15.



 一瞬、何が起こったのか良く分からなかった。
 突然、目の前に立っていた天木の身体が、横から何かに弾かれたかのように飛び上がったのだ。
 そのまま彼の身体は大きく舞い上がり、飛ばされた先に植えられていた椰子の木に激しくぶつかると、その根元に落下する。
 椰子の根元は、葵たちが立っている場所から数メートルは下にある。
 バキ、バキと木の枝が折れる音が下の方で聞こえた。
「お前、何を!」
 セツは青ざめて、玲菜を見上げる。
 葵は慌てて、天木が落ちた場所を見下ろした。幸い下には低木が植えられていて、それが上手いこと緩衝材となったようだ。
 彼の手が少しだけ動くのが確認出来た。
 ……けれど、無傷ではないだろう。あれだけの衝撃を受けたのだから。
 視線を元に戻せば、多くの人が何事かとこちらを気にしている。ただし、警戒しているのか駆け寄ってくる人間は誰もいない。
 ただ、天木が落ちた方には幾人か人が集まっているようだ。
「うざいんだよね、あいつ。私を上手いこと利用して。……でももう、それも終わりかな。指輪も手に入れたし、あとは壊すだけ」
 玲菜はそう言って、再び手を一振りした。
「……葵!」
 セツが突然、葵の腕を掴んで引き寄せた。
 葵は不意をつかれてセツの身体に倒れかかる。
 その直後、背後に大きな破壊音が響き渡り、葵は驚愕して振り返った。砂埃の合間、葵が先ほどまで立っていた場所が、大きく窪んでいる。
 石の塊が地面を弾み、小さな小石が頭上から降って来た。
「嘘でしょ?」
 葵は我が目を疑う。こんなことが、玲菜に出来るなんて。
 今度こそ、多くの人間が悲鳴を上げて、それがさらに大きな混乱を招いた。
 逃げ惑う人々。逆にこちらに駆けつけてくる人々。
「セツ、どうするの!?」
「仕方ない。葵は、逃げろ!」
 ぐいと、突き放された。
 その反動でたたらを踏みながらも、言われた言葉が信じられなくて、振り返った。
 だが、セツはもうこちらを見ていない。
 セツは何かを口で唱えながら、玲菜に向かって大きく跳躍した。
「セツ!」
 再び、腕を振りかぶる玲菜の姿。
 そこに正面から飛び込んでいく、しなやかなセツの肢体。
 逆光に目を細めながらも、葵はその様子をしっかりと見つめていた。二人が接触する寸前に、大きな闇が突如として現れ、彼らを包みこみ消失した。



「……嘘」
 葵は呆然と立ち尽くした。
 二人の姿はもうどこにもない。ゆっくりと、窪んだ場所に目を向けて、これが現実なのだということを確かめた。
 人が、駆け寄ってくる。
 そのうちの一人の男が葵の肩を掴んで何かを叫ぶので、嫌でも我に返った。
 激しく攻め立てるような形相と、言葉が分からないのも手伝って、男は葵を追い詰める。
 恐怖を感じた葵は、その手から身をよじって逃げ出すと、一目散に駆け出した。
 今まで玲菜が立っていた階段を駆け上る。当然ながら、そこには玲菜の姿もセツの姿もない。
「……どうして!? どこに行っちゃったの? ……セツ!」
 叫ぶ声も、空しく響くだけだ。
 言葉も分からない異国の地で、これからどうしろと言うのだ。お金もないし、もちろんパスポートも無い。
 思わず、泣きそうになる。不安で気が狂いそうになった。
 そんな気持ちのまま、再び駆け出そうとして石畳のくぼみにサンダルを引っ掛けた。無様にも派出に転ぶ。両手両膝を擦りむいて、涙が滲んだ。
 転んだ体勢のまま、四つんばいでぐっと歯を食いしばる。
「一緒だって、言ったのに……」
 呟いたら、それと同時にパタと、涙が地面に落ちて染み込んでいった。
 濃灰のシミがいくつも、石に染み込んでいく。
 それを焦点の合わない目で眺めていたら、そのシミが黒く拡がって、葵の眼前を埋め尽くした。
「え?」
 それと同時に眩暈も感じる。
 瞬間移動の際に感じるような気持ちの悪さ。葵はぎゅっと、目を硬く閉じた。



 目を開けば、あたりは一面、闇だった。
 視線を上げれば、闇の中に玲菜の姿が、そこだけ光をあてたかのようにはっきりと見える。玲菜の視線は、葵よりややずれた先を見ていた。
 葵はその視線の先を追う。
 そしてそこには、片膝をついて表情を歪めたセツの姿が、やはりはっきりと目に映った。
「……セツ!」
 呼びかけるが、セツは苦渋の表情のまま、こちらを見ようともしない。
 葵は不安になって、立ち上がるとセツのほうへ足を踏み出した。
「葵、来るな」
 明瞭な声で命じられて、葵はびくりと身体を硬直させる。
 セツも、ゆっくりと立ち上がった。
「……余計な、真似を」
「余計? そうかな。私は親切のつもりだったけど。あのまま彼女をあそこに残すっていうのも、酷くない? ねえ、葵さん、だっけ?」
「……どういう、こと?」
 何がどうなっているのか分からない。
 葵は不安げに、セツに視線を投げた。だが、セツは相変わらず不機嫌そうな表情で玲菜を見つめている。
「セツはねえ、無理やり異空間に場を移したの。……ここ、別次元。あんたを残してね? まあ、危険だから、と思ったんじゃないの?」
 玲菜は笑って、続ける。
「でもさ、それで大分、力を使い果たしたみたいで。そもそもこっちに来るのにも力浪費したんでしょ? それで私に勝てるわけないじゃん。でもまあ、ここで簡単に殺しちゃうのも何だから、取り残されて可愛そうなあんたも、私が引き込んであげたの。……以上、説明終わり」
 玲菜はふざけたようにそう言って、手を前に差し出した。
 瞬時に何かを掴み取る。
 それは、大きな錫だった。二メートル程の長さがある柄の先に、三日月を象ったの装飾。金輪がいくつも垂れ下がった、綺麗な錫杖だ。シャン、と金輪がゆれて音が鳴った。
「私の、サナの、邪魔をするから」
 玲菜が、低い声でそう言った。
 サナという名を、玲菜が口にする。それは、何を意味しているのだろう。
 それに。
 ……サナは、覚醒したのではなかったか。それなのに、玲菜は玲菜のまま、サナの力を操っている。
「どういうこと……? あなたは、サナのこと知ってるの?」
 葵は呆然と、玲菜に尋ねた。
「知ってるも何も。いつも、小さい頃から、サナは私に話し掛けてくる」
「……何、だって?」
 驚愕の声を上げたのはセツだった。



