6.



「ここだ」
 腹ごなしの後すぐ近くにあった本屋に入った葵は、開いた地図の一点を指差しながら言った。
 葵の背後からセツがそれを覗き込む。
 葵が指差したそこには、目的とする神社の名が記されていた。
 その神社は、ここから電車で二駅ほど行った場所にある。
「ふうん、ここから近い?」
 地図上での距離感覚をつかめないセツが、葵に尋ねる。
「近からず遠からずって感じ。……どうしよっか。瞬間移動が出来ればいいんだけど、無理なんだよねえ?」
 問えば、セツは軽く頷いた。
 セツから訊いたところによると瞬間移動が出来るのは、以前行った事のある場所であるか、もしくは強いイメージによるサポートが必要であるという。
 不幸にも葵はこの神社に行ったことがない。
「でも、今まで指輪を探して色々な神社を歩き回ったんでしょ? ここも行ったことあるんじゃないの?」
 ここは、葵が住んでいるところから南にある。
 セツが沖縄から初めて北上していったなら、もちろんここは通過しているはずである。
「……だって、そんなのいちいち覚えてねえし」
 だって、何ていい訳しているところが可愛いと思ってしまった。
 葵は軽く笑って改めて地図を見直す。
「じゃあ、歩いていくしかないかなあ。まずは駅に行って、電車で……」
 ここから駅までは歩いて数分だろう。ただ、電車を降りてから神社までは多少距離があるようだが。
「飛んで行った方が早くない?」
「それじゃ、目立つじゃん……って、もしかして、姿とか消せる?」
 盲点だった。セツは再び、軽く頷いた。
「早く気がつこうよ、お互い……」
 どんなに便利な力があったとしても、使う方が間抜けだったら意味が無い。
 葵は大きくため息をつくと、地図を閉じて、裏の値段を見る。けっこうな値段である。
「空から行くなら地図を買った方がいいかもね。上から見下ろしながら見比べることが出来るし」
 葵はそう言って、地図を購入した。……いや、購入したという表現は正しくない。
 セツの力で地図を透明にしたのだ。
 こちらを全く意識しない店員や客に、少しの罪悪感を持ちながら、二人は本屋を出た。


