5.
高校の時にあった友達グループでのトラブルで、葵は少し、友達を作るのが苦手になっていた。大学の始めの頃はそれでも、努力して友達を作るようにしたが、今となっては交友関係の幅は狭い。
それを良しととして孤独を好む自分もいれば、ひどく寂しく惨めに思う自分もいた。
だから、周りに誰もいなければ、少しは安心する。
人ごみは昔から嫌いだった。
「セツ……か」
何となく、小さく呟いた。
だから、それに対する返答はまったく予想もしてなかった。
「よう、呼んだか、葵」
「……えっ?」
背後から聞こえたその声に、葵は文字通り、驚き飛びあがった。
ベンチから飛びあがって後ろを振り向けば、セツが昨日とまったく同じ格好で立っている。
「な、何で? いつ現れたの?」
「うん? いまさっき。俺の名を呼んだだろ? だから」
「よ、呼べばすぐ来れるの? ……聞こえたの?」
「ああ、敏感なんだな。どこかで俺の名前を呼ばれると、それに気づく」
「……携帯より便利だ」
葵はやや呆れ顔で言って、笑った。
少なくとも今は、どんなところにいても孤独ではないというわけか。
「へえ? Y市に?」
セツと並んでベンチに腰掛けて、葵は先ほど愛子から聞いた話をした。
セツは、Y市という地名がどの辺りのものなのか分からないようで、少し首を傾げる。
「Y市っていうと……」
「ここから3時間ほどかな。高速バス使って、あとは電車で……って、セツには関係なかったか」
「まあな」
セツなら一っ飛びだろう。葵は今更ながら、セツのこの不思議な能力がどこから来るものなのかを考えていた。
科学的に解明することは出来るのだろうか。
体の器官に何か特殊な部分があるとか……
「……何?」
突然セツに尋ねられて、葵は驚いて顔を上げた。
「え?」
「いや、俺の体じっと見てるから……」
「あ、ああ、ごめん。何でもない」
思わず赤面して、葵は正面を向き直った。
……そういえば、と葵は思う。
男の人とこんなふうに親密になったことは、今までなかったような気がする。同級生の男子に対して、同性と同じように接していられたのは、小学生までだ。なぜかは分からないけれど、それ以後は何となく話し掛けにくい存在となってしまった。だから葵は今現在、男友達はいないといっても良いだろう。
免疫がない、と言う表現が適切かもしれない。
「そ、それで、どうする? セツ、いくでしょっ?」
「ああ、行かないわけないだろ? お前、今日暇?」
「え……えっと、これから銀行とか行かなきゃならないけど、それが済めば……って、もしかして私も一緒に行くのっ?」
「当然だろ? 俺はY市ってのがどこにあるのか分からないし、そのサナがいるとこだって分からない」
葵はそう言いきられて、呆気に取られたような表情をした。
「どこにあるか……って、サナの……その、気配とか分かるんじゃないの?」
「だから、今は漠然としか分からないんだって言っただろ? 大体俺は、地図とかの見方だってわからねえんだよ」
「え? もしかして、方向音痴?」
「……悪かったな」
セツの顔が、心なしか赤面したかのように見えた。セツは少し不機嫌そうな表情をして、葵から視線をそらしている。
葵は、ぷっと吹き出した。
「わ、笑うなよ!」
「だって、万能のセツにそんな欠点があるなんてさ〜」
ツボにはまってしまった。
いつまでも笑いが止まらない葵を横目に、セツはやれやれといった表情でため息をついた。
軽く眩暈がする。
あの後銀行での用事を済ませて、葵はセツの能力でこのY市に、瞬時に姿を現した。いわゆる瞬間移動というやつを、葵は初めて体験したのだ。
最初は目を閉じていた方が良いと言われ、アドバイス通りにそれを実行したから何が起こったのかは分からなかった。
ただ、軽い眩暈と共に、強い潮の匂いがした。
Y市にある海浜公園。その灯台を強く想像したのは葵で、その葵の思念から場所を感じとって、「飛ぶ」のだとセツが教えてくれた。
移動の際つないだ手をぎこちなく解いて、葵は辺りを見まわした。
人が疎らに見える。ちょうど昼休みの時間帯なので、スーツ姿の人が多い。
「そういえば、お腹空いたかも」
「ああ、どうする?」
