9.
葵は覚醒した。
相変わらず薄暗い室内。
ふかふかとした掛け布団が肩までかかっており、温もっている。気持ちの良いまどろみが葵を包んでいる反面、何だか無性に悲しくなって音も無く涙を流した。
それを枕で拭うために、寝返りを打つ。
すると、隣にセツの後頭部があった。
それで、葵はハッとする。彼の首の傷はどうなっただろう。かなりの出血量だった。葵は思わず身を起こすと、彼の首に手を伸ばした。
手で触って見ると、固まった血液がこびりついているものの、表面はすべすべとしていた。ここに確かに銃弾が掠ったはずだが。
だがすぐに、彼が傷を治せる力を持っていることを思い出した。
きっと自分で治したのだろう。
葵は安堵して、息を吐き出す。
そして、はたと我に返った。
「……え?」
ここはどこだろう。あの時、天木が銃口をこちらに向けていて、何度か銃声を聞いた。それで自分は意識を失ったのだ。
恐らく、夢ではない。記憶ははっきりとしている。
ただその後意識を失ってしまってからは、どうなったか全く分からない。
葵は呆然としつつも、辺りを見回した。
そこは、広くもない部屋の一室のようだった。
ビジネスホテルの一室のような、シンプルな部屋のつくり。
部屋のほとんどをこの大きなベッドが埋めている。ベッドの向こう側には小さなソファとテーブル。ベッドから起き上がって正面には大きなテレビが備えられていた。
葵は再び、自分の隣で横になっているセツに視線を移す。
彼は深く寝ているようだった。
「セツ?」
葵は彼の肩に手をかけ、軽くゆすった。
それだけでは起きなかったので、更に大きくゆすってみる。
「……」
セツが何かを言って、寝返りを打った。
こちら側に身体を向けた後、しばしして目を開ける。更に焦点を合わせるのに少し、時間がかかったようだ。
「ああ、葵。……起きた?」
セツは少しだるそうに、上半身を起こす。目を細めて、葵の顔を見た。
「どうした?」
黙ったままの葵に、セツは尋ねる。そして、不安そうな表情をしている葵に気がついたのだろう。
セツは葵の頭に手を置くと、いい子いい子するように頭を撫でた。
「何か嫌な夢でも見たのか?」
イマイチこの状況から、ずれたような発言。
葵は何と言っていいやら分からず、黙ってセツを見つめ返していた。
するとセツは撫でていた手を止めて、涙の跡の残る葵の頬に手を移す。……とたん、その手がぱたりと落ちた。
「……眠い」
再び布団の中に潜ってしまう。
葵はぽかんとして、そんなセツを見下ろした。セツは再び睡眠に没頭してしまったようで、さすがにもう起こす気もしない。
葵はそろそろとベッドから抜け出すと、絨毯が敷かれた床に下りた。
辺りは薄暗いものの、すでに目は慣れている。
ベッドを回り込んでテレビの前を通り過ぎると、部屋の側面にあった扉を開ける。そこは案の定トイレになっていた。
葵は壁面にあったスイッチを押して明かりをつけると、扉を閉め、鍵をかけた。
葵は用を足そうとして、ふと、違和感に気がつく。
トイレが広い。
そしてトイレを区切っている透明なガラス製の引き戸の向こうは、どうやらお風呂になっているようである。
これではお風呂の中がトイレから透けて見えてしまう。ユニットバスではないし、変なつくりである。
葵は興味半分にお風呂を覗き込んだ。
割と広めの浴槽を見れば、ジェットバスだと言うことが分かった。
風呂の外にある壁のスイッチをつけて、葵は更に驚いた。照明が赤い。こんなお風呂は初めて見る。
葵は首をかしげて、風呂の電気を消した。
用を足した後トイレを出て、ふと頭に一つの疑念が浮かんだ。
テーブルの上を見る。
灰皿に、ホテルの名前が書かれたマッチが置かれている。そのままテレビを通過し、ベッドに身を乗り出すとその枕元を確認した。
いくつかのボタンが並んだパネルがある。パネルの横には、ラミネート加工された何かの番組表。良く見れば、どうやら有線の番組表のようである。
