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徐福伝説

  山名美和子さんの著「ういろう物語」では、外郎五代目となる宇野藤右衛門
  定治と伊勢新九郎(後の北條早雲)との間で、以下のようなやりとりがある。

    「故国に、こんな話が伝わっております。不老不死の薬を求め、
     万里の波濤を越えて日本に来た徐福という仙術の士がいたとか」
    「徐福なる者は仙薬を探しに日本に来たようだが、外郎氏は
     仙薬を持って日本に来た。これは大きな違いだ」


  ◎徐福伝説に関する
     映画 ・・・・ 2019年の韓国映画「SEOBOK/ソボク」
     小説 ・・・・ 今野敏作 「蓬莱」
     徐福上陸の有力地としては、
            和歌山県新宮市、佐賀県など


薬師如来

  外郎売口上の最後の部分に「東方世界の薬の元締、薬師如来も上覧あれ、」
    というクダリがあります。仏教の世界観と浄土の方位は次のようです。

    この世  釈迦如来が現れた世界
     北    兜率天(とそつてん)/ 弥勒菩薩が修行する場
     西    西方極楽世界/ 阿弥陀如来の浄土
     南    補陀落山/ 観音菩薩がすむ場
     東    浄瑠璃世界/ 薬師如来の浄土


  *薬師如来は、東の浄瑠璃世界で、左手には万病を癒す薬の入った
       薬壺(やっこ)を持っていることが多いようです。


羅生門関連

 ◎小説
   芥川龍之介が1915年に発表した『羅生門』が有名ですね。
   生きるための悪という、人間のエゴイズムを描いている。

 ◎映画
   『羅生門』(1941年:吉田信三監督)
   酒呑童子をテーマとした映画のようです。
   主演の茨木童子には、「化け猫女優」と呼ばれた鈴木すみ子さん。
   源頼光には月形龍之介、渡辺綱には羅門光三郎という人が演じている。
   残念ながら、映像は見ることが出来ないようです。

   『羅生門』(1950年:黒澤明監督)
   芥川の短編小説『藪の中』と『羅生門』を原作とした有名な映画ですね。
   内容から見ても、酒呑童子とは関連ないようです。
   出演は、三船敏郎、森雅之(有島武郎の子)、京マチ子など。

   『羅生門の妖鬼』(1956年:佐伯清監督)
   茨木童子が主人公の映画のようです。ぜひ見たい映画ですね。
   茨木童子に中村錦之助、渡辺綱に東千代之介、源頼光に中村時蔵など。
                                                                                         


江戸ことば

 「江戸ことば」の定義は、いろいろあるようですが、おじサンの独断と偏見で
  選んでみたものです。

  江戸前 文字通り、江戸の町の前のこと。品川と深川に見切りを置いて、杭の
   内側を江戸前海といった。江戸湾の奥深いところは自然の養魚池となり、
   ここでとれる魚を江戸前の魚といって珍重した。
また上方に対して、
   江戸の流儀のことをいう。

 おやつ 江戸時代、八ッ時(現在の午後2時から4時)に、骨休めと称して休息
   する習慣がすでにあり、このときの間食を「御八つ」といった。最初の頃
   はうどんや餅をおやつにしていたという。

 片棒をかつぐ 江戸時代の旅の交通機関といえば駕籠。駕籠をかつぐとき、
   前後の一方を持つことから転じて、仕事の責任を分担する、協力する
   意味になった。「相棒」なんていう言葉も駕籠に縁あり。

 蒲焼 ウナギの腹をさき、竹串をさして焼く。蒲焼の語源は、その形が樺の
   皮に似ているからという説、昔、腹を開かず串刺しにして焼いた形が蒲の
   穂に似ていたから、という説などがある。

 キセル 降車駅のみで運賃を払い、途中区間が切符なしで電車に乗ることを
   「キセル乗車」というが、喫煙具のキセルが雁首と吸い口の両端だけ金が
   あり、途中は空っぽであることからきた言葉。

