17.



 幼い頃は、いつまでも、こんな幸せが続いていくのだと思っていた。
 優しい父親に、穏やかな母親。歳の離れた、明るい姉。
 三人に囲まれて、命一杯、甘やかされて育ってきた自分。
 それが当然のものだとは思わなかったが、いつまでも甘受していきたいと強く願っていた。
 ……それが、脆く崩れるまでは。
 父親が、交通事故で死んだ。
 高速道路のカーブした壁面に、ブレーキを踏むことなく突っ込んで車は大破、中の人間も即死。
 まるで自殺のようだった。
 一応事故として処理されたが、自分は今でも、父親は自殺したんだと思う。
 ただし、遺書も何も残されていなかったが。
 ……原因はともあれ、父親が死んだのは事実だ。
 一家の家計支持者を無くした後、母親一人が子供二人を育てていくのは、大変なことだっただろう。
 というのは、建前。
 本当は意外にもたくさん入った保険金で、贅沢しなければ、お金は充分にあった。
 そう、普通に暮らしてさえいれば。
 けれども、何かが狂い始めた家族の崩壊は、目に見えて起こっていた。
 父親が死んでから一年後。
 姉が中学三年の時に、行方不明になった。
 ちょっとした警察沙汰になったが、その時分、姉は援助交際をしていたらしく何らかのトラブルに会ったのだろう。
 今でも姉は帰って来ない。
 今のところ死体も見つかっていないし、案外、どこかで幸せに暮らしているのかも知れない。
 ともかく、まだ小学校に上がりたての自分には、理解出来ない出来事だった。
 母親に尋ねても、姉は遠くに行ったのだと、言うだけ。
 幼い自分はそれでも、そんな状況に順応してしまった。
 母親との二人暮し。……ただし、プラス一人の男の存在。
 その頃だろうか。
 自分の中の、サナに気がついたのは。
 時折頭の中をよぎる、残像のような青い地球の姿。そして、その映像と共に頭に響く、か細く美しい声。
 その声は、誰へともなく、助けを求めていた。



