14.



 昼間は、互いにそれぞれの成すべきことをして、夜は一緒に過ごす。
 そんな生活が3日過ぎた。
 その日は午後の講義が全て休講だったので、葵は一人部屋に帰って、テレビを眺めている。
 セツは今も韓国でサナを探していることだろう。イマイチはかどらない様子で、もしかしたら韓国にはいないんじゃないかと、昨夜のセツが言っていた。
 だとしたら、次の場所を探さなければならないが、そうすると次は台湾。台湾まで長時間飛行しつづけるのは大変だろう。
 葵は面白くも無いテレビの電源を切ると、立ち上がってベランダに出た。
 ベランダには現在、サボテンが一つ置かれている。去年の冬に友達から貰ったものだ。葵は傍にしゃがみこむと、それをぼんやり眺めながら、ため息をついた。
 これから、どうなるのだろう。
 そもそもサナを見つけた後はどうすればいいのだろうか。
 セツが説得して、それで素直に殺戮行為を止めてくれるならいいけれど。
 サナのことは全く分からない。
 セツを振り回している事に関して、何故か無性に腹が立つこともある。
 ……だけど。
『早く、去りなさい』
 サナが一時だけ表面化したときに、セツに言った言葉。
 それは何を意味するのだろう。
 自分がしていることを邪魔するな、という意味だと考えるのが自然だが、それだけではないような気がする。
 危険だから、ここにいてはいけない。
 そういう意味で、言ったのだとすると。
 彼女が自分の意志で、……少なくともそれが自分の本意で殺戮行為に及んでいるのではないのだとすると。
 それはそれで、とても悲しいことだ。
 しかも、それが神によって強制されていることだとしたら?
「神なんて、必要ない」
 葵は口に出して、呟いた。
 そんな身勝手な神、こちらから願い下げだ。
 ……神は、存在すると言ったセツ。
 神に会おうとした、あるいはすでに会った、サナ。
 次元の異なる世界の話だけれども、葵にとっては、そんなものは不条理なものでしかない。
 葵は一つため息をつくと、立ち上がった。
 ベランダから、すぐ向こうの道路を眺めつつ、セツと出会ったときのことを思い出す。
 二度目に会ったとき。突然話し掛けられた。
「葵!!」
 そう、こんなふうに突然……
 ……と、葵は我に返って後ろを振り返った。その声は紛れも無い、セツの声だ。
 セツは部屋の中にいて、ガラス窓を開けると葵に右手を差し出した。左手には、何故か自分の靴を持っている。
「葵、サナが」
「え? 見つかったの?」
 セツに、半ば強引に手を取られる。
 いきなり登場した彼は、戸惑っている暇さえ与えてくれない。
「とにかく、すぐ飛ぶから。目、閉じて!」
 慌てて目を閉じた。
 その次の瞬間には、もう別の景色が広がっていることを確信して。



「葵、もういいよ」
 言われて、葵は目を開いた。
 隣でセツは、左手の靴を地面に落として、それを履いていた。
 目の前には、大きな石の門。門には「公為下天」と書かれている。
 石を敷き詰めた広い真っ直ぐな道がずっと続いて、石の階段に行き着く。そこから左右に別れて階段があり、一つになったかと思うと、また別れている。
 その階段の先には、中国様式のような大きな建物が、小さく見えた。
 青緑の屋根に、オレンジ色の縁取り。
 人が、まばらに歩いている。
 観光客のように見える人たちもいるし、現地の人のようにも見える。
 大道の左右にはオブジェのような石塔も立ち、向こうの方をよく見れば、漢字が書かれた旗も垂れている。
「……え? ここどこ?」
「分からない。……とにかく、サナが表面化したんだ」
「え!?」
 セツはそう言って、建物の方に向けて歩き出した。
 そのセツの後をついていきながら、葵は自分の足がベランダ用のサンダルを履いていることに気づき、苦笑した。
 まあ、今はそんなこと気にしている場合ではないだろう。
「一瞬のことだったけど、飛ぶ目標にするには充分だ。……むしろ今も、サナの気配を大きく感じる」
 セツの口調から、その緊張感が感じ取れた。
 葵は思わず息を呑み、辺りを見回す。
 ここは、一体どこなのだろう。分からない場所というのは、とにかく不安だ。
 けれど、予想は出来る。
 ここは恐らく、台湾だ。…何故そう思うのかというと、気温が日本と比べてかなり高いから。
 まるでもう、初夏のような熱さだった。
「セツ、サナが表面化したっていうのは、どういうことなの?」
 少し歩いただけでも、やや汗ばんでいく自分の額を鬱陶しげに拭いながら、葵はセツに尋ねた。
「……指輪だ」
「え?」
 その言葉に、葵はちらりとセツの指を見た。
 薄桃色の石で出来た指輪。……水晶の、ローズクォーツに似ている。
「俺のしている指輪の石の、姉妹石で出来た指輪をサナも持っているはずなんだ。……ただ、やっぱりサナも俺と同じように、転生した直後から持っているものじゃない。探して、手に入れる必要があるんだ。……玲菜は恐らく、その指輪を探しにここへ。そして、手に入れた。その瞬間、一瞬だけ、サナが表面化したんだろうな」
「その、サナの指輪にも……セツのと同じように、力が封じてられているの?」
「多分。気配が強くなったのも、そのせいだ。サナが完全に覚醒する時が近づいている」
 その言葉の意味を、葵は理解した。
 覚醒の後には、次の輪廻に移るまでの時間はわずかしか残されない。そしてサナの転生は、……サナの死は、地球上に大災害を呼ぶのだ。
「どうしよう。すぐにも、何か起きちゃったら……」
 葵は自分の想像に恐ろしくなって、ふと足を止めてしまった。
 セツはそんな葵の手を取って、強く握り締めてくれる。
「俺が、止めるから」
 そんな言い方をするので、葵は尚更、大きな不安に襲われてしまった。
 自分を犠牲にしてでも、止めてみせる、と。
 セツはそう言ったのだ。
「そんなこと、言わないで……」
 葵も、セツの手を強く握り返す。
「その時は、一緒だから」
 自然と、その言葉が口から出ていた。二人は微笑み合い、足を踏み出した。



