13.
お風呂から上がって部屋に戻れば、セツは床に寝転がって、テレビを見ていた。
バラエティー番組のようで、じっと見ているかと思えば、声をあげて笑うこともある。
「思ったんだけど」
その声で、葵が戻ってきたのに気づいたセツは、横にしていた身体を起こした。
「何?」
「もしかしてセツって、テレビ好き? 何か、よく見てるよね?」
言いながら、セツの斜向かいに座り込む。
「実は俺、子供のとき結構テレビっ子だったから」
葵の問に答えながらも、やはり視線はテレビに向けていた。
そんなセツの様子に呆れつつ、葵もテレビを見ることにした。
有名なお笑い芸人が、どこかの旅館で何か馬鹿なことをやって騒いでいる。セツもそれに合わせて笑っていた。
こうしていると、どこにでもいる普通の男の子と変わらないような気がしてきた。
「セツって、何歳なんだっけ?」
「……たしか、二十二」
「へえ、私より二つ上なんだ」
見た目によっては少年にも見えるセツだが、やはり実年齢も微妙な年齢なのだ。
子供ではないが、まだ大人になりきれていないような、年頃。
「え、葵って、二十歳なの? ……まだ十代かと思ってた」
「ん、まあ、まだ十代だけど。あと七ヶ月で二十歳かな」
「……ふうん。そか」
セツは言うと、またテレビに集中し始めた。
なので、何となく葵は、彼にこう呼びかけてみる。
「裕樹」
「……え?」
ところがセツは、葵の想像以上に大きな反応を示した。吃驚したような表情で、こちらを凝視している。
「て、セツの名前、だったよね?」
その反応に逆に葵自身が驚いて、そう言った。
「あ、ああ、まあ。……でもなんか、違和感あるけど」
セツは不思議そうな表情をして、後頭部を片手でぐしゃぐしゃとかきまぜる。黒くて真っ直ぐの髪が、それで見事に乱れてしまった。
「十代半ばくらいまでは、普通の人間として生きてたわけでしょ? セツとしての、記憶もないまま」
「まあね。……ふつ〜にね」
セツは居心地悪そうに言ってから、テレビをぶちっと切ってしまった。
そうして、葵に向き直る。
「……気になる?」
「え?」
「いや、俺がどんなふうに生きてきたか、とか……どんな親の下に生まれて、どういうふうに育ったか、とか」
「そりゃ……気になるよ。セツはだって、前世の記憶まで持ってるし、私が知らないこと沢山あるよね? ……全部を知ろうとは思わないけど、でもやっぱり、気になる」
「そうだよな……」
セツは苦笑すると、「ごめん」と一言言った。
「今はあんまり話す気はないんだけど。その内ゆっくり話していくから。それまで待ってな?」
「え? ……それは、もちろんだけど」
「今は……俺自身、複雑な気分なんだ。俺って言う人格は、『セツ』なのか『裕樹』なのか」
意外な言葉だった。
葵の中で彼は完全に、「セツ」だったし、彼自身がそんなふうに感じているとは思わなかったのだ。
「セツの人格と、『裕樹』の人格って……違うの?」
「人格って言うか。……考え方とか、ね。そりゃ違うだろうね。『セツ』としての記憶はもちろんあるんだ。それに、『セツ』の意思もある。けれど、感じ方とか考え方とか、多分『裕樹』のものが大きく影響してる」
「それは、『サナ』と『玲菜』みたいにってこと?」
一つの身体に、二つの人格を分かつ天木玲菜。セツも、彼女のように「セツ」と「裕樹」の人格が別れていた時期があったのだろうか。
「いや、それとは微妙に違うけど」
セツはそれだけ言って、口を閉じてしまった。
待って、と言われた手前、それ以上の追求は出来ない。
「……ごめん、もしかして、『裕樹』って呼ばれるの嫌だった?」
「いや、嫌じゃないよ? っていうかな、むしろ……それが自然に心地よく感じてしまうっていうか。全てを投げ出して……サナのことも忘れて、人間として生きていきたいって思ってしまうこともあって……」
セツは少しだけ眉をしかめて、そう言った。
葵はそんなセツを見て、複雑な思いを抱く。
そうだ、きっとセツだって、好きでこんな生き方をしているのではないはずだ。サナ一人を追って、輪廻を繰り返すなんて異常とも言える。
人間として生まれたなら、そのまま人間として生きていきたいとも思うだろう。
それなのに彼は、家族や安息の家を捨てて、一人サナを探してきたのだ。