「サナは、私にいつも言うんだ。人間がこれ以上増えると、世界が壊れてしまうって。神の世界が、いつか崩壊してしまうって」
 玲菜は錫杖の柄を指でなぞると、横に構えた。
「まあ、私にはこんな世界どうでもいいんだけど」
 玲菜は冷笑する。
 高校生なのに、何て笑い方をするんだろう。
「……私、人間が嫌いなの。だから、片っ端から壊してやるつもり。少しは、地球も綺麗になるかも知れないでしょ?」
 錫杖が淡く光を帯びた。
 玲菜は軽く助走をつけて跳躍すると、セツのすぐ前に降り立った。
「まずは、セツ、あんたから死んでもらうから」
 玲菜は、軽々と錫杖をなぎ払った。セツは瞬時に大きく後方へ跳躍すると、着地してすぐに今度は横に飛ぶ。刹那、その場を眩い軌跡が通過する。
 葵は二人の攻防の速度に、目で追うことさえ苦労した。
 どうしていいものか分からない。
 二人の間に飛び出して、セツを助けた方がいいのだろうか。
 けれど、それがセツの足手まといになってしまったら、逆効果だ。
 葵はハラハラしつつも、何も出来ずに立ち尽くす自分に、苛立ちを感じていた。
 そして次の瞬間、目の前で起こった光景に、我を忘れる。
 玲菜の容赦ない攻撃のうちの、一本の光線を避けきれずに、それはセツの胸を貫通した。
「……セツ!」
 葵は無我夢中でセツの傍に駆け寄った。セツの元にしゃがみこみ、その身体を支える。セツは片手でその胸を抑え、上半身を起こそうともう片方の腕に力を入れた。
「クソ……、葵、どけ」
「無理だよ。……何でさっきからそんなこと、言うわけ?」
 葵はセツの態度に苛立ちながらも、立ち上がった。向こうから玲菜が近寄ってくるのが分かる。
 葵はセツの前に立ちはだかって、玲菜を正面から見据えた。
 玲菜はこちらに少しずつ歩み寄って、葵のすぐ手前で足を止める。
「その度胸だけは、誉めてあげるよ」
 玲菜が、一笑した。それで、葵の中の何かが弾ける。
「あんたは……何で、こんなことが出来んの?」
 葵は玲菜の綺麗な顔立ちを睨み付けながら、叫びたい衝動を抑えた声で、そう言った。
「はあ?」
「……ふざけんなっつってんの! いい加減にしてよね! ……人間が嫌い? 馬鹿じゃないの? そんなことで人間を軽々しく殺すな!」
 葵は玲菜の襟元に掴みかかって、ブチ切れ状態で叫んだ。
「……離せよ!」
 しかし、玲菜も葵に負けていない。
 玲菜は自分の襟元を掴んでいる葵の手首を握り締めると、力任せに投げ飛ばした。
 女子高校生とは思えない力で、葵は下に叩きつけられる。
 その衝撃に、葵は声を上げることさえ出来なかった。
「葵!」
「あんたに私の、……サナの何が分かるっての? 何の力もないくせに、私に刃向かうな」
 玲菜は言って、錫杖を振りかぶる。
 葵に振り下ろそうとしたところを、セツの腕がそれを阻んだ。
「……まだ、邪魔するの?」
「悪いけど、俺はお前には用はない。……サナ、出て来いよ」
「……」
 ゆっくりと、セツの手が玲菜の腕を捕らえた。
「サナ、いつまで逃げれば気がすむ? いつまで追えば応えてくれるんだよ! いい加減、俺のことを見てくれよ!」
 玲菜は黙ったまま、何の動きも見せなかった。
 ただ、少しだけ何かの衝撃を受けたかのように、目を見開いている。
「サナ、応えろ」
 その言葉で、玲菜の見開かれた瞳が、ゆっくりと閉じられた。
 そして、再び開かれた、その黄金の瞳。
『セツリョ……』
 玲菜の口からは、玲菜のものではない、背筋が凍るような不思議な声が発せられた。
「サ、ナ……?」
 セツさえも声を強張らせて、サナの名を呼んだ。
『……私に、近づいては駄目。……セツリョ、もう私を追うのは止めなさい。貴方を受け入れることは出来ないの。……私は、もう、全てを』
 そこで、突如、言葉が途切れた。
 それと同時に、サナの持つ錫杖が鋭い閃光を放射し、それは幾度もセツの身体を突き破った。
「……セツーっ!」
 葵は悲鳴にも似た声で、セツの名を叫んだ。
 セツの身体は弧を描いて、下に落ちる。その衝撃で、一度大きく身体が弾んだ。
 仰向けに、倒れこんだ身体はぴくりとも動かない。
 葵は、息を呑んでその姿を凝視していた。



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