辛島 司朗

靖国祭祀と七生報国的思想

─ 社稷すなわち下なる社と上成り実りとしての稷 「靖国」神社と首相の公式参拝の問題をめぐって戦争被害と惨禍と 平和のありがたさについて安全学の立場から



※ 増補版を新たに、 「靖国神社問題の本質
                    ──多角的かつ広汎な安全学的見地から──」というタイトルでUPしました。

  
                                                                


はじめに

  クリスチャンではないが、特定の神や社を信じたり進んで礼拝したりはしない。かといってはっきりした無神論者でなく、かなり神を畏れ恐れる方である。私は神社仏閣を訪ねても参拝者に失礼にならぬようにはつとめるが、そう積極的には礼拝をしない。

  少しキザな言い方をすれば、ソクラテス的にうちなる神に畏れ神意を怖れこころを鎮め高め乱心の働きを慎もうというわけである。孔子のいうところが「子、怪、力、乱、神を語らず」なのか、「怪力、乱神を語らず」なのかの考証は今私のよくするところではないが、とにかく、精神の働きを高め強めて乱神の働きを抑え慎もうとしているわけである。和御魂(ニギミタマ)に従い荒御魂(アラミタマ)の荒ぶりを極力抑えたいと殆どつねに思い願っているといってもよいであろうか。

  むかしから「を」と「に」の違いが気にかかっていろいろと考えてきたが、「靖国神社を参拝」するかしないかをめぐる論争を見聞する際に、何時も気になってたまらないものに「をにが」問題があって、神のあるなし、神業の何なのかなどのそもそもの神のことさえそれが覆い隠してしまう有様だ。昔から書評などを書いて下さった方から言葉の問題、特にいわゆる文法問題といわれてしまうものを書き込んでは駄目なんだと書評文とは別にして直接に忠告されたこともあったが、積年の弊というべきか、宿痾というべきか、とにかく常に私としては厳密かつ妥当に概念規定をせざるをえず、どうしても文法的問題をも扱わざるをえないのである。避けようとすれば、考えが進まないのが今なお、断ちがたい悩みの中の悩みとなっている。

  もともと思索的な概念把握は言葉によらなければならず、名詞などに収まってゆく概念語も、構文論や「てにをは」論や「をにが」論もしくは「がのを」論に深くかかわらざるをえず、精密な概念把握のためにもそれらの凱切な研究と検討が欠かせない。まことにやむをえぬものがある。そして、翻訳読みや翻訳的読解を考えれば、外国語文法とは別に日本語そのものの文法も、そして文法のそれとともにそれぞれの言語習慣もしくは文化特異性などにまで理解を及ぼすべき比較研究がなくてはならないことになる。これは今さら更めて言うまでもない。当然であるといえばあまりにも当然であって、当然過ぎるとさえ言いたくなるぐらいのことだ。しかし多くの人に忠告され続けているところであるように、理解を難しくし、事実同憂の士さえ遠ざけてしまいかねないのである。そして思うことは、探求すべき当の概念やさまざまの文章の主題についての努力より、むしろそこに一層の理解のための説明方式や文体にかかわる努力を要するということであり、そのことの正面切った努力を忘れて凡そ言説について冗語的口調語を使ったり、なるべくはどんな言葉も反省を欠いたまま決まり文句として見逃したり看過したりしてはならない、ということである。

  私の場合自然にそうなるのは別として、文体論的努力として変ったスタイルを工夫して書こうと敢えてすることは今まで皆無に近かった。今回は進んでそのようにすることにしようと思ってはいるものの、やはりいわゆる理窟っぽさ、取っつきにくさ、こむづかしさ、更には長ったらしさなどについての非難を受けずには済まない。しかし、惧れは惧れとして、少しは私なりの工夫を加えたやり方でこの靖国神社参拝問題を扱ってみようと思う。とにかく心してやってみようと思う。果たしてどうなるのか自信はないが、成功を願うよりもそんな場合の忌憚のないご教示とご寛容をお願いしたい心境である。


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