4.
部屋に戻って時計を見れば、すでに十二時を回っていた。
朝食を食べていなかったので、葵の食欲は肥大している。更に昨夜も夕飯を食べていないのだ。
「……セツはお腹空かないの?」
「ああ、どうかな。食べても食べなくても生きていけるし」
「どういう体の構造してんの?」
葵は呆れて、冷蔵庫を開けた。
とりあえず牛乳をコップ一杯飲むと、何を食べようか考える。
「ねえ、そういえばセツの力って犯罪にも役立つよね。……っていうか、私今まであまりのことに感覚が麻痺してたんだけど、空飛べるんだよね。しかも傷治せるって、かなりすごいことじゃない?」
葵はそう言ってから愕然とする。
本当に、これは夢ではないのか。子供じゃなくても夢見る空想の世界の産物を、彼は持っているのだ。
「今更……」
「他に何が出来るの?」
「けっこう何でも」
セツは葵の座椅子に座ると、テレビをつけた。
葵は食欲を手放して、セツの隣にしゃがみこむ。
「例えば、瞬間移動とか」
「……ああ、出来るね」
「手を使わずにモノを動かすとか、壁を通り抜けるとか、あと、アト……」
興奮し始めた葵を横目に見て、セツはため息をつく。
「落ち着けよ。多分、お前の考えつくことは何でも出来ると思うぜ」
「……」
葵はぎゅうーと、頬をつねる。痛かった。
そうして、大きなため息をついた。
「何を言って良いのか分かんない」
「そうみたいだな」
セツはリモコンでテレビのチャンネルを回すと、ワイドショー番組で止めた。奥様変身のコーナーがやっている。
「セツは今までどんな生き方をしてたの?…家を出てから」
「指輪を捜してた。今回は時間がかかったな。全然分からなかったから」
「五年以上も指輪を? セツの力は万能じゃないの?」
「……まあ、そう言われると万能じゃないな。日本のどこかにあることは分かっていたから沖縄から始めて北上してきた」
「沖縄から? その、神にまつわる場所を一つ一つ?」
「そう」
葵はやや呆れながら、テレビを眺めた。画面では変身した奥様が旦那様と対面している。
「でも、それだけで五年もかかるかな。瞬間移動とか出来るンでしょ?」
ここはどっちかっていうと北よりにある。
「いや、その時はそんな力なかったから」
「……ていうと?」
「指輪にある程度力を封印してあるからな。今こんなに力があるのは指輪を手に入れたからだな。そう、今ならある程度万能かも」
「何か私って、すごく運がいいのかも」
葵は嘆息して、呟いた。
そして、セツの横顔を見る。ワイドショーを見ている彼は、それでも秀麗な顔のままである。そんなセツと出会えて、そして恐らく、セツにとって葵は特別なのかも知れなかった。
そんなことを考えていたらセツがこちらを向いたので、葵はどきりとする。
「運が良いのか悪いのか、これから分かるかもな」
セツは淡い笑みを浮かべてそう言った。それが少し切なくさせた。
「……そうだね。ちょっと不謹慎だった」
何しろ、近い未来この辺りの人々は、何かしらに捲き込まれて死んでしまうかも知れないのだから。
葵は興奮も冷めて、台所に立った。メニューは決まった。
「スパゲティー茹でるけど、セツも食べる?」
「ああ、悪いな」
「食べなくても生きていける人に作ってあげるのは、少し勿体無いかもしれないけどね」
葵はセツに言って、笑った。
ベーコンとトマトソースのスパゲッティを二人して平らげると、ミネラルウォーターを飲みながら葵はまたセツに質問を投げかける。
「サナが奉られてるっていう宗教団体は、どうやって見つけるの?」
「漠然とした居場所なら分かってる。後は細かい聞き込みかな」
「地道な作業って奴か。……で、その漠然とした居場所っていうのは、どの辺りまで絞れるの?」
「そうだなあ、日本を五分割にしたくらい」
セツの発言に葵は呆れ半分、げんなり半分でため息をついた。
「その指輪が呼び合うって言わなかった?」
「言ったねえ。っていうかこの広い地球上で、これだけ絞れていればいい方だと思うけどな。それに問題は他にもあるし」
