3.
「……なんだ?」
私は一瞬顔を上げたが、しばし考え込んだあと、再び本に視線を落とした。
なにかの勧誘だったら面倒くさいし、放って置こう。私が居留守を決めるのは、いつものことだ。そんなことを思っていたら、今度はドアをドンドンと叩きながら、声をかけてきた。
「お〜い、ユウ! いるんだろ? 俺だよー、イッサ」
その時点で、私はようやく視線を上げた。
聞き覚えのある名前と声に、仕方なく重い腰を上げる。普通、突然訪ねてくるだろうか。連絡くらいはして欲しい。
私がドアを開ければ、人懐こい笑みを浮かべて、イッサが手を上げた。いつものように、こざっぱりとした、けれどもお洒落な髪型に服装の男。
井沢和洋。大学の同級生で、同じゼミに参加している。イサワの最初の二文字をとって、イッサというあだ名がついている。別に私がつけたわけじゃなく、皆がそう呼んでいたから、私も同じように呼んでいる。
イッサは数少ない私の友達で、愛想のない私に腹を立てずに仲良くしてくれる、奇特な人物だった。
「久しぶりじゃん、突然何よ」
「おお、悪い悪い。いや、特に用はないんだけど、散歩中にふと思いついてさ」
「散歩の途中かい。まあ、立ち話もなんだし、入りなよ」
仕方なく言えば、イッサは嬉しそうにドアをすり抜けて部屋の中に入った。
振り返った先に元からいた彼の姿を認めて、思わずドキッとしてしまう。ああ、いや、彼は私にしか見えないのだった。
案の定イッサは何の違和感もなかったようで、部屋の真ん中に突っ立って、ぐるりと見渡している。
「なんか、女の部屋って感じじゃねえな」
「あ? イッサ、部屋に来んの初めてだっけ?」
「前に行きたいって言ったけど機会がなかったからな」
ふうん、そうだったか。
私は台所の冷蔵庫を開いて、おや、と困惑した。そういえば、京都に行く前に冷蔵庫の中を整理してしまったから、何の飲み物もない。
唯一あるのは、ちょっと前に実家からくすねてきた、お中元の缶ビールくらいである。
「ごめん、イッサ、ビールしかないや」
「あ、マジで? や、気にしないで」
私はついでにその一本を手に取ると、早速空けた。見ると、飲みたくなるのが人の性質である。
「適当にすわんなよ」
言えば、イッサはすとんと畳に腰を下ろした。窓の方向に向いているから、必然的に彼と向かい合う形になった。彼はいつも、窓際に座っているから。
「お前、昼間っから飲むのかよ」
イッサが、私の手元を見て苦笑して言った。昼間だろうが夜だろうが、引きこもりが酒を飲むのに支障はない。
「まあね。イッサも飲む?」
「いや、俺はいいや」
「あっそ?」
まあ、それが普通の反応だろう。私はイッサの脇をすり抜けて、布団の上に腰を下ろした。万年床だけあって、薄っぺらい。
「イッサ、実家に帰んないの?」
「あ〜、金もったいねえもん。俺実家北海道だから。春に一度帰ったから、夏は帰らん。もっと、他のことに使いたいし」
「へえ?」
「お前は?」
「私はもう、帰ってきた。お盆の間に、ちょっとだけね」
言えば、イッサはそっかと、頷いた。私はちらりと、窓の方を見やる。こっくりは、興味深そうにイッサの顔を眺めていた。何か変なことをしなければいいけれど。
「休み中、どっか行かねえの? 引きこもりっぱなし?」
「うんにゃ。昨日は京都に行ってたよ。かなり後悔したけど。やっぱ、たまに思い立って出かけたりすると、ろくなことないね」
「はあ? なんかあったんか」
「……呪いにかかった」
冗談にしかならないだろう。そんなふうに思いつつふざけて言えば、やはりイッサは反応に困っているようだった。
「あと半年の命だって」
「……はあ? え、おま、まさか癌とか?」
私がタバコを吸っているのを見て、そんなことを言う。全く、どういう飛躍の仕方だろう。京都で呪いにかかって余命半年が、なんで癌になるのだ。
けれどこういうところが、イッサの面白いところなのだろう。
「いやいや、意味わからんから。病院に行ったとか一言も言ってないし。そう簡単に癌になっても困るから」
「だあから、お前タバコやめろってことだって。てか、意味分からんのはこっちだ。京都で何だって?」
「ふふん、別に。ただ観光してきただけだよ」
鼻で笑えば、イッサは益々困惑顔だった。私に取り憑いている当の本人は、知らん顔をしている。
「一人で?」
「当然」
「でも、なんでいきなり京都なんだよ」
「単なる思い付きだよ」
適当に返して、私はビールを煽った。どうも、喉が渇いていたらしい。冷えたビールがうまい。こんな暑い日はビールに限ると思う。
私も先ほどから、汗が流れるほどではないけれど、肌はかなりベタベタしていた。
見ればイッサもかなり暑そうで、外を歩いてきたせいか額に汗が浮かんでいる。
私は気を利かせて、団扇を彼に渡してやった。イッサはちょっと笑って、それを受け取ると早速パタパタと扇いだ。
「でもイッサこそ、この暑い中なんで散歩なのよ。そんな趣味あった?」
「……いや、そういうわけでもないけど」
イッサがはっきりしない返事をするから、私は首を捻って立ち上がった。もう一本ビールを持ってくるつもりだ。
「あ、ユウ、やっぱ俺も貰っていい?」
