10.
葵が次に目を覚まして時計を確認すれば、もう朝になっていた。
隣を見れば、そこにいたはずのセツの姿がない。葵は起き上がって、部屋の中を見渡した。
そこにはセツの姿は見当たらない。ただし、すぐに彼の居場所を察する。トイレのある方で、かすかに水音がしていたからだ。おそらくシャワーを使っているのだろう。
葵は枕元のパネルを色々操作して、部屋の明かりをつけた。
ソファの方へ移動して、テレビをつける。いくつかチャンネルを回したら、男女が絡むシーンが映し出されて、葵は慌てて電源を落とす。
こういうホテルでは、チャンネル内にああいう番組があることを初めて知った。
葵は暇を持て余し、今度はテーブルの上にあったホテルのファイルをめくった。
料金システムや、カラオケ、ゲームの貸し出し等について記載されている。デリバリーのメニューもあって、葵はそれを眺めた。
昨日の昼から何も食べていない。
最近ご飯を抜くことが多くなってしまった。一人暮らしだと、つい自炊するのも面倒になってしまう。かといって女の子一人でレストランに入るのも気が引けて、結局はコンビニのお弁当か、あるいはそれも面倒くさくなって抜いてしまうのだ。
食事を抜いても、別に支障は無い。
ただし、何となく倦怠感が残る。
それが、食事を抜いたせいなのか、それとも陰鬱とした一人暮らしのせいなのかは分からないけれど。
彼氏の一人でも出来れば変わるのだろう。
……そんなことを思って、葵は一人赤面する。
お互いそういう意識を持っているとはいえ、セツが彼氏になる、という表現には酷く違和感を覚える。
ソファでメニューを呆然と眺めていたら、ようやくセツが姿を見せた。
「……あ、起きてた?」
「うん。……セツ、その服どうしたの?」
シャワーから上がったセツの姿は、いつの間にか真新しいシャツにジーンズの姿で、昨日血で汚れたシャツとは異なっていた。
「いや、術で汚れを取った」
「セツの力ってつくづく便利だねー」
葵は感心しながら、立ち上がった。
「私もシャワー浴びる」
葵はそう言い残すと、セツと入れ違いに浴室へ向かった。
簡単にシャワーを浴び、少し不快感を感じたが昨日と同じ衣服を身に着けると、葵は部屋へ戻った。
部屋ではセツが、ベッドの上に座ってテレビを見ている。
朝のニュースを見ているらしい。
そこでふと、気にかかった。葵はあの、如何わしいチャンネルでテレビの電源を切ったから、セツがテレビをつけた時はそのチャンネルが映ったことだろう。
彼はどんな反応をしたのだろうか。
気にはなったが、そんなこと本人には訊けない。
葵はそんなくだらない気がかりを打ち払うと、ソファに腰掛けた。
「で、これからどうする? サナ……っていうか、天木玲菜のこと」
葵は髪をタオルで拭きながら、そう尋ねた。
セツはこちらを向くと、軽く頷いて言う。
「それがさ、ちょっとやっかいなことになってるみたいなんだよな」
「……え?」
やっかいなこととは、何だろう。
サナの居場所が分かって、かなり前進したと思ったのに。
セツはテレビを消すと、葵に向き直った。
「あの時のことを考えると、玲菜がサナだと考えるのが普通なんだけど、どうやら微妙に違うらしい」
神妙な面持ちで話すセツの横顔を見ながら、葵は動かしていた手を休めてタオルをテーブルの上に置いた。
髪は水分を含んで、肩先に垂れている。早く乾かしたいけれども、今はセツの話を聞くほうが先だ。
「どういうこと?」
「つまりな。昨日の様子からサナは、恐らく覚醒し始めているんだ。だけどいつものように覚醒すれば、あんなふうに不安定にサナの人格が現れたり消えたりすることはない。覚醒した時点で、サナの宿主である玲菜とサナは、人格が完璧に入れ替わるのが普通だ。けれどそうじゃない。玲菜の人格ははっきりと強く残ってる。……となると」
「となると?」
「となると……いや、俺も良く分からないんだけど」
セツがそんなふうに、困ったように言うので葵は思わず吹き出してしまった。今まで神妙に話していたから、答えは出ているのだと思った。
「何それ〜。結局、どうなの?」
「多分、人格を両立してるっていうのは……玲菜の人格がサナと同等に、もしくはそれ以上に強いんだ。だから、サナは覚醒したくても思うように表面化出来ないんだと思う。そしてやっかいなことに、玲菜の人格が表面化している時にはサナの気配は格段に微弱になって、場所が確定出来ない」