「そう簡単には行かないんだねー」
葵は頬杖をついて、テレビの画面を見る。CMが流れていた。
セツは指輪を眺めたまま、ぼんやりと呟く。
「サナが覚醒しないことにはな」
「……覚醒って?」
「いや、俺も良く分からないんだけどな。俺に記憶が戻るように、サナも覚醒するまでは自分の意思と関係なく存在しているらしい。……だから、覚醒するまでは俺もサナの居場所を断定しにくいし、逆に断定してしまうと、そこからサナが次の輪廻に移るまでの猶予はほとんどなくなる」
「だから今まで、人が死ぬのを食いとめられなかったって訳?」
葵は複雑な表情で尋ね、セツも神妙に頷いた。
本当に、そのサナっていう存在は、何なのかと思う。
セツの説に拠れば、サナは自分たちが訳もなく戦いつづけているのに疑問を持って姿を消したと言う。そして、サナは神と出会ったのだ。サナは神と会うことによって何を知り、何を思ったのだろう。
そしてその過程で、サナは多くの人間を殺害する存在になってしまった。
元は戦いを、殺し合いを疎んでいたというのに。
神に会うということは、そんな変化をもたらされるようなことなのか。だとしたら、葵は神になんか会いたくないと思った。
その後、食器の片付けやら何やらをしていたら、あっという間に日が暮れてしまった。セツは葵が忙しそうにしていると、遠慮して部屋を出ていった。
また何かあったら来ると言う。
どこで寝るのか尋ねると、昨日同様に近くの公園で寝ると言った。彼は寒さも感じないし、野宿をすることに躊躇はないらしいが。
そう言う問題でもないような気もしたが、葵には引き止めることが出来なかった。この狭い部屋に彼を泊めるわけにもいかないし、しかもセツは、人ではないとはいえ立派な男な訳だし……
それにしても、実感が湧かなかった。
セツの存在、サナの存在、神の存在……全てが何だか釈然としないのだ。それがなぜなのかは知らない。日常からかけ離れ過ぎているのだろうか。
そして、近い未来起こってしまうかもしれない、大勢の人の死。
そのことを考えると真面目にセツに協力して、日々を不安に過ごすべきなのだろうが、自分に染み込んだ日常と常識っていうのは、なかなか変えられないもののようだ。
セツに協力している間、学校のことはどうしようとか、単位は落としたくないとか、親には何て言い訳しようとか……
「ま、何とかなるか」
行動を起こし始めたら、そのうち実感も湧くのかも知れない。今のところはなるべく、日常生活に差し障りのないよう、気をつけていよう。
翌日、葵は九時過ぎに大学へ赴いた。
履修申請のための冊子やシラバスを取りに来たのだ。
「あ、葵」
呼びかけられて振り向けば、友達の一人がこちらに向かって歩いてきていた。
同じ専攻を希望している清水愛子だった。
「あー、久しぶり、元気だった?」
「うん。これから履修の、取りに行くんでしょ?」
「うん」
愛子が追いつくのを待って、二人は一緒に事務区まで行く。二人はそれぞれ履修に必要なものを受け取ると、掲示板をチェックする。
「あー、健康診断あるんだった。面倒くさいなあ」
愛子が言う。確かに、授業開始日の前の日に健康診断が入っている。休みが一日減ったかのような気分だ。
「そう言えば愛子は、春休みの間何してたの?」
葵が何気なく聞くと、愛子は間髪入れず答えた。
「巫女バイト」
「……巫女?」
つい先日神に関係する話をしたばかりで、葵は少し敏感に反応してしまった。
「うん、二十万近く稼いだかなあ〜。去年の冬からやってたから」
そういえば愛子は、連休近くなると代返を頼んで、実家に帰っているようだった。愛子はいつも計画的に全休の日を決め、分断した祝日と週末などを連休にしていた。その連休を利用して実家に帰っている間、神社の巫女のアルバイトをしていたのだろう。
「でもさ〜、何か神社の汚い裏側を見たような気がするよ。あれはもう、商売だね」