そして、ついに目に入ってしまったものに、葵は表情を強張らせた。
……初めて、見た。いや、こういうところに初めて入ったというべきか。
「……セ、セツ!」
思わず大きな声で、セツの名を呼んでしまった。
その声でセツが飛び起きる。いきなり上半身を起こした彼と、葵は視線を合わせた。
セツは何事かと目を見開いて、葵を見ている。
「や、びびった。……どうした?」
「あ、大きな声出してごめん。……じゃなくて、えっと……じょ、状況説明して欲しいんですけど。どうして私達、ラ……、ホテルにいるの?」
葵が問えば、セツはまだ寝ぼけ調子の頭を傾げて少し沈黙した後、口を開く。
「あ〜……あのときさ、緊急避難的に瞬間移動したんだよね。特に目的地を定めてなかったから、変に力を消耗してさ…。で、とりあえず休めるトコを探して、ここに入った」
意識を失った葵を抱えてホテルを探すのは、大変なことだっただろう。
葵はそんなことを考えながら、更に尋ねた。
「セツは、ここがどういうところか分かってる……?」
「……うん? 休めるところだろ? 表に休憩とか、宿泊とか書かれてたし」
そりゃそうだ。
何に対してかは分からないが、葵は妙に呆れてため息をついた。
確かに、いわゆるラブホテルは普通のホテルより分かりやすい表示がされている。セツが何も知らずにここに入ったとしても、おかしくは無いだろう。
「さすがにやばかったな。……ちょっと反省してる。悪かったな。まさかあんな展開になるとはね」
「そうだね、セツ、撃たれちゃうし」
葵は不思議と笑いがこみ上げてきて、何とか笑い声を抑えながらそう言った。
「だよなあ。まあ、治せたからいいけど。力も使いすぎたし、ちょっと参った」
セツは困惑したような表情を浮かべてそう言った。
葵の方は益々笑いたい衝動に駆られて、いけないと思いながらも、ベッドに顔をうずめながらしきりに笑った。
きっとセツは、余計に困っていることだろう。
葵はしばらくして笑いが収まってからも、ベッドにうずくまったまま、黙っていた。その身体をずるずるとずらしながら、布団の中に入り込む。
うつ伏せのまま、顔だけを横にしてセツの顔を見上げた。
「……私も、かなり参ったよ」
ぽつりと言う。
顔の目の前には、セツの体重を支えている手が見える。細い指。この手で、あの男達を突き飛ばしたりしたのか。
「葵?」
しきりに笑っていたかと思えば、今度は急に静かになった葵を心配して、セツがこちらを覗き込んだ。
彼も布団の中に横たわると、片腕を立てて頭を支える。
視線の少し上に、セツの顔。秀麗な面持ち。ふと、彼の髪の色が白に戻っていることに気がついた。
「髪、白いよ?」
「ああ。……最後に瞬間移動したとき、疲れ果てて元に戻った」
「最後って、緊急避難したときのこと?」
「いや、ホテルの外から、この部屋へ」
そうか、ちゃんとした手続きをしてこの部屋に入ったのではないのだ。
葵は納得して、少し笑う。
「今何時かな?」
問えば、セツが枕元のパネルに表示された時刻をちらと見て、「二十一時過ぎ」と答えた。
天木邸を訪れたのが大体十四時過ぎだったから、少なくとも六時間は眠っていた計算になる。
「……もう夜か」
葵は呟いた。何気なく手を差し出して、セツの首元に触れる。
乾いた血液が粉状になって首にへばりついている。シャツも黒っぽくシミがついていた。
「痛かった?」
「……痛いというか、熱かったかな? でもすぐ、痛みから遮断したし」
「そ、んなこと出来ちゃうんだ」
葵は手を離しながら、感心してそう言った。
「元々は、戦士だったからな。戦ってるときに、痛みは動きを鈍くするものでしかないから」
「戦士、か。そういえば、戦争やってたんだもんね。……そんなときに、サナは行方不明になって」
周りに大きな影響を残して消えたサナの存在。
そのサナを、人間として何度も輪廻しながら追うセツ。
