8.
玲菜は、ゆっくりと顔を上げた。
先ほど見た彼女とは全く違うように見える。
蒼白な顔色。半眼を開いたその瞳が、一瞬金色に輝いたように見えたのは、見間違いだろうか。
周りの誰もが、緊張の面持ちで彼女を見守っていた。
「さ……なさい」
小さな声で、玲菜が何かを言う。小さすぎて、何を言っているのかは聞き取れない。
「……サナ!」
セツはその名を叫ぶと、葵の元を離れ玲菜の傍に歩み寄った。玲菜を守るようにして男達が行く手を阻むと、セツは彼らを鋭い眼光で睨みつける。
その表情の険しさに、葵は息を呑んだ。
大の大人が、セツの一睨みで怯んでいる。
セツは男達の身体を押しのけて、玲菜の両肩を掴んだ。
「サナ、俺に応えてくれ……」
苦渋の表情で、セツは訴えかける。
玲菜の視線はしかし、彼を見ようとはせず、宙にさ迷っていた。
その視線がふと、正気に返ったかのように見開かれ、セツの顔を捉える。一際、彼女の存在力が増したかのような瞬間であった。
玲菜の手がゆっくりと持ち上がり、セツの頬にそっと触れる。セツは切ない面持ちで、その玲菜の手を取った。
「……早く、去りなさい」
玲菜ははっきりとそう言った。
そしてそれを最後に瞳を硬く閉じ、セツの足元に崩れ落ちる。
不思議な時間の流れが、途切れた。
……パンッ!!
耳につんざく音が、その静寂を破った。
一瞬何が起こったのか分からなかった。
その一筋の軌跡は、セツの首筋を掠って、向こうの廊下の壁に穴を開ける。
「……きき、貴様、巫女様に何をしたぁ!」
葵はその怒声に振り返る。
男の中の一人が、震える手で拳銃を構えていた。
他の男達もどうしていいやら分からないと言った様子で、拳銃を向けたままの男と、その先のセツを見比べている。
葵はふと、天木を見た。
天木は床の間を背に、一人だけ落ち着いた様子で立っている。
「山下さん、まあ、落ち着きなさい。ここで銃を撃つのは危険すぎます」
「……で、でも」
「玲菜は大丈夫ですよ。いつものように、降霊の後意識を手放しただけです」
セツは銃弾が掠めた首元を押さえながら、銃を構えた男を振り返る。首筋からはけっこうな量の鮮血が流れ落ち、シャツを紅く染めていた。
葵は青ざめて、セツに歩み寄る。
それをきっかけに、ようやく他の男達が動きを見せた。玲菜の近くにいた男達は彼女を抱き起こし、反対側の男達は、山下と呼ばれた男を宥めつけている。
……葵は、そんな目の前の光景を信じられない思いで見つめていた。
「今日のところはもう、お帰りいただきましょうか」
天木は静かにそう言った。
この場で落ち着いていられるなんて、異常なのか豪胆なのか判断つきかねる。
「今日のところは……だと? そんな悠長なこと言ってられるか」
セツは怒気を含んだ声色でそう言うと、男達が担いだ玲菜の手を左手で掴み取る。
「……離せよっ」
玲菜を抱えた男がセツを睨みつけた。もう一人の男がセツに掴みかかる。
胸元を掴みかかられてもセツは動じることは無い。
続いてもう一人の男が加勢したとき、葵の身体がドンと押し飛ばされ、畳に尻餅をついてしまった。
畳に倒れこみながらも、葵はその光景から目を離せない。
セツは加勢に加わった男を右手で突き飛ばし、掴みかかっている男の手首をその手で掴むと、簡単に捻りあげてしまった。
しかしその間に、玲菜を抱えた男はセツの手からもぎ取るようにして、彼女を家の奥へと運んで行く。
セツが廊下に身を乗り出したのを見た瞬間、葵の腕がぐいっと引かれた。
葵ははっとして上を見上げる。
黒い筒が、目の前に突き出されていた。
……天木が、銃を自分に向けているのだ。葵の頭の中は真っ白になった。
「セツ君、ちょっと待ってもらおうか」
天木は無理やり葵を立ち上がらせると、落ち着いた声でセツに呼びかけた。
再び辺りが静まり返った。
銃を突きつけられるなんて、初体験だ。
葵は意外と冷静に、この場に相応しくない感想を抱いてしまう。自分の中の常識を遥かに超えてしまったらしい。
「彼を押さえなさい」
天木の指示に、セツの両脇の男たちが彼の両腕を取って締め上げる。
セツはわずかばかり、眉をしかめた。
「今日はお帰り頂くのが良いかと思っていたが。セツ君は物分かりがよくないようだ。どちらにしろ、私の娘に手を出してくるのだったら、今のうちに消しておいた方がいいでしょう」
その言葉にドキッとした。
まさか本気ではないだろう、と自分の心に言い聞かせるがそんなことは何の意味も無い。
「……君も一緒がいいですか?」
天木が葵に尋ねる。葵は凍りついたまま、言葉を発することも出来ない。
「葵、こっちへ来い」
セツがそう言ったことで我に返り、葵はゆっくりと、セツの方へ足を踏み出した。
天木は葵を引き止めることもなく、逆に掴んでいた腕から手を離し、葵を解放した。葵がぎこちなくセツに歩み寄る。
セツの前に立つと、困惑した表情で彼を見上げた。
セツは両腕を男につかまれたまま、それでも葵に笑みを見せた。
「さて、山田さんと佐藤さんは離れてください」
両側の男たちは、その言葉でセツを解放した。そのままセツの傍を離れると、向こうの廊下の方へ消える。
銃口は葵に向けられたままで、セツもそれを考慮してか、何か動きを見せることはなかった。解放された両腕をさすると、すでに流血の止まった首元を手で確認する。
その後、葵の肩に腕を回し、天木から庇うように自らに引き寄せた。
葵はそんなセツの行動に驚きながらも、天木の方を振り返った。
天木は銃を構えたまま、何の表情も見せずに立っている。
どこか普通じゃなかった、彼。やはり、その正体を見せた。
「……では、二人仲良く、死んでください」
天木は信じられないほど躊躇なく、引き金を引いた。
銃声が二つ、三つと響き渡るのを、葵は何故か人事のように聞いた。
辺りが少し霞んで、視界がぐにゃりとひしゃげたかと思うと、暗転する。気分が悪い。最後に人のざわめきが聞こえ、葵の意識は深く落ちた。
ぼんやりと、目に映る天井を見つめていた。
視界は薄暗く、天井も暗い灰色をしていた。再び目を閉じる。
葵はまだはっきりしない意識と、夢の境目に彷徨っていた。
真っ黒な空間の中、首筋から赤い血を流しながら立つセツが、玲菜と並んでいる。玲菜は無表情にこちらを指差した。
「……」
何かを言っている。けれど、葵には聞き取れない。
それが、何か不吉なことだと、ぼんやりと自覚していた。
まるで死を宣告されているかのような。そして、人間を一人残らず殺してやるのだと、そう言っているように感じた。
葵は自分でも知らず知らず、涙を流す。
不条理なものに、命を奪われる不安感。
そして、セツは……
彼にとって私は、何なんだろう。単なる協力者なのだけれど。
偶然知り合い、偶然彼と親密になった。それは、自然な男女の関係ではなく、全てが非日常の中でのこと。
彼に特別な感情を抱いてはいけない。
……彼は人間ではないのだから。