 下馬評 部外者が無責任にあれこれ予想しあうこと。江戸時代、旗本は城門の
   「下馬札」のある場所で馬を下り、供の者を置いて登城した。残された
   小者同士がそこで城内の評判をしあったことから。

 沽券にかかわる 沽券とは家屋敷の売買証文のこと。江戸時代、土地・家を
   売買できるのは本町人に限られており、沽券は一種のステイタス・シン
   ボルだった。「沽券にかかわる」という表現はここからきている。

 サンピン ピンはポルトガル伝来のカルタで1枚目の札。「1」を意味する。
   
3人合わせてやっと一人扶持というほどの意で、貧乏武士・ヘボ侍を侮って
   いる言葉。

 スッパ抜く 昔、武士は無礼をはたらいた者をその場で斬り捨てることがで
   きた。その際、抜いたが早いか斬ってしまう、いわゆる「抜き打ち」を
   スッパ抜きといった。

 伊達 派手にふるまい、見栄を張ること。伊達政宗の軍隊が派手な格好だった
   から、という俗説があるが、「男を立てる」が「男立て」となり、伊達の
   字をあてるようになったのが本当のようだ。

 鉄砲 フグのこと。略してテツとも。あたると死ぬ、というシャレ。食物の
   隠語は江戸期に多く、禁制の猪の肉を「牡丹」、鹿の肉を「もみじ」と
   言ったりしたが、これは花札からの連想。

 土左衛門 享保期に成瀬川土左衛門という力士がいた。アンコ型を通りこして
   パンパンに肥っていた。これを口の悪い江戸っ子が水死体のことを「まる
   で土左衛門だね」と言ったのが始まり。

 土壇場 元来は処刑場のことであった。打ち首をするため、土を盛って高くし
   たのが土壇。前に穴を掘り、ここに首を据えられてしまえばもうあとが
   ない、というわけで、切羽詰まった状態をいう。

 はったり いい加減なことを本当らしく大げさに話すことをいう。バクチで
   勝負に賭け金を出すことを「張る」といい、進行係の「張ったり張った
   り!」の声で賭け金を出したことから、この意味に。

 派手 三味線から出た言葉。元禄期、それまでの曲に比べまったく型破りな
   曲が発表された。もとあった曲を「
本手」、新しいものを「破手」と呼
   んだのが転じて、華やかなものを「派手」というようになった。

 ひょうたんなまず ひょうたんでナマズを捕まえるように捉えどころがない。
   のらりくらりとして要領を得ないことを、「まるで、ひょうたんなまず
   みたいだ」と言った。

 封切り 絵入りの読み物は袋に入れて売っていた。買ったら封を切ってこれを
   読むので人は新刊書を「封切り」と言った。それを現代では新しい映画を
   初めて上映することをこう呼ぶ。

 べらんめえ べらぼうめ、の江戸なまり。べらぼうは、へらのぼうからきた。
   へらはご飯をよそうしゃもじのことで、飯(めし)を食うしか能のない
   やつ、穀(ごく)つぶし、をさした。

 村正 古着のこと。名工・村正のつくった刀はさわるとすぐ切れる。ひょろ
   ひょろ歩くとビリッと切れる、いわゆるひょろビリの着物もこう言った。
   江戸期の町人の衣服は殆ど古着だった。

 やぼ 笙(しょう)という楽器は17本の管からなり各々に「コツ・イチ・・・
   ヤ・ボ」という名があるが、ヤとボの管だけなぜか音が出ない。融通が
   きかない、ヤボだ、というのはここからきた、という説がある。

 やり手 もとは遊郭の女マネジャーのこと。女郎あがりが多く、店にいて遊女の
   しつけ・監督から客さばきまでこなした。



「温泉」の定義                                       

 温泉法という法律で決められていて、「地中から湧出する温水、鉱水及び水蒸気
その他のガス(炭化水素を主成分と
する天然ガスを除く)で、別表@に掲げる温度
又は物質を有するもの」とあり、
温度25以上か、別表の物質(19項目)が1つ
以上、
規定量含まれていれば、、、、温泉です。