「ごめん、セツ。ホントに私、何にも知らなくて。セツの気持ちも、全然分かってないし」
葵は俯いて、心から謝罪した。
本当に、セツのことを何も知らないんだと、実感した。
「いや、それは俺が悪いと思うんだけど。……俺こそごめんな? 何か面倒なことに巻き込んで、さ。本当はこんな怪しい奴を信じてくれる人、少ないのにさ。葵は協力してくれてるし、それだけで俺は頭上がらない。なのに、自分の事あまり話してなくて、……ごめん」
お互いが謝ったところで、何か気まずい雰囲気に包まれてしまった。
葵は俯いたまま、セツの視線を感じている。
しばらくして、葵はそんな自分が可笑しくて、笑いがこみ上げてしまった。でもいきなり笑い出したら変なふうに思われると思って、必死に堪える。
でもどうしても、肩は小刻みに震えてしまうし、お腹は痛くなってくるし。
葵はついにはお腹を抱えてうつ伏せになってしまった。
声には出せないけど、もう笑いたい衝動に駆られて止まらない。
「葵? どうした?」
「……なん、でも」
必死に答えようとするけど、上手く答えられない。
「え、もしかして、泣いてるとか?」
心配そうなセツの声が聞こえたので、葵は慌てて頭を左右に振る。
これ以上こんなことをしていたら、本気でセツが心配してしまう。そう思って葵は無理やり表情を引き締めた。お腹が痛い。けれど、頭の中で昔嫌いだった先生のことを思い浮かべたりして、何とか笑いを収めた。
笑いは収まったものの、息を整えるために葵は未だ、うつ伏せのままでいる。
その肩に、セツの手が下りてきた。
思わずびくりと肩が上下する。
「葵、大丈夫か?」
「……う、うん、ごめん。ほんと、泣いてないし」
顔を上げた。
心配そうなセツの顔。
「本当に?」
「うん、大丈夫」
はあ、と息を吐き出した。セツに申し訳ないことをしてしまった。
でも、何であんなに笑いたい衝動にかられたのだろう。二人で謝りあっているのが可笑しかったからだろうか。
それか、本当は、嬉しかったからかもしれない。
セツが今、自分と一緒にいてくれること。これからも、夜は帰ってきてくれること、セツが自分のことを、これからゆっくり聞かせてくれるということ。
セツのそういう気持ちが、きっと嬉しかったのだ。
そして、彼の存在自体が、ここにあってくれたこと。彼が自分を選んでくれたこと。
それが、何よりも嬉しかった。
「セツ、私、セツのこと大好き」
葵はごく自然と、そう口に出して気持ちを伝えていた。
セツは少し驚いたふうにしていたが、すぐに微笑んでくれる。
セツのもう片方の手も葵の肩に置かれて、セツはそのままゆっくりと葵を引き寄せた。
ぎゅっと抱きしめられてしまう。
葵の鼓動は自然と高鳴っていく。
すでに何度も、彼には抱きしめられたことがあるけれど、こんなふうに静かに時間が過ぎていくことは無かった。
抱きしめられている間、嫌でもそのことに集中してしまう。
飛行の時とか、瞬間移動の時とかに、ふいに抱きしめられるのとは違うのだ。
セツの鼓動も、いつもよりかは早まっている気がする。
暖かい。
セツの腕や胸部には、見た目よりも筋肉がついていて、強く異性を感じさせた。
「俺も、葵が好きだ」
耳元で、小さくそう聞こえた。その声と同時に、吐息さえも感じられる。
頭がくらくらするようで、葵は目を硬く閉じた。
自分の身にこんなことが起こるなんて、誰が想像出来ただろう。初めて本当に好きになった人が、かなりの訳ありで。
そして多くの人の存亡がかかってる。
けれども今は、今だけは、そんなことも忘れていたい。
セツはそっと葵の身体を、自分から離した。
葵が瞳を開くと、セツの秀麗な顔が近くにある。それを凝視できずに、再び目を閉じた。
……頬に、セツの吐息を感じた。
そして、唇に柔らかく、暖かい感触。
葵は驚いて、目を開いた。セツの瞳は閉じられていて、長いまつげの縁取りが間近に見える。
唇が、離れた。
呆然とする葵に、セツは少し、笑いかける。
「……大丈夫?」
セツから、場違いな質問。
葵は顔を真っ赤にして、セツを叩くように手を振り上げた。けれどもセツはその手を取って、再び葵を抱きしめてしまう。
セツの笑い声が聞こえた。
「葵、大好きだよ……」
笑い声の後、少しかすれた声で言ったセツの言葉が、葵の心に強く刻み込まれた。