それはいったい、どんな気持ちを抱いてのことなのだろう。セツにとって、サナという存在はそんなに大事なものなのか。
「セツは、サナの兄弟のようなものだって言ってたよね。かけがえのない存在だって。……それって、愛情だったの?」
葵がそんなことを問えば、セツは困惑の表情を浮かべた。それでも割とすぐに答えが返ってきた。
「愛情……か。さあ、そう言われてみるとちょっと違うような気がするけど。愛情というよりは、憧憬に近かったかもな。サナを理解したかった」
愛情ではない、その言葉に葵は少し安堵した。
「……あのさ、セツ」
葵はこのまま勢いに任せて、普段は訊けそうにないことを口にした。
「セツはさ、こういうふうに……私を抱きしめたり、手をつないだり、隣に並んで寝ちゃうこと……何とも思わないの?」
思い切って尋ねてセツの様子を伺えば、その表情は先程よりもさらに困ったようになった。眉を軽くしかめて、考え込んでいる。
やっぱり、訊くべきじゃなかったのかも、と葵は少し後悔した。
……しばしして、セツが答える。
「何ていうか……いや、ごめん。そういうの、疎い方だって言えばそれまで何だけど、俺も全く意識してないと言ったら嘘なんだよな。……意識してるけど、何ていうか」
セツは言いよどみながらも、更に言葉を続けた。
「嫌だったら今後は気をつけます」
セツはそう言うと照れ隠しなのか、枕にしているのとは反対の手を後頭部に持っていってもぞもぞ動かした。
葵はそんな仕草を見たあと、半分まぶたを伏せて、今度はシーツのしわを見つめた。
「嫌じゃないけど……でも、ちょっと、困るかも。だって、そういうことされるとやっぱり、こっちはかなり意識するっていうか……セツだって困るでしょ?」
自分から好意を持たれたら、セツは困るだろう、と葵は思った。
そういう関係になろうはずがないわけだし。
「困るって?」
「私が、セツのこと好きになっちゃったら」
なっちゃったら、……そんな言い方をする。本当は、すでに好きになっているんだろうけど。
そして多くの人の命がかかっている、こんなときに、不謹慎だとは思う。
セツは、そういう対象ではないはずだ。
けれど、葵にとってこんなにも親しくなった異性は初めてだったし、しかも美形。なおかつスキンシップも度々あるとすれば、好きにならない方がおかしい。
「……」
セツは黙ったままだった。
やっぱり、言わない方が良かったかもしれない。けれどここまで来たら引き返せない。このままセツとの関係がぎくしゃくしてしまうのは嫌だったけど、生殺し状態も嫌だった。
「セツ?」
視線をセツの顔に戻せば、セツは真剣な表情でこちらを見ていた。視線が合ってすぐ、セツが口を開く。
「俺は、構わないけど」
その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
葵はセツの顔を見つめたまま、絶句する。
「ていうか、俺は葵のこと、好きだ、と、思うし?」
セツは視線をさまよわせながら、そう言った。
「好き?」
セツの口からそんな言葉が聞けるとは思っていなかった。
「何か……ねえ。ちょっと第一印象が強烈だったんだよな。いきなり派出に自転車でこけてさ、でも何事もなかったかのようにそのまま立ち去るし。……変な子だな〜、って、思った」
「……そ、そんなこと印象に残ってたの?」
「俺が誰かれ構わず声をかけてると思った?」
思ったので、頷いた。
セツは参ったような表情で、後頭部にあった腕を自分の身体の側面に戻す。
「そうじゃないんだな、これが。俺も本体は人間な訳だし、全く下心が無かったというのは嘘です、はい。……ごめんなさい」
もう自棄になっているかのように、セツはそう言って笑った。葵もつられて、笑う。
セツが人間じゃない? 何てことを思っていたのだろう。
彼は立派な人間だ。
例えその本質は人間じゃないとしても、彼の精神と肉体は全くの人間なのだ。
「……何か、気が緩んじゃった」
葵はそう言って、セツに身体を寄せた。