16.
「……何で……? 何でこんなことをするの、サナ! セツはずっと、貴方だけを思って追ってきたって言うのに!」
葵は先ほど倒れたときから、変に痛む胸の下辺りを押さえながら、サナに叫んだ。
玲菜の姿を借りた、サナの存在。
玲菜は無表情に、そこに立ち尽くす。
葵は、痛みを堪えながらゆっくりと立ち上がった。動くと、息も出来ないほど胸が痛む。それでも足を踏み出し、セツの元に歩み寄った。
セツの傍らに膝をつき、恐る恐る胸元に耳を押し当てる。そこに、鼓動はもはや、感じられない。
葵は締め付けられるような思いで、投げ出された手を、両手で握り締めた。
だが、その手が握り返されることはない。
「……サナは、もう、消えてしまうんだって」
ぽつりと、玲菜が呟いた。
葵ははっとして、彼女を振り向く。玲菜の瞳が、こげ茶に戻っていた。
「消えるって、どういうこと……?」
「さあ、知らない。……悪いけど、もう行くわ。私もやらなくちゃいけないこと、あるし」
玲菜は面倒くさそうにそう言うと、錫杖を振り上げた。宙に一振りすると、闇に一筋の裂け目が出来る。
その裂け目からは、今まで葵たちがいた故宮博物院の景色が見えた。
「……ま、待って!」
葵がそう言うのも空しく、玲菜の身体はするりと裂け目を抜け、消えた。
玲菜が消えたと同時に、その裂け目も消失してしまう。
闇の中、倒れ動かないセツの手を握り締めながら、葵は絶望感に暮れた。
もう、どうなったって、いい。
セツが死んでしまったのなら、……セツがいないのなら、葵の身には何も起こらなかったも同じだ。
葵は悲壮な面持ちでセツの顔を見下ろすと、止め処なく涙を流した。
そして、両手で握っていたセツの手をそっと離す。
片手で、頬にかかった彼の髪を、正しい向きに流した。
「セツ……」
囁くような声で、呼びかけてみる。応えがないのは、分かっていながらも。
葵は、セツの額に口付けを落とした。額から、まぶた、頬にも、触れるか触れないかという感じのキスを繰り返す。
そして、彼の青ざめた唇に。自分の唇を、そっと、重ねた。
その瞬間、頭の中に霞みがかかったかのように、葵の意識が揺らいだ。
そんな不思議な感覚に、慌てて顔を上げようとするが、それさえも押さえつけられたかのように出来ずにいる。
まだ、ほんのりと暖かい、セツの唇だけを感じていた。
ますます、葵の意識はぼんやりとしてきた。
「……?」
葵はそれを疑問に思いながらも、思考能力は更に奪われて、今度は体中の力さえも抜けていくようだった。
セツに覆い被さる自分を支えていた腕の力も、抜けていく。
葵は最後だけ、自分の身体がセツに重ならないように身体をずらすと、そこで完全に意識を手放した。
夢を、見た。
サナが真っ白くて、ふわふわした空間に一人、立っている。
サナは髪も服も真っ白なので、そこはまるで天国で、彼女は天使なんだと、そんなふうに思った。
黄金の瞳がこちらを見据えて、手招きする。
自分はゆっくりと、傍に近寄った。
『……ここまで、来てしまったのね』
サナは、優しそうな声で、そんなことを言った。少し悲しそうに、でも、微笑みを浮かべながら。
自分は何のことだか分からなくて、そう言ったら、やはりそんな表情で頷く。
『ここはね、白の世界。……いいえ、無の世界。何もなくて、何でもある世界。でもやがてここが膨張し、全てを飲み込んでいってしまうかもしれない。……世界はあんなに広くて美しいのに、それさえも、無くなってしまうのね……』
どうしてそんなことが起こるのか、と聞いたら、『人間が生まれたから』とサナは言った。
『人間は、神にとって矛盾の象徴。……いつか、破綻を来たす者。神は私に彼らの抑制を命じたけれども、やはり、私には出来ない』
サナは苦しそうな表情で、そう言った。
黄金の瞳が揺らめいて、一筋の涙を流す。それを見たら、強く、心が痛んだ。