 奈良〜平安時代には
  
「古事記」、「日本書紀」、「出雲国風土記」、「万葉集」で記述がある
       
愛媛・道後温泉   和歌山・白浜温泉  兵庫・有馬温泉
       
島根・玉造温泉   神奈川・湯河原温泉
       
長野・上山田(かみやまだ)温泉  和歌山・湯の峰温泉

    鎌倉〜安土桃山時代には
   
武士や高僧が湯治した記録があり、戦国時代は、
     
傷ついた兵を温泉で治療、戦国武将の「隠し湯」が数多く存在した

  江戸時代には
     将軍さまは海や草津などの温泉を江戸城に運ばせ、沸かして入浴した
   「御汲湯」
    農民などは
「湯治」や伊勢参り、金毘羅参りの行き帰りに温泉に寄った
   
江戸期には100か所近くの温泉地があったといいます。



「旅行用心集」より
  
  江戸時代文化7年(1810)に八隅蘆庵という人によって書かれた「旅行用心集」
    という本があります。
    当時の人が旅をする時の注意点など、今と違うところが面白いです。
  全61条ありますが、その中から16条を紹介します。

1 宿へ着いたら、まず第一にそこの東西南北の方角を聞いて確かめ、次に家の造りや便所、表や裏の出入口などを見覚えておくことが必要だというのは、昔からの教えである。これは近くで火事があったり、強盗に入られたり、あるいは宿の中でけんかがあったりしたときのためである。

2 朝は気ぜわしいため、持ち物を忘れたりするものだから、夜のうちによく調べて、いるものいらないものを考えて荷造りし、散らからないようにしなさい。足袋は寝床の中で履けるぐらいに準備をしておかなければ、朝出かけるのが遅くなってしまう。朝出かけるのが遅れると、一日の遅れのもととなってしまうものだ。

3 空腹のときは酒は飲んではいけない。食後に飲みなさい。暑いときも寒いときも、酒は温めて飲むのがよい。

4 とりわけ疲れたときには、熱い風呂にいつもより長く入れば、疲れはとれる。ただし入浴中に顔を何度も洗ってはいけない。顔を何度も洗うとのぼせてしまう。

5 食後には絶対に急いで歩いてはいけない。馬や駕籠に乗るときも速度を速くしないように。もし転んだり落馬したりすると、食べたてでは腹の中が落ちついていないために、気を失ってしまうことがあるから用心しなさい。

6 用足しに行きたいのをがまんして、馬や駕籠に乗るのは決してしないこと。落馬したりすると心臓に負担がかかり、死んでしまうことがあるものだ。

7 旅先で知らない川に出会ったら、決して歩いて渡ってはいけない。(後略)

8 川越や船渡しの場所では、それぞれふところのものに気をつけて乗りなさい。また駕籠の中につっておいた物が落ちることもある。水中へ物を落としたら、見つけるのはむずかしいものだ。

9 旅の途中で三日、もしくは五,六日ほど道連れになって信用がおけるように見えた人とでも、同宿したり、食べ物や薬など、たがいにやりとりしてはいけない。

10  旅の連れはせいぜい五、六人程度までがよい。大勢で行くのはよくない。人はそれぞれ考えることが違うから、大勢で長旅をすると、きっとうまくいかないものが出てくるものだ。

11 道連れにしないほうがよい人は、大酒飲み、酒は飲まなくとも癖のある人、癇癪の人、喘息持ち、あるいはたいへんな持病を抱えている人。こういう人は、いつその病気が起こるかわからないので、よく考えたほうがよい。

12 山中や野道などで若い女性や草刈り女、女連れでお参りに出かける一行などとすれちがったとき、ひと通り挨拶をするのはよいが、それ以上のいらぬ話をしたり、または相手の田舎言葉をむやみに笑ったりしてはいけない。もめごとは、ささいなことから起こるものを覚えておくこと。

13 途中で立ち寄って見たりしないほうがよいものは、けんか、口論、ばくち、碁、将棋、村の踊り、村の相撲、変死人、殺しの場面など、つまり人だかりがしているところは、何かそういう物騒なことと、見当をつけて素通りしたほうがよい。