「いいよ。休みなんだし、昼間っから飲んでも誰も文句言わないよ」
笑って、イッサにビールを渡した。イッサも笑う。
私がイッサに出会ったのは、入学してすぐのことだ。入学式のあとの懇親会、隅で一人飲んでいたら、イッサが寄ってきた。そのときは、ああ、こう言う奴いるよな、と思った。飲み会で一人盛り上がっていない奴を見ると、不憫に思って話しかけてくる奴。あるいは、皆が盛り上がってないと、不服に思う奴。でも、本当の意味でそういう子を心配しているわけでもない。こいつも、そんな人間なのだと思った。
今よりも更にひねくれ者だった私は、そのとき、好意的に話しかけてきたイッサにかなりぶっきらぼうな対応をしたと思う。私が逆の立場だったら、さっさとその場から離れていただろうけど、この奇特な男はやたらと楽しそうに話しかけてきた。これからの大学生活が楽しみだとか、友達を沢山作りたいとか、どんなサークルに入るか、とか。
私はそんな話に、ウンとかスンとかしか答えなかったけど。あの時イッサは、何を考えていただろう。こんな私を、嫌に思わなかったのだろうか。
……それにしても今日は本当に暑い。おかげでビールが進む。ビールが進めば気分も良くなるし、タバコも美味くなる。そう考えると、暑いっていうのも悪くない。そしてこんなふうにイッサが訪ねてくるのも、悪くない。
「あ、そういやお前、ゼミの合宿参加するの?」
「……あ〜、いつだっけ?」
ゼミの合宿……そういえば、日程がメーリングリストで回ってきたっけ。出欠の〆切が近いような気もする。
「9月18日から」
「面倒くさいな。イッサは?」
「俺は参加するよ。楽しそうだし。ユウも参加しろよ。皆ユウに来て貰いたいんだよ」
「……またまた、こんな協調性ゼロな女、皆興味ないでしょうよ」
「いや、その逆だって。興味あるけどお前がそんなだから話しかけにくくてさ。機会があったら話してみたいって、皆言ってる」
「期待されても面白い話は出来ないよ」
私は肩をすくめて、イッサから顔を背けた。
集団行動は、私が最も苦手とする行為だった。冗談や、ふざけたことを言い合って、盛り上がるだけの時間が嫌いだ。それが有意義な時間だとは思えない。
けれど集団行動においては、それに加われなければ孤独な思いをするだけなのだ。果たして、どんな言葉を口にすれば皆が盛り上がるというのだろう。
正直、皆に笑ってもらえるような面白い話は、出来そうにない。
私はなんとなくつまらない気分になって、缶ビールを持ったまま腰を上げた。気分転換をしたい。私はオーディオに近付いて、電源を入れた。再生を押せば、ラテンの軽快な音楽が流れ始める。
「何、これ」
「ラテンミュージック。なかなかいいでしょ」
こういう呑気なノリは好きだ。こんな私でも、許容されるような気分になる。自由気ままに、のんびりと生きているような心地になるのだ。
「へえ、こういうの聞くんだ。……中南米とか、行きたい?」
「そうだね」
とは行ったものの、本当に行きたいと思っているのかどうかは怪しい。その証拠に、去年も今年も、行動に移そうとはしていないのだから。行き当たりばったりみたいな貧乏旅行をしてみたいとは思うけれど、腰が重いのは変わらない。
私はそれでも、十分満足した気分で音楽に耳を傾けた。
イッサも、なぜか分からないけど笑っている。
イッサは、私のペースを乱すことがない。だからこそ、私みたいな人間が、付き合っていけるのだろう。貴重な存在だ。
けれど、だからこそイッサに執着したくない。ある程度の距離を保っている限り、近付くこともなければ遠ざかることもないだろう。当たり障りのない話をして、当たり障りのない態度を取る。決して弱みも見せたくない。
イッサは、私のそんな卑怯な思惑に、気がついていないはずだ。
だからこそ、彼は笑って私と話をしてくれる。
「……じゃあ、俺もう、帰るわ」
缶を何本開けた頃だろうか。いつの間にか、辺りは薄暗くなっていた。
他愛もない話をしていたら、知らないうちに結構な時間が経っていたのだ。
私は酒が入って多少ふらつく身体を起こし、イッサを見送ろうと立ち上がる。歩き出そうとしたところで、シーツの皴に足をとられて、少したたらを踏んだ。そんな私に、慌ててイッサが手を差し出してくる。
イッサは本当に、気が利くなと思う。しかも、優しい。ただそれは、私だけにというわけではない。皆に公平に、そうなのだ。だからこそ、イッサの周りには人が絶えないのだと思う。
「サンキュー」
私の体を支えるために掴まれた腕から、イッサの手を引き離すと、私は先頭を切って歩き出した。玄関まではほんの数歩。後からイッサがついてきて、靴を履いた。
「んじゃ、またね」
「……おう、今日は突然ごめんな。今度なんか、差し入れる」
「あはは、いいって、気にしなくて。つーか、今度って何だよ。突然来んのはやめてよ?」
「ああ、そっか。わりい。次はちゃんと連絡してから来ます。イエ電に」
イッサは、笑って言う。そう、私は携帯を持ってないから。
「おう、イエ電にかけてよ。じゃ、気をつけてお帰り」
「ういっす、じゃな」
そうして、イッサは踵を返した。私もドアを閉め、鍵をかける。うん、と、伸びをした。