18.
葵は、一人ベッドに上半身を起こしたまま、何を考えるでもなく呆然としていた。
自分の中指には、いつの間にか薄桃色の指輪が嵌められている。
……セツが、していた指輪。
なぜ、そしていつ、セツは自分にこの指輪を嵌めたのだろう。
セツはもう、いない。
自分の前には、再び現れないだろう。
葵はそういう覚悟を決めたし、セツもそういう覚悟で姿を消したのだ。
……一時だけ、何もかもを忘れて、愛し合った。
葵にとっては初体験だったが、痛むのは心だけで、身体は心地よい波に攫われた。
セツの気持ちを全て受け取ったと、自分では思っている。
……けれど。
このままで終わらせたくない。きっと死ぬまで後悔するだろう。
自分にも、何か出来るはずだ。だからこそ、セツに出会い惹かれあった。
葵はベッドから飛び跳ねるように抜け出すと、簡単にシャワーを浴びて、髪も充分に乾かぬまま部屋を飛び出した。
財布だけを握り締めて。
外に出れば、空はもう大分暗くなっていた。
自転車でバス停まで向かう。全力でペダルを漕いで、部屋から出て十分後には東京行きのバスに乗っていた。
どこへ行けばいいのかなんて、分からない。
ただ、じっとしてはいられなかった。
セツは、玲菜の元にいったはずだ。だから、とりあえず玲菜の自宅に向かってみる。
もちろん二人がそこにいる可能性は低いけれども、何かの糸口にはなるはずだ。
……それに、指輪もある。
玲菜も持っている姉妹石の指輪。お互いを引き寄せあうというのだから、きっと、出会えるはずだ。
それにしても、セツは今ごろ、どうしているのだろう。
まったく想像もつかない。そもそも、指輪がなくても大丈夫なのだろうか。
葵はバスが東京につくまでの間、焦る気持ちを押し付けるのに精一杯だった。
どうか、まだ、セツが生きていますように。
そう祈るばかりだ。
東京に着いて、葵は足早に改札口へ向かった。
Y市まで一時間はかかるだろうか。
セツの力があれば、一瞬で行ける距離も。……葵にはもはや、人間の速度で向かうしかない。交通網が整備されているとはいえ、人間にとってはかなりの距離だ。
葵が切符売り場の前で、目的の駅までの料金を確認していると、肩にポンと手を置かれた。
驚いて思わず声をあげながらも、反射的に相手を振り返る。
「……神崎、葵さんでしょ?」
振り返った先にいたのは、二十代半ばほどの若い男性だ。
適度な長さに切りそろえられた髪型と、男らしい精悍な面持ち。
着ている服はスーツで、清潔感が感じられる一見普通の会社員のようであった。
しかし、葵にとっては見知らぬ男であったし、そもそもなぜフルネームを知っているのだろう。
葵は警戒心を隠しもせず、不信そうな表情で彼を見上げた。
だが男は特に、悪びれた様子も無い。
「誰、ですか?」
「……ああ、覚えてないか。ちょっと前、君が天木邸に訪れた時に居合わせたんだけど。彼……セツといったか。彼から玲菜を奪い取って奥へ逃げたのが、俺」
「え? あの時?」
言われて、葵は思い出した。
あの時は私服だったし、他の男たちとまとめて認識していたから、顔は覚えていなかった。だが確かに、その光景は思い出せる。
セツが玲菜の手を掴んだときに、他の男たちがセツに掴みかかって、その間に玲菜を抱え去った。
それが、この目の前の男か。
「俺、天木亮介。一応あいつの息子で、まあ次男だけど。戸籍上玲菜の兄」
亮介は簡単に自己紹介をした。葵はその言葉に、驚いて目を見開く。
「……嘘。玲菜の、お兄さん?」
「一応ね。……さて、神崎さん? ここで会ったのは偶然だけど、色々聞きたいことが」
そう言いかけた亮介の言葉を遮るようにして、葵も口を開いた。
「私も! 私も聞きたいことが沢山あります! ていうか、お願い、助けてください!」
そもそも彼に助けを求めるのは間違いだったかもしれない。
しかし葵はそう、無意識に叫んでいた。
それから、葵は亮介の運転する車の助手席に腰掛けて、彼の話を聞いていた。
