靖国問題の本質    ──
はじめに

 クリスチャンではないが、特定の神や社を信じたり進んで礼拝したりはしない。かといってはっきりした無神論者でなく、かなり神を畏れ恐れる方である。私は神社仏閣を訪ねても参拝者に失礼にならぬようにはつとめるが、そう積極的には礼拝をしない。

 少しキザな言い方をすれば、ソクラテス的にうちなる神に畏れ神意を怖れこころを鎮め高め乱心の働きを慎もうというわけである。孔子のいうところが「吾、怪、力、乱、神を語らず」なのか、「怪力、乱神を語らず」なのかの考証は今私のよくするところではないが、とにかく、精神の働きを高め強めて乱神の働きを抑え慎もうとしているわけである。和御魂(ニギミタマ)に従い荒御魂(アラミタマ)の荒ぶりを極力抑えたいと殆どつねに思い願っているといってもよいであろうか。

 また心掛けの問題としてより、むかしから気になってどうにもならないものに、名辞のようなというべきか、概念的特に抽象概念表示的名詞の勝手気ままな延長的転義流用と、近くになってこの「を」と「に」の違いが気にかかっていろいろと考えてきたが、最近特に「靖国神社を参拝」するかしないかをめぐる論争を見聞する際にも、何時も気になってたまらないものに「をにが」問題があって、神のあるなし、神業の何なのかなどのそもそもの神のことさえそれが覆い隠してしまう有様だ。

  例えば、学校などから特に顕著な例として級(class)をただの組(group)の意味にまで不当拡大してしまうこと、単音節語である漢字の重音化にもとづく二字熟語化の安易な模倣の故かと思われるが、危険のように化成的危うさを言うのに「険」の字を用いて平然とやり取りしていることもその一例であり、また動作行動や状態を表すいわゆる動詞verbの関連付け的な一種の関係表示的な働きを言語化している日本語の「てにをは」もしくは「を─に」「は─が」などの意味の異同を含む助詞問題、私のいう「をにが」問題、言い換えれば印欧語の格語尾の意味表現の問題であるが、あえていえば、onomaとrhemaとの二大分類の基本に深くかかわる問題、簡単に言えば対象の二大別理解に深くかかわる英語などの構造言語なら文構造の骨格の問題ともいえる。そして日本語のようなものなら行為や動作の志向目標表示とも言える「に」と「弁当に手をつける」「弁当を平らげる」などに見られるような行動や処理行動、目標的対象表示とも言えそうな問題に分けても考えられる問題などもまたその一例であると言える。昔から書評などを書いて下さった方から言葉の問題、特にいわゆる文法問題といわれてしまうものを書き込んでは駄目なんだと書評文とは別にして直接に忠告されたこともあったが、積年の弊というべきか、宿痾というべきか、とにかく常に私としては厳密かつ妥当に概念規定をせざるをえず、どうしても文法的問題をも扱わざるをえない。今いわゆる首相の「靖国神社参拝問題」といわれるこの問題を扱う場合でもこの悩みを曳きずったまま、避けようとすれば、考えが進まないのが今なお、断ちがたい悩みの中の悩みとなっているのである。文字通りの安全的思考によって広く片寄らない視野思考と判断と価値づけが欠かせない前提であることを片時もゆるがせにしてはならない、と自ら戒め続けているのである。

  もともと思索的な概念把握は言葉によらなければならず、名詞などに収まってゆく概念語も、構文論や「てにをは」論や「をにが」論もしくは「がのを」論に深くかかわらざるをえず、精密な概念把握のためにもそれらの凱切な研究と検討が欠かせない。翻訳読みや翻訳的読解を考えれば、外国語文法とは別に日本語そのものの文法にも、そして文法のそれとともにそれぞれの言語習慣もしくは文化特異性などにまでも理解を及ぼすべき比較研究がなくてはならないことになる。これは今さら更めて言うまでもないことなのだが、当然であるといえばあまりにも当然であって、当然過ぎるとさえ言いたくなるぐらいのことだ。現に私が多くの人に忠告され続けているところであるが、理解を難しくし、時には学者的狷介に陥って事実同憂の士の間にさえ深い溝を作って同志そのものを遠ざけてしまいかねない。そしてつねづね思うことは、探求すべき当の概念やさまざまな文章の主題についての厳密性のための努力より、むしろ一層の理解のための説明方式についての工夫や文体の使い分けにかかわる努力を要するのではないかということであり、かりにもそのことの正面切った努力を厭うようになって凡そ言説について怯懦になり冗語や口調語を多用して韜晦しようとしているうちに自(オノズカ)らに韜晦することになって自(ミズカ)らの愚かしさが見えなくなってしまってはなるまい、なるべくはどんな言葉も反省を欠いたまま定まり文句として見逃したり看過したりしてはならない、という自覚さえ忘れかねないことである。

  私の場合自然にそうなるのは別として、文体論的努力として変ったスタイルを工夫して書こうと敢えてすることは今まで皆無に近かった。今回は進んでそのようにしようと思ってはいるものの、やはりいわゆる理窟っぽさ、取っつきにくさ、こむづかしさ、更にはごみごみと問題の寄せ集めになってわけのわからない長ったらしさなどについての非難を受けずには済みそうにない。しかし、惧れは惧れとして、少しは私なりの工夫を加えたやり方でこの靖国神社参拝問題を扱ってみよう、とにかく昔の流れるようなリズムで書くことを心掛け努力し心してやってみようと思うのだが、果たしてどうなるのか自信はない。それにしてもこの前書きからして、不得要領の複雑さ煩雑さである。成功を願うよりはそんな場合の忌憚のない被害者の皆様のご指導ご教示とご寛容をひたすらお願いしたい心境である。

辛島 司朗

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