 本屋を出れば、さすがに昼食時間を過ぎて人通りも先ほどよりかは、少なくなっていた。
 葵は疎らな人通りの中、立ち止まったままセツを見上げる。
「で、どうする?」
「どうするって……行くんだろ?」
 ここでいきなり透明になるのも目立つんじゃないだろうか?
 そんなふうに戸惑っていたら、セツが突然葵の手を取って、ぐいっと引っ張った。
「ちょっ……」
 突然のことに足をもつれさせていると、次の瞬間から、葵は不思議な感覚に包まれた。
 何かにドンと身体がぶつかった後。
 まず、地面から自分の足が消えてしまった。自分の腕を引っ張っているはずのセツの姿もない。
 そして、ついには葵の身体がふわりと浮いたかと思うと、遥か高みにまで一気に上昇を始めた。
「……うあ」
 驚嘆の声を上げようとも、その声が上手く出ない。
 周りの景色が、どんどん下へ流れていった。
 背中やおしりの辺りがムズムズするジェットコースターに乗っている感じのような、それとは違うような。
 とにかく、突然の未経験な現象に、葵は圧倒されてしまった。
「セ、セツ、ちょっと待って……」
 意識まで飛びそうになって、葵は何とかそう言った。
 その言葉を受けたのか、葵の身体は高層ビルの屋上より少し高い位置で、ふわりと止まる。
 窮屈な身体をひねりながら、改めて下を見た。
 葵の足元、遥か下では、もはや人は点のように見え、車はまるでミニカーである。
 落ちないとは分かっている、少なくともそう信じてはいるが、足元に何もないというのは凄く怖い。
 けれども、今はセツの姿はおろか自分の姿まで見えないのだから、まるで意識だけが飛んでいるような感覚でもあった。
 葵は何だか不安になってしまった。
「……セツ、どこにいるの?」
「どこって……」
 セツの返事は、想像していたより遥かに近くで聞こえた。
 葵の耳元。
 それで、葵は視覚以外のすべての感覚を取り戻した。
 恐らく、身体が窮屈に感じるのは、セツが両腕を葵の身体に回してしっかりと支えているからだ。調度、抱きしめるような形で。
 そして、風の強い上空でそれを不快に思わないのも、風がセツの身体でさえぎられているから。寒くないのも、セツの体温を感じるから。
 葵の顔はみるみる赤面し、それと同時に頭の中が真っ白になった。
 男には免疫が無いというのに。手をつないだことも、抱きしめられたこともなかった。
 今が非常時だということは分かっているけれど、だからってそういうことをまったく気にしないなんてこと、出来るわけがない。
「セツ……あの、一度、姿元に戻してくれないと地図が見れないんだけど……」
 それも事実だ。セツも葵も地図も、すべてが透明になってしまっている。
「ああ、そうだっけな」
 セツはのん気にそう答えて、ふわりと移動した。
 足元の、ビルの屋上。
 そこには大きな看板が立っていて、元来一般の人が入れるような場所ではないらしい。
 セツは降り立つと同時に、姿を元に戻した。
 目の前に突然セツの胸元が見えて、葵は慌てふためきながら、彼を押し出すようにして離れた。その反動で少しよろめいてしまう。
 膝に力が入らなくて、葵はそのままへなへなと床に尻餅をついた。
「そんなに怖かった?」
 セツがそう言って笑うのを、葵は恨めしい気分で睨みつけた。
「うわ、こわ」
 セツはそう答えると葵の傍にしゃがみこんだ。
 葵は気を取り直して、地図を開く。
 ビルの上からは、この辺り一体が広く見渡せた。
「えっと、駅があっちだから神社は……そっち」
 葵は地図と周辺の景色を見比べて、一点の方向を指差した。
「……ここをまっすぐ?」
「そう、まっすぐ。……はあ、それにしてもさあ、私たちはお互いに姿を確認出来て、他の人には姿が見えないようには出来ないの? セツがどこにいるのか分からないんじゃ不便だよ」
 今まで見えるものに感覚を殆ど任せていたせいで、セツに抱きしめられていたことも分からなかった。突然のことに全てが混乱したせいでもあるのだが。
「出来ないこともないだろうけど……注文が多いなあ」
 セツは困ったような表情を浮かべると、しゃがんでいた状態から床に尻をついてあぐらをかく。そして両腕を組んで、首をかしげた。
 ふと、真剣な表情で、何やら呟く。
「……空間の女神、光の浸透……互いの信頼」
 そんな言葉が葵の耳に届いてくる。
 セツは組んだ腕を解くと、羽虫でも払うかのように右手を振ったあと、葵の頭にそのままポンと乗せた。
「出来た」
 セツは満足気に言ってから手を離す。
 葵はその頭に何気なく自分の手を乗せてから、別に何の変化もないことを確かめると、セツに訊いた。
「さっきの言葉は何?」
「……呪文です」
 葵の質問に、セツは照れ隠しのためか、敬語でそう答えた。
「呪文? そんなのあるんだ」
「まあ、呪文っていっても決まった形があるわけじゃなくて……葵に言っても分からないだろうけど、術を発動するには、術自体を組んでいく必要があるんだ。例えると、数学の式を解くみたいな感じ。そう言うときに言葉があると、イメージしやすいって訳。……俺の術なんて大したもんじゃないし、呪文自体も適当だけど。俺が生きていた時代には呪術師ってのがいて、彼らは高度な呪術を操るために、綺麗な呪文を朗々と唱えるんだ。……あれはマジで凄かった」
 セツが過去の話を語るのに、こんなに楽しそうに話すのを初めて見た。
 葵にとっては実感が湧かないものだけれど。
「呪術って……そんなもんなんだ。何だか言い方的に凄いオカルトっぽいんだけど」
「あ〜、だって、他に表現のしようが無いからなあ」
 セツはやっぱり恥ずかしそうに弁解して、立ち上がった。
「……よし、じゃあ葵、行くぞ」
 そう言って、葵に手を差し出してくる。
 そんなに何気なくしないで欲しい。葵は困惑しながらも、その手を取った。
 

 想像していた通り、大きな神社だった。
 学生にとってはまだ春休みであるためか、平日でも人がけっこういる。
 大きな鳥居の両隣には大きな桜が植えられていて、それは満開よりもちょっと過ぎたぐらいの咲き加減であった。
 それでも充分美しい。
 境内にはこの二本の桜の他にも多数植えられていて、地面はその花びらで薄桃色に覆われていた。
「うわ……綺麗」
「ふうん。これが、その神社?」
「そう、超有名。ここには来なかった?」
「いや、来たと思うけど。あんまり覚えてないな……指輪の気配も無かったし」
 本来の目的地はここではないが、葵は桜に誘われるようにして鳥居を潜った。
「そういえば、結局指輪はあの小さな神社にあったんだよね? 何であんなところにあったんだろう」
「ああ、でも正確に言えばあの神社にあった訳じゃなくて、あそこは入り口だったけどな。あそこの神社と山の方の大きな神社がつながっていて、そっちの方にあったんだけど」
「山の方か……たしかに神社あるね。しかもけっこう有名で、何だかっていう銘がついた有名な剣が奉納されてるとか」
「へえ?」
 セツはあまり興味のない様子で相槌をうつ。
 二人は話しながらも本殿の前にたどり着いた。
「ついでだからお参りしていこっかな。サナが見つかりますようにって」
「……神は信じないんじゃなかったっけ?」
 鋭い突っ込みだ。葵はうっと言葉につまる。典型的な日本人である。
「ん〜、それはほら、気持ちの問題っていうか」
 葵は場を繕うように笑いながら、財布を出した。
 小銭の中から、二十五円を取り出す。二重に御縁がありますように、との意味合いで、いつからともなく賽銭の額はそう決めている。
 葵がお参りをしている間、セツは彼女とは反対の方向を見てふと表情を暗くさせた。
 あちらの方向に、かすかだがサナの気配を感じる。
 恐らくサナはまだ目覚めてはいないだろう。気配が微弱すぎる。
 それなのに、この妙な不安感は何なのだろう。