14 相宿の中で酒盛りがはじまり、夜更けまでつづいているようだったら、自分の仲間うちでその酒盛りが済むまで、かわるがわる一人ずつ寝ないでいるのがよい。長い酒盛りも、よく問題を起こすものだ。

15 道中で腰にさす大小の刀は、軽くて短いのがよい。長い刀、長脇差、さやなどを派手にしたもの、変わった着物や持ち物は身につけないほうがよい。目立たない格好であれば災難にあうこともない。

16 途中で神社や寺はもちろん、橋や立ち木、大きな石などへ落書きしたり、御札を貼ったりするのは厳禁。


二枚目は誰だ?

では、前回の続きで歌舞伎からの言葉をいくつか紹介します。

・二枚目
 元禄期の歌舞伎からの言葉。小屋の表には役者の名前を大書した看板を置く
  習慣だったが、
右から二枚目に色男を並べた。一番右は「大立者」といい、
  座の中心人物を置いた。

  1枚目= 主役 「一枚看板」   2枚目= 色男 若い色男の役者
  3枚目= 道化 お笑い担当    4枚目= 中軸 中堅役者

   5枚目= 敵役 一般的      6枚目= 実敵 憎めない敵役
     7枚目= 実悪 巨悪       8枚目= 座長 元締め

・ドサ廻り
  旅興行を指す。江戸時代は島流しの先は佐渡ケ島でした。「佐渡」を逆にし
  た等の説があるようです。

・捨てぜりふ
  台本に書いていない台詞(せりふ)を臨機応変にいうこと。

・だんまり
  暗闇という設定で、セリフを発しないで、互いに相手を探り合う演出または
  場面。

・切り口上(きりこうじょう)
  歌舞伎の一日の興業の終わり(切)に座頭や頭取が述べる口上。

・正念場(しょうねんば)
  主人公が役柄の神髄を見せる最も重要な場面。

・柿落し(こけらおとし)
  歌舞伎劇場の新築工事の最後に屋根の上の削り屑(こけら)を落としたこと
  から、劇場工事の完成を意味するようになり、更に新築開場興行もいうよ
  うになった。

・茶番(ちゃばん)
  元禄期、歌舞伎の千秋楽で行われた仲間内での余興劇を「茶番狂言」といっ
  た。
お茶くみ(茶番)専門の下積み役者が出演したことによる。転じて、
  見え透いたバカバカしいやりとりの意に。

・大詰(おおづめ)
  長い作品の最終幕。寛政期(18世紀末)までは一日の長い作品を一番目
  (時代物)と二番目
(世話物)に分けて上演していた。一番目の最後の
  幕を大詰、二番目の最終の幕を大切
(大喜利)といっていた。

・黒幕(くろまく)
 主として夜の場面を表す背景幕として使われるほか、死んだという設定の人物
  を消す(隠す)ための消し幕や、舞台の不必要な部分を隠す幕としても使用さ
  れ、見えないという記号になっている。舞台裏で黒い幕を操作して進行に関わ
  ることから、背後で影響力を行使する強力な人物をこの進行役になぞらえて
 「黒幕」と呼ぶようになった。


歌舞伎十八番って?

 歌舞伎は、1603年出雲の巫女(みこ)を名乗るお国が京で「かぶき踊り」を
  踊ったのが歌舞伎の始まりと言われます。「かぶき」は動詞「かぶく」の名詞
  化。「傾く」と表記され、世の中の習俗や常識に従わず異様な身なりや言動を
  する者を「かぶき者」と称したそうです。
歌舞伎の世界から入ってきた言葉も
  いろいろあります。少し調べてみました。

・十八番(おはこ)
   天保年間に七代目市川團十郎(当時は五代目海老蔵)が市川家のお家芸として
 選定した18の芝居のこと。「歌舞伎十八番」という。「十八番」を箱に入れ
 る意をあて、「おはこ」と読ませる。