「……えっと」
葵はY市に初めて来たので、どこになにがあるのか分からない。辺りを見まわしてみるが、近くにオフィス街があるらしく、ビルが立っているのが見えるだけだ。簡単に食事を済ませられるファーストフード店の類は、すぐには見つけられなかった。
「多分、大きい通りに出れば案内標識があると思うんだけど」
予想通り、しばらく歩けば大きな通りに行き当たり、道路の上方に青い看板が見えた。標識には市街方面の文字がある。
二人は更にそちらへ向けて歩いた。
「それにしても、セツの能力も案外不便かも」
「……は?」
歩きながら、葵は言った。
今日は素晴らしい晴天で、春先なのに歩いていると汗ばんでくる。しかも葵は日頃からの運動不足が祟って、もう息が切れ始めていた。
「だって、いくら空を飛べたり瞬間移動が出来たりしても、こんなに人がいるところじゃ目立って仕方ないもんね」
「ああ、そうだなあ。……悪かったな」
「いや、悪くはないけど」
拗ねたようなセツに、葵は軽く笑って、言う。
「でも、どちらにしてももう一度飛ばなきゃだめかもね。Y市っていったって広いし。愛子の言う神社がどの辺にあるのかは大体目星がついてるけど、細かい場所は分からないから。一度本屋に寄って地図を見てみよう」
「ああ。何だか悪いな、色々任せてるみたいで」
「うーん、でもしょうがないよ。そういう運命だったんだって、諦める」
「そうか? でもホント、頼りにしてます」
両手を合わせて頭を下げてくるセツの姿が、何だか可愛らしく見えた。だから思わず笑っていると、セツはふと真面目な表情をする。
「……葵は、凄いな」
「え?」
「いや、俺みたいな怪しい奴に協力してくれるし。俺やサナの存在は、人間にとって疫病神みたいなもんだろう」
「そ、そんなことはないよ。サナはともかくセツは、私たちを守ろうとしてくれてるんじゃないの?」
肯定の言葉がすぐに返ってくるのを期待した葵だったが、セツはすぐに応えてはくれなかった。
不安になってセツを見上げるが、彼の顔には何の感情も表れてはいない。
通りを走る車の音やクラクション、人のざわめきの中を歩いているのに、セツはそういうものを感じていないかのようだ。
やがてぽつりと、「それはどうかな」と言った。
「最初は、人間がいくら死のうとも、俺には関係がなかった」
「……え?」
「俺は、この地球が好きだったんだ。理想郷だと思っていた。いつかは俺たち一族がここに住むのだと。最初に地球を見たとき……どこまでも青い空と海は鮮やかで、真っ白な雲が風に流れ、澄んだ空気は俺たちを守ってくれるのだと……そう思った」
葵は空を見上げた。うす汚い灰色のビルの間に、空が見える。灰色がかった、淀んだ空。
「けれど長い眠りから覚めて地球に降りてみれば、人間が溢れ、海を汚し大地を汚し空気を汚し、この理想郷を蹂躙しているかのように感じた。サナを追い、サナが人間を死に追いやっていることに気がついたときも、ただ納得したんだ。サナもまた、この地球を愛しているのだと」
「でも……そんなこと、私たちには関係ない」
何を思ったのか、葵は無意識にそう反論していた。
関係なくはないのだ。全ては人間の行いなのだから。
……人間が地球を汚した。
けれど、だからといって私たちが殺される理由などない。ないと信じたい。それが自分勝手な思い込みだとしても。
セツはそんな葵の感情を知ってか知らずか、ただ頷いた。
「まあね。でも、俺も人間として生きて色々と分かったことがあるよ。俺たち一族は色々なことを知らなすぎた。そして人間も、同じように知らないんだってね」
何を、とは聞けなかった。聞いたところできっと、セツだって知らないはずだ。
色々なこと、それは神のみぞ知る、という種類のものなのだろうから。
「……セツは私を凄いって言ったけど、セツだって凄いよ。一途にサナを追ってるし、今は人を守ろうとしてる。……だからこそ、私に協力して欲しいんでしょ? 私はそんなセツの凄さに、引きずられているだけだからさ。あ、マックだ。マックで食べよ」
セツはそう言う葵を、少し複雑な表情で見ていたが、やがて何かに思い至ったのかのように軽く微笑んだ。