19.



 セツは葵の部屋から姿を消した後、ある渓谷に立っていた。
 巨大で険しい大地の裂け目が目の前に広がる。赤茶色いその裂け目は、一見荒涼としているが、どこか力強い印象を与えた。
 ……大地の、地球の力。
 強い風が、セツの脇を駆け抜ける。何か大きなものがそこに存在しているかのような、そんな風だ。
 何十億年も前、ここと同じ場所に、サナと降り立った。
 どこまでも青い空と海。
 今はもう、ここには海はないけれども、確かに同じ息遣いを感じる。
 三一族が理想郷と呼んだ星。そこに生まれた命と、その頂点で増殖する人間。
 サナが神と出会って、何を知ったのかは知らない。そして彼女の行動が意味することも、計り知れない。
 けれども、サナの行動が正しいとは思えなかった。
 ……そして、
 自分が何故こんなにも彼女に執着するのか。
 その答えを知っているのは、恐らく、神と呼ばれるモノのみだろう。




 ゴウゴウと、風の音が響き渡る。
 高層ビルの合間を通り過ぎる風。綺麗に並んだビルの窓の、四角い明かり。車のライト、店のネオン。
 玲菜はビルの上に建てられた大きな広告看板の上に腰掛けて、それらをただ眺めていた。
『ねえ、サナ』
 玲菜は、以前からそうしていたように、頭の中でサナに話し掛けた。
『本当に壊してしまうの? そうすれば、何かが救われるの?』
 その問いに対し、サナは少しの時間をおいてから、声を響かせた。か細く、透明な声。頭の中を途切れ途切れによぎる、映像と共に。
『……救われるかも知れないし、救われないかもしれない。確かなものは何もないわ。これは、一つの試験だから』
『そう、だったね。まあ、何もしないよりかは何かをした方がいいけれど。……前向きに考えるってことだよね』
 サナは、それに対して何も答えはしなかった。
 頭の中に、白い華奢な腕の映像が一瞬、よぎる。それはサナの腕だ。
 こうした断片的な映像から、玲菜はサナの姿を知っている。そして、サナがこれまでに観てきた光景も、同じように頭をよぎる。
 それは一つ一つ何の脈略もなく、順序も関係なく、パズルのピースのように頭をよぎるだけだ。
 まるで、夢を見ているかのように。終わりのない、奇妙で美しく、少しだけ悲しい夢。
「さて、ようやく来たようだし、始めようか」
 サナは、街のネオンから視線を上げた。灰色の中空、そしてそこに浮かぶ、一人の青年。
「『セツ、これが、最後の……』」
 玲菜の口から漏れる、不思議な二重音声が言葉を言い終えぬうちに、二人の力は交錯した……




「……あっ!」
 葵は一瞬、小さな痛みを感じて思わず声を上げた。
 痛みを感じた場所を無意識に押さえ込んで、そしてどこが痛いのかに気付く。
「どうした?」
 葵は、右手を目の前に広げて、その中指に嵌められた指輪を眺めた。
 薄桃色の、重量感のある石の指輪。もう、痛みは感じない。
「……ローズクォーツの指輪?」
「え? ……さあ、何の石かは分からないんですけど。例の、姉妹石」
「ああ、それが? へえ、その指輪に、そんなすごい力があるとは思えないんだけどね。そもそも姉妹石が呼び合うっていうのも、何だかすごく抽象的な考え方だよね。そんなの本当にあるのかな?」
「さあ、私も分かりませんけど……」
 葵は亮介の言葉に苦笑しながら、その指輪を色々な角度で眺める。
 つるりとしていて、少しだけ光沢のある指輪。確かに、水晶のローズクォーツに似ている。
「さて、どこに行こうか……」
 亮介が、ハンドルを握りなおしながら呟く。いくつかの地名が書かれた標識が目の前にある。その中に、渋谷の文字。
「とりあえず、都内に向かって下さい」
「……分かるのか?」
「いえ……何となく、ですけど」
 葵が少し笑いながら言えば、亮介も軽く笑った。
「まあ、そんなもんだよね。……いや、直感は大事だ、うん」




 視界が一瞬、暗転した。
 セツはそれを振り切るかのように頭を一振りすると、ビュッと鋭い音を立てて振り下ろされる錫杖を受ける。
 錫杖に付けられた装飾の金輪が、シャンと鳴った。
 二人の動きが止まったのはその瞬間だけだ。
 真っ暗な空間の中で、一瞬玲菜の姿が消えてセツは慌ててその姿を探す。振り向きざま、背後の玲菜の一閃を紙一重のところで避けた。
 台湾で作ったものと同じ異空間を、再び作り出した。
 周りにこの戦いの影響が及ばないように。
 そしてそれだけで、かなりの力を消耗したと言えよう。ただし、勝算はまだ、なくなったわけではない。
 気を抜けば瞬時に命を失うだろう剣の応酬の最中、一瞬だけ葵の顔が浮かんだ。
「……他のことを考えている余裕があるの?」
 玲菜の声が、耳元で聞こえた。
セツはハッとしてその身をよじり、細身の刀身を彼女の喉元に走らせる。ただし、それは玲菜の白い肌に届く前に、弾き返された。2閃目も、軽々と避けられる。
 ただし、三閃目を避けられたところで、玲菜はセツから大きく跳躍し距離を置いた。
「……どうした? 疲れたか?」
 戦闘力や俊敏な運動能力を手に入れたとしても、身体は人間の、華奢な少女のものだ。限界は訪れるだろう。
「そう、だね。こういう、体力使うのは苦手だから」
 玲菜は荒い息を押さえ込みながら、錫杖を横一文字に構えると、大きく息を吸う。
「『輝ける生命の鼓動、大いなる、黄金の流れ……』」
 不思議な二重音声によって、呪文が紡がれる。
 セツは苦虫を噛み潰したかのように顔をしかめると、目を閉じて剣を構えた。
 やがて、玲菜の足元から、金色の粒子が浮かび上がる。それはいくつかの筋となって、真っ暗な空間をセツに向けて流れ出した。
 ゆっくりと、大きな緊張感をはらみながら。