「え、ていうと?」
「一度場所を見失えば、追うことが出来ない」
話が飲み込めなくて、葵はしばしの間硬直してしまった。
つまり、サナはすでに覚醒しているというのに、その場所をセツは特定できない。となると、知らないうちに何か大災害が起きうる可能性もあるということ、か。
「……え、でも、サナの人格が表面化すれば分かるんだよね?」
「それは、当然。でも、サナの気配だけを頼りに瞬間移動するのはけっこう大変だろうなあ、と。だから本来なら、なるべく至近距離にいた方がいいんだけど」
葵は何と言ったらいいのか分からず、黙ったままセツを見ていた。
どうすればいいのだろう。
サナが表面化する時というのは、多分天木が表現するところの、「降霊」の時だろう。彼らはサナの力を使って有名になったのだから。彼らがそれを仕事としている以上、サナが表面化する機会は多いのではないか。
葵はそういうことを、セツに言ったが、セツは頭を横に振った。
「ところがどっこい」
そんなふうに、人間じゃないとしたら確実に違和感を覚えるだろう逆接語で、セツは反論する。
こんな言葉どこで覚えるんだろう、と葵は内心苦笑した。
「サナが付属的にもたらす予言とかの力は、どうやら無意識にされているらしい。だから、別に表面化せずとも奴らは力を利用できる。……むしろ、サナの意思でやっていることかどうか、怪しいところだし」
「まあ、人間を殺そうとしてるサナが、人間の助けになることをするわけないもんね……」
「そう言われると、複雑だけど」
セツはそう言って、実際複雑そうな顔をした。
失言だったかなあ、と葵は後悔する。セツはそんなサナを追っている訳だから、犯罪者のように表現されるのは嫌なことだろう。
「あ、じゃあサナの気配じゃなくて、玲菜の気配を追えばいいんじゃないの?」
提案した直後、名案のように思えて葵はセツの反応を待った。
だけどセツは、相変わらず渋面のままである。
「それが……人間の気配って印象が薄いんだよな。不思議なことに葵の気配ならすぐわかるんだけど、他の人間は皆どれも似たような感じで……」
何気に嬉しいことを言ってくれる。
葵は何となく赤面しつつ、立ち上がった。
「髪、乾かしてくる。大丈夫だよ、きっと何か方法はあるって」
照れ隠し半分、葵はそう言って洗面所へ向かった。
「ここ、どこ?」
ホテルを出て路地から大通りに移動すると、当然だが葵の知らない光景が拡がっていた。車通りはとにかく多い。ただし、道路と車と飲食店だけしか見えない。
道の上方にある道路標示には、見知った地名の文字が並んでいるが、それはY市にある地名ではなさそうだった。
「もしかして、ここS県?」
どうやらここは、葵の地元の県らしい。
ただし、実家からは遠く離れているが。それにしても何でこんなところにいるのだろう。
「元いたところより、けっこう離れてるわけ?」
セツが悠長にそんなことを聞いてきた。
向こうの方に見える飲食店を気にしながら。
「離れてる。……多分、三、四個は他県をまたがってる」
そう言ってもセツにはピンと来なかったらしく、「ふう〜ん」とだけ返事した。
「まあ、葵の部屋には瞬間移動で戻れるから問題はねえし。それよりさ〜、何か食わねえ? 昨日力使い切ったから、エネルギー補給したい」
食べなくても生きられる、というのは微妙に誇大表現だったらしい。
そりゃあれだけ人間離れしたことをやれば、エネルギーは人間よりも遥かに消費するだろう。
ただ、人間とはエネルギーの蓄え方が異なるらしく、エネルギーを摂取しすぎても脂肪がつくわけではない。そのエネルギーは目に見えない形でセツの身体のどこかに蓄えられ、相当無茶な使い方をしなければ二、三ヶ月は何も食べずに生きていられるという。
また一食から得られるエネルギーも人間とは違うらしいから、エネルギー効率が良いことだけは確かだろう。
それにしても、どんなに食べても太らないというのは理想的だ。
「あそこにファミレスあるから寄っていこうか。私もお腹空いちゃった」
そうして二人は、すぐ近くに見えていたファミリーレストランへ入ると、満足行くまで腹を満たした。