逆に教会ならばそこに神がいますとばかりは言えないのである。イスラムのモスクにみるように、教会は信徒の集り励ましあい磨き合うところとは思えるが、神そのもののいますのは偶像の内でもなければ偶像の安置されている家の中でもなく、神の寓する一々の心のうちであるとしか考えられない。神の家は神を求めて神の働きをわが心のうちにとりとめて、もののまとまりとしての「いえ」即ち「いへ」の「うち」ないし「こころぬち」にある以外にどこにありえようか。神の家は神社にあるともいえるが心裏にあるともいえるのである。もとは土着神に発しながら後に一般化した神の坐すところとしての社とは、領地領域領国の治の中心かつ象徴であったところに象徴としての宮居が定められて神宮ともなり神社ともなったものと思われる。わざわざ宮処、宮所に外ならないものの象徴である神社に出かけて参拝するのは離れてあるものが臣属のしるしとして伺候することに外ならない。例えば封建の昔、近くに居住を移した伯は、当然に本来の領地の直轄性を失っても国を乗っとられなどして併祀され併社化されてしまわぬ限りやはり、もとの領地をterritoryとしてでもなお従えるものでなくてはただの従属者になり切ってしまわねばならない。


 本質的に「status」に外ならないstateは言うに価し、言挙げするに足りる家柄であり国柄のもののことである。これを何の疑問もなく国家と訳すのはとんでもない謬りである。statusが階級的差別の上にこそありうる概念であるのに対し、国家は大規模化した家とも大家(オオヤ)もしくは大宅などの公(オオヤケ)のこととも考えてよさそうであるが、とにかく祭政一致的であってこそもともと族的な家の延長としての国家でありうる。勿論家は家政と祖廟の二面を備えるものであり国は四囲を有形無形の武力によって画された屋宇屋宅である。stateは職業についてにせよ領域領土についてにせよまた地位にせよ確定し確立した意味を含むもので、家としてみても、国でも同じで、有数のものはsymbolやemblemで表現され定式化されて名指された家として、またその領土領域が格上げされて国土国域となり、英語ではただのterritoryから格上げされてstateとして位置づけられていくことは容易に明らかであろう。


 単一的な同族的家社会から、複合的社会へと発展するとき、君主―族民的統治構造がたとえ支配民族と被支配民族の組み合わせ構造となっても、国家として表現され意識されるものはあくまでも全体としての「家」であるといってよい。


 政はまつりごとというように、信を教え正すものでなければならないが、まつりごととしての政治と宗教は二つではなく一つのものといえるが、問題は教えには邪教もありうるということである。西欧社会からの現代においても、ブラジル建国精神とこれを表す国旗の中にそれをみることができるが、東アジア精神風土において、宗教文教はその名に相応しく儒家の教えであり、国政律令は法家にこそ相応しい刑罰と命令権を行使するものである。邪宗邪教に当るのは悪法であり、頤令であろう。そして理念においての誤りは法的なレベルのものではなく、根本精神からの改変が必要とならざるをえないのである。そして西欧的世界ではcatholouであるか否かが正邪を分つものといってよいだろう。


 家庭的なものが「家」か、建物としてあるのが家かと聞かれれば、両者が直ちに同じと言うふうには到底考えられず、相互に影響しあい、従ってまた家をアット・ホームに設計し、管理維持することが大切であるだろうとは思われるが、それが忘れられたり無視されたりしてしまっては誰しも困惑するだろう。英語などではhomeとhouseの別はかなりはっきりしているが、最近の日本ではホームを売るかのように名乗って家屋を売る不動産会社名もあらわれたりして、両者の別はだいぶ怪しくなっているといえる。もっとも英語でも両者の別は必ずしも画然と常に弁別されているとも限らないが、しかしhomeは古くは土地や財産を伴うものであって、worldやvillage、farmなどまたgroup of dwellingと関連する語であるとも、native placeからplace of residenceのこととも理解される。そしてアングロサクソン語ではham(mは長音)からくるとされる英語homeに対して、hus(uは長音)からくるとされるhouseはもともと動詞to hideの意味からcovering、shelterを意味し、husbondaすなわちhouseholderとしてのhusband、またこれに対してはhusewifからくるhousewifeなどがでてくる語である。