     @助六(すけろく)、A不動(ふどう)、B外郎売(ういろううり)、
   C解脱(げだつ)、
D鳴神(なるかみ)、E不破(ふわ)、F矢の根
  (やのね)、G象引(ぞうひき)、
H暫(しばらく)、I嫐(うわなり)、
   J鎌髭(かまひげ)、K押戻(おしもどし)、
L関羽(かんう)、M毛抜
  (けぬき)、N七つ面(ななつめん)、O蛇柳(じゃやなぎ)、
P景清
  (かげきよ)、Q勧進帳(かんじんちょう)

・幕の内弁当
  幕間に観客が食べる、俵の形をした握り飯におかずがついた弁当。幕が引か
  れて芝居が終了すると、次の幕が開くまでかなりの時間がかかる。
  この間に食べる簡便な弁当のことを「幕の内」と称した。

・見得(みえ)
  演技の途中で大きく身体を動かした後、固定したポーズをとること。
  目を大きく開いて睨むのが大事。初代市川團十郎が考案したといわれる。

・なあなあ
  歌舞伎の定型的な演技の一つ。二人の登場人物が内緒話をする場面で、甲が
  乙の耳元に口を寄せて「なあ」といい、乙が「なあ」とうなずき返す。

・市松模様(いちまつもよう)
 色違いの正方形を互い違いに組み合わせた紋様。石畳模様。
寛保(かんぽう)
 元年(
1741)若衆方の初代佐野川市松が、この模様の衣装を着たことから、
 大流行し市松模様と呼ばれた。

・どんでん返し
 立体的に飾ってある屋台を90度後ろに倒し、背景の絵が描かれている
 底辺を垂直に立てる舞台転換。がんどう返しともいう。どんでん返しの演出
 は大詰めに行われる。


歌舞伎の「外郎売」

 江戸時代の享保3年(1718)に二代目市川團十郎によって創作されたもの。
 團十郎は持病の咳、痰のために台詞が言えなく舞台に立てなくて困っていたの
 ですが、薬のういろうによって全快しました。お礼の気持ちで、薬を世に知
 らしめようと舞台で上演することに。
外郎家は宣伝になるからと固辞しました
 が、再三の申出に承知したそうです。

 江戸森田屋での演目は「若緑勢曽我」というもので、自作のセリフを早口で
 演じたので有名となったということです。もっとも、その薬売りの口上の原型
 はあったようですが、それはまたいずれご紹介することとします。

 さて「若緑勢曽我」のストーリーは、日本三大仇討といわれる「曽我兄弟の
 仇討」を題材としています。(三代仇討のあと二つは、「赤穂浪士の討ち入
 り」と「鍵屋の辻の決闘(荒木又右衛門の助太刀で有名)」)

 「曽我兄弟の仇討」は父の仇の工藤祐経を討ち果たさんとする物語ですが、
 この演題では弟の(兄という説も)曽我五郎時致が大磯の遊郭にて、外郎売
 に扮し花魁を侍らせて遊ぶ仇の工藤祐経に近づこうとするプロットです。
 史実とは違うらしいです。


ういろう

 ういろうというと名古屋のういろう(=お菓子)が有名で、全国的に知ら
 れていますね。
実は調べてみると、名古屋だけでなく、京都や山口、岐阜、
 小田原などいろいろな所で代表的なお土産としてあるようです。なまえも
 「ういろう」「ういろ」「うゐろ」「外郎」「ないろ(内良)」など様々で、
 その原材料や製法も異なり、お味もそれぞれに特徴があるようです。

 “ういろう”という名は、小田原の外郎家(ういろうけ)が起源のようです。
 今から653年前に当時の中国元王朝滅亡時に日本に渡ってきた陳延祐
 (ちんえんゆう)という人物が起源で、その後“外郎”という名を名乗り
 ました。当時の中国の発音(呉音?)外郎は“ういろう”と発音されたとの
 ことです。

 九州博多に入国した陳延祐ですが、その後その子孫が京都、静岡を経由して
 小田原に落ち着いたという歴史があるようです。北条五代とも深い縁があっ
 たようです。
意外とご存じない方が多いのですが、“ういろう”は元々はお
 菓子ではなく、薬の名前で、薬の口直しに創られたのがお菓子の“ういろう”
 とのことです。