 何か、美味しそうな匂いがして、葵は目を覚ました。
 寝起きの霞みがかかったかのような頭を持ち上げ、壁の時計を見る。
 時計は、三時ちょっと前を示していた。部屋の中が明るいから、昼の三時なのだろう。
 それにしても、この美味しそうな匂いは……
「あ、目、覚めた?」
 セツの声がした。気だるい体をゆっくり起こすと、テーブルの上のピザを前に、セツが座っている。ピザはすでに半分ほどなくなっていた。
「……ピザ、取ったの?」
 葵はかすれた声でそう聞いた。
 一つ、咳払いをする。
「ああ、勝手に食ってます。……ごめんな? あと、スパゲティとドリアも頼みました」
「……はは、何で敬語なの?」
 葵は軽く笑うと、こちらに身を寄せてくるセツの顔をまじまじと見つめた。
「一度起きた時、夢かと思った。……サナのことも、セツに会ったことも、全部」
 そんなふうに言えば、セツはかすかに笑みを浮かべて、葵の額に手をあてる。
「夢の方が良かった?」
「そんなわけ、ないでしょ? ……夢かと思ったら、悲しくなった」
 それを聞いて、セツは何も応えずに額に軽くキスをした。葵は赤面してセツから視線をそらす。
「そっか。熱はもう下がったな。身体の調子はどう?」
「え?……熱? 私、熱なんて出してた? 一応大丈夫だと思うけど」
 そう言って、葵は首をかしげる。
 ……そして。
 しばしの間を置いて、葵はハッと何かを思い出したかのように、セツの両腕にしがみつく。セツは驚いて、「うあ」と声を上げた。
「……セ、セツ、生きてるの!?」
 そう叫びながら、セツの身体と顔を交互に見つめる葵に、セツは思わず笑い声をもらした。
「見ての通り、生きてるよ。……ごめんな? 葵がダウンしたの、俺のせいだから」
「え、どういうこと?」
「俺が倒れた時、葵が傍に来てくれただろ? その時に、葵の力分けてもらったんだ。力が抜けていくような感覚、無かった?」
 そう言われて、思い出す。
 セツに口付けてからしばしして、急に頭がぼうっとして、意識を失ってしまったのだ。
「そんなこと、出来るんだ……」
「ああ。緊急事態だったから。葵にはけっこう負担かかるんだよな。ごめんなさい」
「いや、謝られても。っていうか、セツがそうしてくれなかったら、私だって死んでたんじゃない? 出方分からなかったし」
「……だよな。ああ、もう。何だか大変だよな……」
 セツはそんなふうにつぶやくと、少し躊躇いながらも、葵を引き寄せ抱きしめた。
「セ、セツ。……どうしたの?」
 いきなりのことで戸惑いながらも、葵もセツの背中に腕を回した。
 心臓の鼓動がしっかりと聞こえて、正直ほっとする。
「……俺もう、行かなきゃ」
「え?」
「玲菜が、そろそろ動き出す。……あれからもう、二日経ってるんだ。あいつがいつ動き出しても、おかしくないから」
 セツは、抑揚のない声で、そう言った。
 玲菜が動き出す。
 それは、「破壊」を意味する。人間を、殺すための……
 葵は嫌な焦燥感を覚えて、セツの顔を見ようと顔を上げた。
 強く抱きしめられているから、セツの表情は見えない。それが一層不安にさせる。
「セツ、……どう、やって玲菜を止めるの? そもそも、サナの力に抵抗出来るの?」
「……やってみるしか」
「だって、この間だってセツぼろぼろだったし! 私、セツがいなくなったら、耐えられないよ……」
 あんな思いはもう、二度としたくない。
 けれど。
 今セツが彼女を止めなければ、大惨事が起こるだろうことも分かっていて、葵の心は複雑に絡み合った。
 ただ、焦燥感だけが葵を追い詰める。
「多分……サナは玲菜の身体を共有していて、今は玲菜の意志の方が身体を支配している。だから、今玲菜を殺せば、サナの力による破壊は起こらないかも知れない」
「……玲菜を、殺す?」
「ああ、それなら俺の力でも出来る。……ただ、サナが完全に表面化したら、俺の手には負えないかもしれない」
 葵には、もう思考する力さえ残っていなかった。
 玲菜を、殺すこと。
 多くの人を殺すであろう彼女を殺すこと、それは正当化されることかも知れない。
 けれど、まだ彼女は高校生で、将来の可能性もある。
 彼女を殺すことが、全てを解決するのだろうか。彼女の犠牲によって、サナの意思は阻止されるのか。
「……でも、でも何で玲菜が殺されなきゃならないの? 全部サナが悪いのに」
「でもその方法しか、俺には考えられない」
「……どうにかして、サナを説得できないの? 破壊を止めさせることは出来ないの?」
 セツは、押し黙ったまま、答えることは無かった。
 しばしして、「ごめん」と呟く。
「俺にも、分からない。俺がもっとサナのこと、分かっていればな。……けれど、俺は今まで、一度も彼女のことを理解することは出来なかった。ずっと……、何百年、何千年と追ってきたところで、サナのことは何にも、分からないままだ」
「……セツ」
「俺ももう、彼女の呪縛から離れたい。……裕樹として、人間として、葵と生きていきたいよ。……でも、ごめん。俺は、葵とは一緒に生きられない」
 言葉を失った。
 セツが自分のもとを離れていく日が来ることに関して、まったく失念していた。
 ……そうだ、自分はただの協力者。全てが終われば、セツは……。
 けれど、それが単なる別れではないことを、葵は更に知らされることになる。
 セツは、少し逡巡した後、重い口を開いた。
「俺が人間としての輪廻を始める前、そういう術をかけたときに、サナの輪廻に合わせるものだったから。……サナの存在が死ねば、俺も死ぬんだ」
 サナが死ねば、セツも死ぬ?
「……う、そ」
「俺はサナの消滅と共に、やはり同じように消滅する。……それが、呪術をかけた時に結ばれた契約だし、逃れられない。……ごめん、葵。今まで、どうしても言えなかった」
 いつの間にか溢れ出した涙は、もう止まる気がしなかった。
 全て、最初から決まっていたこと。
 セツに出会ってサナのことを知り、彼女を追って最後には、すべてが無くなる。
 サナの存在も、セツの存在も。
 ……まるで夢のように。
「そんなの、嫌……」
 嗚咽が漏れた。
 葵は、セツに強くしがみつき、声を上げて泣いた。
 一体何のために協力してきたのだろう。
 セツも傷つき、それでもサナの行動を止める確かなすべが見つからない。
 そしてサナを止めたとしても、サナを止められなかったとしても。
 ……セツは死んでしまうのだ。
 今までセツと行動したこと、セツに愛情を抱いたこと。
 それが全てなくなってしまう。
 こんなにも人を好きになって、大切に思ったことはなかった。セツの存在に、自分の存在さえ依存してしまうほど。
 彼がいなくなった後、自分はどうすればいいのだろう。
 ……そんなこと、考えたくなかった。
「やだ、……セツ、死んじゃやだよ」
「……葵、ごめん」
「何で……セツが、いなくなったら、私、どうすればいいのか分からない。セツは、ずるいよ……」
 嗚咽交じりに、訴えた。
「お願い、もう、人間がどうなってもいい。……セツが一分一秒でも長く生きていてくれたら、それでいいから。……行かないで」
「……葵、でも」
「お願い、私を置いていかないでよ……」
 搾り出したかのような、葵のその声が、セツの心を締め付けた。
 セツの瞳からも、涙が流れ落ちる。
「俺も、葵から離れたくないよ」
 セツのその言葉が更に、葵の心に悲しみと絶望感をもたらした。
 セツの方が、自分よりも何倍も辛いのだ。そしてそれを分かっていても、自分のことを好きだと言ってくれた。
 短い間だけれども、それでも。
 葵は全身を満たしている悲しみを、心の奥に追いやって、冷静にセツの顔を見上げた。
 憂いにしかめられた眉と、一筋の涙の跡。
 二人はどちらからともなく、口付けあった。



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