東京駅から二駅ほど先の駐車場に、亮介は車を置いていた。彼はY市から車で通勤し、都内でも割と安めの駐車場に車を置いたあと、更に電車を使って会社まで出向いているらしい。
それなら電車だけで通勤すればいいものを、と思うのだが、満員電車に長時間乗るのが嫌いらしい。
しかし車だと、今度は渋滞に巻き込まれないのだろうか。
まあ、都内の交通事情には詳しくないので、葵はあえて訊かなかった。
亮介は先ほどから、玲菜について話してくれていた。
「……玲菜とその母親が家に来たのが、俺が大学入った頃だったから、ええと今から八年前?」
「玲菜は……えっと、九歳ですか?」
「そう、小三だっけな」
車は赤信号で止まる。ハンドルを握る左手には、細い銀色の指輪が嵌められていた。
「それまで親父は玲菜の母親と不倫していたわけだけど。俺の母親と離婚して、玲菜たちを連れてきたんだ」
「……え、離婚して、ですか? 玲菜の母親と再婚するために、わざわざ?」
「そう。まあ俺の母親もたっぷり慰謝料請求してたけどな。それはだから、お互い様? ともかく、玲菜が来てから俺たちの環境は一変したよ」
そう言っている間に信号は青に変わって、亮介は車を発進させた。
その後も亮介の話は途切れることなく続いた。
玲菜の母親と天木は、付き合い始めてから三年後に再婚したらしい。
その時にはもう、天木は玲菜の不思議な予知能力に気がついており、むしろそのために離婚、再婚を決めたと言って良いだろう。
天木は四国では名の知れている旧家の生まれだが、一番の問題児で親類からは白い目で見られていたという。
酒、女、ギャンブル。言わば、典型的な駄目男。
それでも多少の教養はあったし、金銭感覚も酷くはなく、大きな借金を背負うこともなかった。
だが親類の中で疎まれていた天木は、彼らをいつか見返してやると口癖のように言っていたらしい。
そんな時、天木が通っていたパチンコ店で、その店員であった玲菜の母親と出会った。やがて天木は彼女の家に通うようになり、当然玲菜とも会った。子供好きでは無かったが、一応遊び相手をしてやっているうちに、玲菜の不思議な能力を知ったのだ。
「玲菜がうちに来てから数年して、すぐに彼女の噂が近所に広まった。最初は無償で失せもの探しとか、人探しとかを頼まれていたんだけど、すぐに金が絡むようになった。……何せ玲菜は、賭け事に関して百パーセントの予知能力を持っているほどだったから」
「競馬とか、ですか?」
「そう。あとナンバーズとかもね」
「……すぐに大金持ちじゃないですか」
葵は、呆気に取られてそう言った。そんなに簡単にお金が入って来たら、一切の価値観が変わってしまうことだろう。
「実際そうだね。……でも元々親父も金に困ってた訳じゃないし、金で得られるもので欲しいものはすぐに無くなってしまった。親類の鼻も明かせたし。あとは評判とか、名声? 著名になることか? で、インチキな宗教みたいな事を始めた。それが四国を始め関西で上手く行ったから、それで今度は関東の方に出てきたんだろうな」
「……亮介さんも、それに合わせてこっちに?」
「いや、俺は大学がそもそも東京だったし。務め先も変わってない。……一昨年親父たちがこっちに来たから、それで一緒に住むようにはなったけど」
そう言うと、亮介はちらりと葵のほうに視線を投げかけた。
「君は、まだ学生だよね?」
「そうです。……大学生ですけど」
「そうか。玲菜よりかは上なのか。……俺は玲菜のことが心配でね。大学に通ってる間、俺の目の届かないところにいたし。もう一つの人格の、何といったかな」
もう一つの人格、それはつまり……
「サナ、ですか?」
「そういう名前か。……そう、玲菜は頭の中で、もう一つの人格といつも話しているみたいだった。何かを予知するときはむしろ、その、サナの方が出ていたみたいだけど。……二重人格、という奴か? 俺はそういうの詳しくないんだけど。……君は一体、玲菜とどこで会ったんだ? そして、何でもう一つの人格のことを知っていた?」