 ところで神社と神を別とせず漠然と同じに思っているうちに、神社に詣でることと神を礼拝するということが同じことだと人々は思い込むが、しかし神社に詣でることは神に祈ることとは同じでないどころか、厳しく言えば全くと言いたくなるほど別である筈で、私には正(マサ)しくそう思われてならないにもかかわらず、祭政一致的体質の国においては「神-社一体」となってしまうのではあるまいか。しかし、「祈る」ことと「祀る」こととは別事と言いうる程隔たりのあることがある。真に祈ることは「隠れて祈れ」と言われもするように個人個人の心うちのことであるが、祀ることはむしろ顕示的行為であり、烏合的集合をも目的的社会またはゆるい自然的集合に変え、はっきりした団体形成を行うものであるというべきであり、祀りは拝み祭ることによって単なる飾られた表象的偶像であるものが活きて働く力が備わるものとなる。代表的地位にあるものの参拝はそれ自体一つの結合の象徴的意味をもつといってよい。「神を祀る」という場合にはどのような神を祀るか、どのような目的で祀るかが問われなければならないが、神を祀ることは、実際具体的にどのように拝まれ、祭られるかを抜きには考えられない。何事についてももろもろの疑問に応答し反対を防遏しようとすれば、対内的には勿論対外的にはより一層のことであるのは言うまでもないが、靖国神社問題ではその神社の性格について一箇独立、もしくは独特に近いものとして位置づけることになる。その独自存在性に過度にとらわれて、敵対的に取られるおそれを軽視ないし無視するようなことがあってはならない。そうであってはじめて、善隣友好の可能性を開くものである。
 
 附和雷同し常心のないものは習狎し事情の変化に応じて離合集散し定まりのないものとなり利によって集まるものは不利によって反転し、情によって集まるのみのものは、浮動変動し止むことない。愛憎に任せるのは利害に委ねるのと同じく表象的行為といってよいが、国の神を祀るということは一つの国家としてのまとまりの表象でありまたまとめの行為によるものである。従って、当然に過去において自国の神を他国に祀らせたことは他国を従属せしめるか、同化させるのいずれかを意味することは否定しえないであろう。


 問題はそのような過去を持った神社問題ないし靖国神社参拝問題はいまそれがどういう表徴的行為を意味することになるのかということであり、対外的意味を考えずに国内的意味のみを絶対的なものとして主張しつづけるとすればどのような神のことになるのかの問題を抜きにしても、それ自体に籠もる絶対志向とそこに込められる独善的傾向は専横性に連り、専横性はまた武断的となっては外交を戦争闘争にかえてしまわざるをえないのである。専制や専権はdemocracyに反するだけといっても強ちに排除されるべきものとして極めつけることは出来ないが、横暴に及んで改まることがないとなれば、天による「革命」が待ち望まれることになってしまう。絶対的唯一神に限らず、およそ神仏が普遍的で広大無辺な、何処ででも礼拝祈願可能なものであれば、神を祈ることは物的な神体や神社を離れて、霊力、神聖な遍通な変通自在力即ち随処に際立った働きを示す神通力こそ崇拝もしくは祈願の対象というべきである。祀るべき場所、聖所としての場所、祀るべき方法、祀るべき人、参じ拝する人についての考察はこの際どうでもよいようなことであり、祈り方として、参詣参前の際の方式さえどうでもよく、更には遥拝どころか、どこにあっても即席即座に心から即ち心の中で深い思いをこめて祈ること願うこともありえなくはないと私は思いかつ考えている。