「そうだ、ここから近いし、一箇所寄ってみないか?」
 ずっと沈黙したまま車を走らせていた亮介が、軽い口調でそう提案した。
「……え? 寄るって、どこにですか?」
「墓だよ。……玲菜の母親の墓」
「……え?」
 亮介の言葉に、葵は一瞬言葉を失う。そしてその言葉の意味を呑みこむと、葵は亮介の顔を見た。
「癌で亡くなったんだ。一ヶ月前にね」
 亮介はそう言うと、ウインカーを切って細い横道へと入った。そのまま、何度か右折左折して、車を止める。
 静かな、夜の墓地。不思議と、怖いとは思わなかった。
 二人は黙って墓地内を抜けると、一つの墓の前に出る。
 天木の文字が刻まれた、まだ真新しい立派な墓。
「彼女のためだけに建てたものなんだ。でもま、オヤジもここに入るつもりだろうし……」
「神道系なのに、お墓には入るんだ……」
「あはは、それは形だけだからね」
 亮介がそう言ったあと、二人は黙って両手を合わせた。しばしそうして、葵は目を開く。
「……玲菜は、どうだったんですか? 母親が亡くなったとき……」
「何も。……喪中の間少しふさいでいたようだったけど、特に変わった様子は何もなかった。俺はそれが逆に怖くてさ」
 亮介は墓石を見つめたまま、静かな声で話を続ける。
「玲菜は幼い頃に交通事故で父親を亡くして、それから家族が崩壊してしまっただろ? 何か、大きな心の傷があると思うんだよな。……けれど、それを周りの人間にはかけらも見せなくて、それが怖かった。波乱万丈な人生送ってんのにナ。おまけに不思議な力も持ってて祭り上げられる始末なのに、まるで普通の子と変わらないように振舞うんだ」
 亮介は両手をズボンのポケットに突っ込むと、葵を目で促して踵を返した。
 あまり、長い時間ここにいるわけにもいかない。
「俺は、玲菜が本当に可哀想に思うんだ。……だから、救ってやりたかったんだけどな」
 亮介はそれだけ言うと、しばらくの間堅く口をつぐんでいた。




 それがセツの、剣の柄を握る手の甲に触れた時、そこにジワリと鮮血が滲んだ。
 まるで、鋭いヤスリで身を削られるかのような感覚だ。
 黄金の筋がセツの周囲を取り囲んだ時、ようやくセツは瞳を開いた。
 ……その刹那、流れるような動きの剣筋でその流れを絡め取ると、セツはその場から掻き消えた。
 いや、そのように見えただけだ。セツは瞬時にして玲菜の目の前にまで間合いを詰めていた。
 そして、黄金の粒子を絡めたままの刀剣を、玲菜の胸に深く突き刺す。
 それは一瞬の間のことで、セツはすぐに刀剣を抜き去った。刀剣は、何もなかったかのように、綺麗なままだ。
 玲菜はその反動で少し身体を揺らした後、一瞬驚いたような顔をして、錫杖を取り落とした。そして、ゆっくりと自分の胸元に視線を落とす
「……う」
 声を出そうとして、それが上手くいかずに詰まってしまう。喉を熱いものが湧き上がってきて、吐き気に似たようなものを感じた。
 思わず咳き込んで、前のめりに倒れこんだ。セツの身体に突き当たって、そのまま崩れ落ちる。
「……悪いな」
 セツは、倒れこんだ玲菜を見下ろしながら、一言そう言った。
「サ、……ナ」
 玲菜は目の前に広がっていく自らの血液を見ながら、頭の中でサナの名を叫んでいた。
 頭の中によぎるのは白い何か。
 白い腕、白い髪、白い頬。
 全てを覆い隠そうとする、大きな白い布。風に大きく膨らんで、バサバサと煩いくらいの音を立てる。
 ゴウゴウと響く風の音。数多くの悲鳴が何かを呼んでいる。
 その風の中に、サナが立ち尽くしていた。
 はっきりと、サナの全身を見たのはこれが初めてだ。玲菜は感動にも似た感情を覚えた。
『サナ、何を考えているの……?』
 ゆっくり歩み寄って尋ねれば、サナは柔らかく微笑んだ。
『……ありがとう、玲菜』
 細い指を伸ばして、玲菜の額に触れる。
 冷たくて、まるで実感のない指。
『え……? 何で?』
『貴方のおかげで、私も全てを終わらせることが出来る。貴方が今までに見てきたことを、忘れないで』
『どういうこと? 消えてしまうって言ってたこと、本当なの?』
『そうね。私としての、サナとしての魂はもう、消してしまうの。それが、私に出来る最後の償い』
 サナはそう言うと、一歩、玲菜から離れた。
『待って、私を一人にしないで』
『大丈夫』
 サナはそう言って、玲菜の目の前から姿を消した。



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