サナは、こんなことを望んではいないのだ。けれども、このままではいつか、世界が破綻することも知っている。
どうして人間は、矛盾の象徴になってしまったのだろう。どうして破綻を来たす者なのか。
確かに人間は、地球に生まれながらも、他の生物とは異なって大きく繁栄してきた。そしてそこには、いろんな欲望が渦巻いている。
巨大な社会。理想だけを掲げた、社会主義。多くの搾取と、一握りの資本家の利益を認める資本主義。
国を支える政治は汚れきっている。法で人殺しを禁じながらも、戦争は正当化される。
巨大国は他国さえも搾取し、それは南北問題として遺恨を産む。
戦争、自然破壊、貧富の差。
欲望から派生した、恐ろしいもの。それはたくさんある。
そして宗教でさえも、人を殺すことを禁じながら、多くの人を殺してきた。
それを最大の矛盾と言って、間違いはないだろう。
人間は、大きな繁栄の影で、たくさんの犠牲を生み出していることを、本当の意味では分かっていない。
人間が過信する技術で、取り戻せるものなのだと、強く信じている。
けれど、人間は神ではない。
そう、神ではないのだ。
科学技術が進歩し、莫大なエネルギーを得て、生活が豊かになろうとも。
生命科学が発達し、生命を操ることが出来ようとも。
人間は、神にはなり得ない。そして、神の行為にも似たその行動は、いつか、自らの破滅をもたらすのだろう。
けれど。
けれど、人間だって神が生んだ生命の一つ。
生存を望み、繁殖し、次代を残すことを使命とする、生命の一つではないか。
なのに、神がそれを否定するなんて。
『確かに、人間は、神から生まれたもの。……けれど、神にとって貴方たちは、……でしか、ない』
神にとって、私たちは?
耳に届いたその言葉を、理解しきれなかった。
そして、それ自体を考えさせまいとするかのように、突然、ゴウッと大きく風の音が響いた。
ゴウゴウと鳴り止まぬ風の音。そこに、不快な雑音が混じる。
それは、人の悲鳴にも似ていた。
『……さあ、もう、還りなさい』
サナの腕が、こちらに伸びた。
自分の肩を掴み、強い力で、押し出される。
黄金の瞳から、最後まで、視線を外すことが出来なかった。
白い、無の世界。
一面を覆う、白の色。
目を開いてぼんやりしていたら、その色が自分の部屋の、天井の色なのだと気がついた。
「……あ」
どうなっているのだろう。
全て、夢だったというのだろうか。でも、どこから、どこまでが?
セツに会ったことさえ、夢だったのか。
空を飛んだり、傷を治したり、瞬間移動さえ成し遂げてしまった、不思議な存在。
確かに、夢のような話だ。非常識的過ぎる。
そんなことが出来る人間が、いてたまるものか。
葵はそんなことを考えて、自嘲の笑みを浮かべた。けれども、涙が溢れて止まらない。
ついには、嗚咽をあげて泣き始めた。
酷く、悲しかった。
夢の中で、自分は、セツを愛していた。
初めて生まれた感情。彼が傷つき、倒れた時は、自分が代わりに死んでもいいとさえ、思えた。
彼を失うことは、自分の存在さえも意味ないような、そんな感情さえ覚えたのに。
それも全て、夢だったのか。
葵は大きな虚無感に包まれた。それでも、外の世界は何も変わりない。
葵は、起き上がろうとして、身に力を入れた。
今、何日で、何時なのだろう。
あまりにも壮大な夢過ぎて、そんなことさえ、分からなかった。
「?」
だが、葵の意思に反して、自分の身体はぴくりとも動かなかった。
全身から力が抜けてしまったかのようだ。それとも、これが金縛りというやつなのだろうか。
まだ、夢を見ているのかも知れない。
葵は観念して、起き上がろうとするのを止めた。
意識もまだ、はっきりしないことだし。目も完全には覚めてはいないのだろう。
そして葵は、再び、眠りについた。