 正面に見えた階段を、半分くらい上っただろうか。
 目の前には壁。その左右に階段がついている。
 見上げれば、壁の上の方正面に、誰かの銅像が立っている。建物はもう目の前。そしてその頃には、ここがどこだか分かっていた。
 故宮博物院。
 名前だけは聞いたことがある。台湾にある、大きな博物館だった。
「建物の中に、いるのかな……」
 葵は着ていたカーディガンを脱ぐと、腰に巻きつけてセツに訊いた。
 セツは難しい顔をしたまま、沈黙している。
 ついには、階段を昇る足も止まってしまっていた。
「……セツ?」
「こっちに、来る」
「え……!?」
 セツが、言ったとおりだった。
 途中で左右に分かれる石階段。
 その右側から、玲菜の降りてくる姿が見えた。
 そしてその後ろには、天木賢治の姿もある。
「……へえ、こんなとこまで、追って来るんだ」
 玲菜も、こちらに気がついたようだった。階段の途中で足を止め、身を乗り出してこちらを見下ろしている。
「セツ君、と言ったかな。正体は良く分からないけども、君も不思議な力を持っているようだね。……あの日は、突然消えたので驚いたよ」
 足を止めた玲菜とは対照的に、天木は階段をゆっくりと降りて、こちらに近づいて来た。
 まさか、こんなところで銃を出すことはしないだろうけども。
 葵は警戒して、一歩、後ろに下がった。葵の手を握ってくれているセツの手だけを、強く意識する。
「何を企んでいるんだ?」
 セツが、はっきりとした口調でどちらにというわけでもなく、尋ねた。
「企んでいることなどないよ。……ただ、彼女の力は素晴らしい。これを利用しない手はないだろう。この力を持ってすれば、世界を操ることさえ夢ではない。……まあ、そんなことは考えもしないがね」
 天木は不敵に笑んで、セツの前に立った。
 周りに人は少なからず存在していたが、彼らは少しこちらに視線を投げかけてくるだけだ。
 自分たちの間にある緊張感に、気がつくはずも無い。
「むしろ我々は、不幸な人たちを救いたいと考えているんだよ。日本人である我々は平和に生きているが、世界に目を向ければ多くの人が苦しんでいる。彼らに救済をもたらすことが、彼女には出来る」
「……簡単に人を殺そうとする奴が、何言ってやがる。そんなのは建前だろう。欲に目が眩んでいるのが見え見えだ。救世主となって、人に崇められたいか」
 セツは彼を睨め付けながら、普段より幾分低い声で言い捨てた。
「否定はしない。結果としてそうなるだろうからね」
 天木は未だ、口の端の笑みを消そうとしなかった。
 気味が悪い。同じ人間なのに、何を考えているのか分からない。善人ぶっている分、余計に性質が悪い。
「サナは、人を救済しない」
 セツは、言う。
「サナは今までも、多くの命を奪ってきた。サナがもたらすのは救済じゃない、破壊だ。それでも、彼女を手中に収めておきたいか?」
「……そんなこと、誰が信じるというのかね? ……玲菜は、そんなことはしない。そうだろう? 玲菜」
 今まで沈黙を保っていた頭上の玲菜に、天木が問いかける。
 玲菜は階段に身を乗り出したまま、無表情に自分の指に嵌めた指輪を撫でていた。
「玲菜?」
「さあ、どうだろうね? ……あんたには、分からないんじゃないかな?」
 ぞんざいに、玲菜が答えた。
「私に向かってそういう口の利き方をするなと、言ったはずだが?」
 先ほどとはうって変わって、怒気を含んだ声色で天木は言った。
 階上の玲菜を睨み付けているようだが、あの位置からは逆光となって玲菜の表情までは分からないだろう。
 玲菜は薄く、笑っていた。
「……悪いけど、あんたを父親とは思ってないから。実際、あんたの血は通ってないんだし? 今まではお母さんのこともあったから大人しくしてたけど、もう、それも終わりだから」
 玲菜はきっぱりと言い放った。
 戸惑う天木を侮蔑するかのように見下ろして、すっと、手を向ける。
 セツの指輪と同じ、薄桃色の指輪が、光に反射した。



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