こちらは充分に情報を提供した。
そう言うかのように、今度は亮介がこちらのことを尋ねてくる。葵は意を決して、全てを正直に話すことにした。
「……玲菜と出会ったのは、本当に、あの日が最初でした。……あの、これから話すこと、信じられないかも知れないけど、最後までちゃんと聞いてくれますか?」
「当然。……そもそも、玲菜の存在自体が常識じゃないんだから、大抵のことは信じられるよ」
亮介はそう言って、苦笑する。
笑うと、人懐こい顔になる。父親のような嫌な雰囲気は持っていない。葵にはそれが救いだった。
葵はそうして、セツに出会ったことから全てを話し始めた。
車は自動で開いた車庫の門から、静かに天木邸内に滑り込んだ。
車から降りて、二人は天木邸内を歩き始める。
亮介は、前回通った庭ではなく、裏手を通って一つの家屋に向かっていた。どうやら、母屋の方ではなく、離れの方に亮介の部屋があるらしい。
「……あの、ご家族で暮らしてらっしゃるんですか?」
亮介の指には結婚指輪が嵌められている。年齢的にも、子供がいてもおかしくない。
「ああ、今妻は海外へ留学中だから、俺一人で生活してる。子供もいないし。……こっちは血縁用の家でね。まあ普通の一戸建てなんだけど、今は俺しかいないから」
「……へえ」
あまり細かいところまで訊くのはどうかと思われたので、葵はそれきり黙ることにした。
亮介は玄関の鍵を開けると、中に入ってすぐの電気をつける。
「まあ、入って」
亮介はそう促すと、自分はさっさと中に入って、奥に消えてしまった。
葵も靴を脱いで、家の中に上がる。
中は、母屋の純和風の建物に比べたら、ごく普通の家のようだった。特に広いというわけでなく、かといって狭いわけではない。
ただ、一人で住むには大きすぎるだろうが。
「そっちの居間の方に勝手に座ってて。今、貴美子さんを……、家政婦さんを呼ぶから」
奥の部屋の方から、そんな声が聞こえた。
葵は未だ暗い居間の方を覗くと、壁にスイッチがあるのを見つけて、明かりをつけた。
クリーム色の絨毯の上に、ローテーブルとソファセット。そして、いわゆるプラズマテレビというやつが、置いてある。
居間の向こうにはキッチンが続いていて、全体的に何だか、モデルハウスみたいな生活感の無い感じがした。
葵は言われたとおりにソファにかけて待っていると、玄関のチャイムが鳴らされ、亮介がそれに対応する。
亮介はもうスーツから普段着に着替えていた。
貴美子さんと呼ばれた家政婦は、慣れた様子で、キッチンでお茶を淹れている。
亮介は葵の向かいにかけると、キッチンに立っている貴美子に声をかけた。
「……ねえ、貴美子さん。今日、玲菜はどうしてる?」
「……お嬢様は今日は、学校から帰られた後、また出かけられたようですが。旦那様のお見舞いですかねえ」
「いや、それはないと思うけど……」
亮介はそう返事して、苦笑する。しかし、すぐに真顔に戻った。
「ということは、まだ帰ってないのか?」
「ええ、そう思います。……そういえば、遅いですねえ」
貴美子はのん気にそんなことを言うと、テーブルの上にお茶を置いた。
壁の時計を見れば、もう21時を回っている。
貴美子はお茶を置いたあと、すぐに退室してしまった。玄関のドアが開閉する音を確認すると、亮介は深くため息をつく。
「しかし、参ったな……」
渋面で、そう呟いた。
「君の話してくれたことが本当だとすると、事態はかなり深刻だな……」
だが、二人ともどうすれば良いのか皆目見当がつかなかった。
亮介はお茶を一口飲むと、すぐに立ち上がる。
「さて、ゆっくり茶を飲んでる暇はない。……悪いけど、もう出ようか」
「……はい」
もちろん、こんなところで無駄に時間を潰している場合じゃない。
目的とする場所は無かったが、ここに留まっていることも出来なかった。
二人は再び天木邸から離れると、車をどこへともなく、走らせた。