 神社の向かい側、調度セツがサナの気配を感じていた辺りには、閑静な住宅街が広がっていた。
 葵はすでに使い物にならなくなった地図を小脇に抱えたまま、辺りを見回しつつ歩く。
 拝み屋をやっているらしいその家は、純和風の屋敷だという話だ。
 出来たばっかりらしいし、目立ってもいいはずだがそれらしい建物は見当たらない。両側にはお金持ちそうな家々が並んでいたが、純和風といったものは無かった。
「やっぱり、人に訊くしかないねえ」
 葵はため息をついて隣を歩くセツに提案した。
 しかしながら、高級そうな住宅街だけあって、そもそも人通り自体も少ない。事実、二人の目の前には人の姿は一つもない。
「……あ、多分、向こうの角から人が歩いてくるぜ」
 セツがふと、そう言った。
 正面には小さな十字路が見えている。
 しばらくすると、セツの言葉通り、十字路の角から人が目の前を横切っていった。
 女子高生である。
 制服姿は今時の、短めに仕立て直したスカートとルーズソックス。
 水色のベストとスカートは水色で、チェック柄の可愛いデザインだ。
 そこから伸びた両足はとても華奢で、栄養が足りているのかと疑ってしまうほど。
 髪は長く背中に垂れている。色は金髪に近いブラウンで、コギャル、という言葉が葵の頭に浮かんでしまった。
 葵が高校生だったときは、ルーズソックスくらいは履いていたが、それでも至って真面目な学生だった。葵の友達も似たり寄ったりで、むしろこんなに派手な生徒とは話したことがない。
 葵が話し掛け辛そうにしていると、セツはさっさと彼女に近づき、彼女を呼び止めていた。
 いつものことながら、彼には行動を躊躇することなど無いのだろうか。
 特に、異性というものに対して特別な意識を持たないのか。
 確かに葵に道を訊いてきた時も、「眠れないみたいだな」なんて馴れ馴れしく話し掛けてきたけれど。
 でも、もう少しそういうことを気にしてくれてもいいと思う。
 そりゃ、これからも共に行動をしていく訳だからあまり意識されても困るけれど、全く気にされないのも困りものだ。
「……なあ、ちょっと、いい?」
 葵のそんな思いと裏腹に、セツはいつも通りの調子で女子高生の前に立った。


「……はあ?」
 葵が背後から歩き近寄ると、彼女は疎ましそうな口調でそう答えた。
 しかしその後、視線をあげてしばし、彼女は絶句して立ち止まる。
 彼女の反応は正しいものだったと思う。何せセツの容貌は、その辺にいる十人並みの男とはレベルが違う。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「あ、……うん」
 女子高生は戸惑いながら頷いた。
 葵は彼女の後ろから回り込んで、何気なくセツの隣に立つ。
 女子高生の顔立ちは、やや化粧が濃いものの、割合綺麗に整った顔をしていた。
 何この女。
 そう言いたそうな視線がこちらに向けられる。
「っと……ほら、葵」
 セツに肘で促されて、葵は困惑しつつ口を開く。…何で自分が訊かなきゃならないんだろう。
「この辺に、凄く評判のいい……えっと、拝み屋? が、あるって聞いたんだけど、場所知ってますか?」
「……ああ。知ってるも何も。……それよりこっちの人、すっごいかっこいいんだけど、付き合ってんの?」
「は?……え、ち、違うけど」
 知ってるも何も、の後、変な方に話を持っていかれてしまった。
 葵はどう反応していいやら分からなくて、セツを見上げた。セツも奇妙な表情をしている。
「そんなことより、場所知ってるんだったら教えてくれない?」
 セツは呆れ口調でそう言った。
 ……呆れる程、くだらない質問だと思ったのだろう。
 葵はその場に居ても立っていられないような気分で俯いた。
「いいよ。……ついてきなよ。でもなんでまた、あんた達みたいなのが来るかな」
 彼女は眉をしかめて言うと、歩き出した。
 あんた達みたいなの、とはどういう意味だろう。
「……何だか、意外だわ。うん、ちょっと予想外」
「は?」
 言いながらも、彼女はさっさと歩いていく。
 途中スカートのポケットから携帯を出して、そのボタンを素早く操作していた。
 さすが女子高生。早業である。どうやらメールを出したらしい。
 やがて、彼女は立ち止まった。
 確かに純和風の門がそこにある。…ただし門からは、屋敷自体は見えなかったが。
「ここだよ。私んち。……私は天木玲菜。天木家へようこそって感じ?」
 葵は思わずぽかんと口を開け、彼女と家の門を見比べた。天木と書かれたの表札。広い庭を隔てて、目に見えないがそこにあるのだろう純和風のお屋敷。
 まさか、偶然出会った彼女が、その家の娘であるとは。



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