「まあ、神社だって経営してるって感じなんだろうし」
全てが慈善だったら、神社の修復もできないし、神主さんたちも自分やその家族の生活を賄えないだろう。
「賽銭の額も凄い事ながら、絵馬とかお守りの売上も並じゃないよ」
「儲かるんだね、神社って」
春休みの間もアルバイトをしていたということは、正月だけに巫女が必要とされているわけでもないらしい。……それもそうか、普段も神社は閉まることはない。
「ま、そこは有名な大社だからね」
お金がやり取りされる限り、そこには欲が生まれるのだろう。聖職者と言えども。
だから、サナは奉られるんだ。
「でさ、何か面白いうわさを聞いたよ」
「どんな〜?」
二人は学食で少し話をすることにした。自動販売機で飲み物を買い、テーブルにつく。
紙カップの中のココアから、湯気が立っていた。
「……そういえばさ、このカップの自販にこの前おじさんが補充してたんだけどさ〜」
突然話が変わった。
愛子は悪く言えば、おしゃべりで、話題が尽きることはない。そしてあちこちで同じ話をしているようである。
「その中をふと見たら、でっかいゴキブリが入っててさ。もうびっくりだよ」
「ええ? それ、大丈夫なの?」
「何か嫌だよね〜。私もう、あの自販で買わないことを決めたもん」
愛子は缶ジュースを別の自動販売機で買っていた。葵は手元の紙カップを見下ろして、何だか情けないような顔をする。
「そういうことはこれを買う前に言ってよね〜」
葵は不満の声を上げるが、買ってしまったものは仕方がないので、それに口をつけた。不自然に甘過ぎる。
「それで、うわさって?」
「ああ、何かね〜」
愛子の話をまとめると、こうである。
愛子がアルバイトをしていた神社の近くに、大きな純和風の屋敷がたった。そこのご主人は拝み屋で、それが大層効くのだそうだ。料金もそんなに高くはないというので、人々は口コミで集まり、繁盛しているらしい。
従って、神社の方への参拝数が少し減っているという。
「ホントかどうかは知らないけどね〜。でも確かにお屋敷は建ってた。すっごいよ。いったいいくらかかってるんだろう、って感じの」
「へえ〜、そんなこともあるんだね。ところでそれって、どこ?」
「え? Y市だけど?」
「ふうん、Y市ね」
葵は口に出して呟いて、確認した。
Y市に、サナがいるのかも知れない。
葵は心の中で、何か落ち着かないものを持て余して、愛子と過ごしていた。やがて話も尽きたかという頃、ようやく席を立って帰ることにする。
セツに伝えなくては。
何の偶然かは知らないけど、すごい有力情報を掴んだような気がした。
けれど、今セツはどこにいるのだろう。昼間どこにいるのか、全く見当もつかない。早く教えたいのに。
葵は、自分からセツとコンタクトする方法を持っていないことに、何だか寂しく感じてしまった。そして、不安もある。今でもあれは、夢だったのではないかと思ってしまう。
「じゃあ、またね」
「うん、健康診断の時に」
そんな不安を心の奥に押しやって、葵は笑顔で愛子と別れた。
自分の自転車にカギをさし込んで、跨る。ゆっくりと走り出して、大学の構内を出て、葵はわずかな希望をかけて、ある一つの公園へ足を向けた。
その公園は、葵の住むマンションの近くにある。
小さくて、寂れた感じがする、遊具の少ない公園。子供達が遊んでいるところを、葵は見たことがなかった。
ペンキのはがれた、壊れかけのベンチが二つ、三つ。鎖が一本外れたブランコは、上部の鉄の棒に巻き付けられ、漕げないようになっている。小さな錆びた滑り台に、鉄棒。後は何もない広場。そんな感じの公園だった。
「……やっぱり、いないか」
葵は、自転車を目の届くところに置いて、カゴに荷物を入れたまま、公園のベンチに腰掛けた。
公園には誰もいなかった。
公園を取り囲むようにして植えられた木々の合間で、雀が数羽、さえずっている。近くの車道を走る車の音、遠く聞こえるクラクション。
葵の周りにあるのは、それだけだ。