4.
振り返ると、すぐ後ろにこっくりが立っていた。
「うわ、何」
びっくりした。
私がイッサと話しているときは何の動きも見せなかったから、殆どその存在を忘れていた。
けれども、彼は何も喋らない。何か言いたげではあったが、彼は何も言わなかった。私は首を傾げつつ、とりあえず彼の脇を通って部屋内へ戻る。部屋の明かりをつけると、CDを消してテレビをつけた。ニュースをやっている。
『あのイッサという者、おぬしのなんだ』
「はあ? なんだ、って会話で察っしなよ。友達だよ」
先ほどまでずっと黙って傍観していたくせに、突然何を聞いているのだろう。
『友達と言う割には、素っ気ない対応だったな』
「……そう? 素っ気なかったかな。別に、私的には普通だけど」
説明しながら、空いた缶ビールを片付ける。
なんだか彼に私の内面を見透かされているようで、落ち着かない。そこで、話題を変えることにした。部屋に戻ってきた彼に、少し笑いながら問う。
「そういや、あんた、酒飲めんの? なんか食べたり出来るわけ?」
彼は神の使いであるし、私にとって実体のあるものだけど普通はそうじゃないだろう。彼は意外そうな顔をして、頷いた。
『酒は飲むが、いわゆる神酒というものしか口にはせん』
「神酒っていうと、神社とかで正月に配られたりする日本酒?」
『そうだ。人が神に供えた酒が、俺たちにも分けられる。まあ、俺はもう口にすることはあるまい』
彼は珍しくため息交じりにそう言うと、定位置に戻って腰を下ろした。その窓辺には、彼が憑坐(よりまし)としていた狐の焼き物がある。私が接着した痕が、痛々しいと言えなくも無い。
「なんで、口にすることはないのよ。日本酒なら、買ってくればあるけど?」
『そういうものではない。……神に供えられ、神に許された神酒だけを飲むことが出来るのだ。とはいえ、そう、今はそんなことも関係ない』
「……なんなのよ、話してよ」
『自分のことをぺらぺらと話す趣味はないわ。……おぬしもそうであろう。だが、今日は思わぬ収穫もあったが』
さっきから、回りくどい嫌な喋り方する奴だな。話すなら、はっきり話して欲しい。いちいち聞き返すのも面倒くさいじゃないか。そんなふうに思って、私が不機嫌そうに顔をしかめるのを見て、こっくりは厭味な笑みを浮かべた。
『おぬしの名だ』
「はあ?」
私はぽかんと口を空けて、彼をまじまじと見つめた。そうして、今までの経緯を頭の中に巡らせる。
そういえば、彼に自分の名前を名乗った覚えはなかった。逆に、私も彼の名前を知らない。考えてみれば、名前を知らないのは不便なのだけど。
「それが、収穫?」
『そうだ。名など、不用意に相手に知らせるものでもなかろう。名は個を縛り付けるものだからな』
彼の言っていることの、意味が分からなかった。どうも彼の価値観と私の価値観はかみ合わないらしい。それも当然のことだ。彼は人ではないのだし。
「まあ、いいけど。私はユウって名前だよ。あんたには、名があるわけ?」
『当然だろう。だが、教えん』
言われて、少しだけカチンときた。とはいえ、教えないと言っているものを知るすべもないだろう。
私はビールの残った缶を取って、煽った。もう、大分ぬるくなっている。
「ふん。……まあ、いいや。じゃあ、私が勝手に決めるから」
『……なんだと?』
ぴくりと、彼の眉が微動した。なんとなく、怒りを感じるのは私の思い過ごしだろうか。
『俺に名を与えるなぞ、百万年早いわ』
「私があんたをどう呼ぼうと勝手でしょ。名前がないと不便だし」
彼との会話がわずらわしくなって、私は布団の上に寝転がった。どんな名前にしようかと、考える。
彼は黙ったままだった。寝転んでしまったから、彼がどういう顔をしているのかは分からない。変な名前を宣言したら、無礼だと怒りだすのだろうか。
けれどもどんなことになろうとも、彼の言っていることが本当なら私はあと半年で死ぬのだ。逆に彼がただの幻なら、いつもと変わらない日々が過ぎていく。
それだけのことだ。私の生き方に変わりはない。
だって、私にとっては、生きることも死ぬことも価値がない。死のうとするほどの気力もないだけで、昔から、いつ死んでも後悔しないような生き方をしているつもりだ。
私は何のために生きているのだろう。何の価値があるのだろう。生きても死んでも、きっとこの世にはなんの影響も及ぼさない。私はそういう小さな存在で、大きな目標や生きがいがあるわけでもない。
そんな私に、ついに死ぬ機会が訪れたというわけだ。
けれどまさか、狐に憑かれてしまうとは。
それに狐というならば、狐の姿をしていればよかったのだ。なぜよりにもよって、人間の姿をしているのだろう。人との付き合いを遠ざけているというのに、何よりも近い場所に離すことの出来ない存在が出来てしまった。
そんな私の心中を知ってか知らずか、彼は突然こんなことを言った。
『イッサは、お前のことを思慕しているぞ』
しぼ。一瞬その漢字が思い浮かばず、意味も分からなかった。
やがて思慕という漢字に思い至り、その意味も理解する。理解してから、からかわれているのだと思って、憤慨した。
「あんたねえ、くだらないことを……」
抗議すべく身を起こし、言葉を投げかけたところで、突然自分の視界が流れた。
突然、彼に押し倒されたのだ。両肩を押さえつけられて、鈍い痛みが全身に走る。有無を言わせぬ力だった。
「な、に、すんの、いきなり……」
突然押し倒されたことが、信じられなかった。覆いかぶさる彼の顔を、何とか視線をそらさずに、見上げた。彼の顔には苛立ちのようなものが浮かんでいる。
『おぬしは、生ける屍か。ならば、良い、すぐにでも食らってわが身としよう。そなたに憑いていても何の利用価値もなさそうだ。お前の精気は淀んでいる』
正直、怖い、と初めて思った。
彼は、私の中の卑怯な部分や弱いところを、全て見透かしているのではないか。
私は間近にあるその顔を、凝視する。
吊り上った眼、その瞳は獣のものだけあって、瞳孔が縦に楕円だ。薄い唇から覗く歯牙は黄ばんでおり、八重歯が鋭くとがっている。肌は青白い。肩ほどまで伸びた白髪は、心なしか、逆立っているようにも見えた。
「神の使いが、横暴なことを」
恐怖交じりに悪態つけば、こっくりは凶暴な笑みを浮かべた。
『神は決して慈善の使徒ではないぞ。人が少しでも不遜なことをすれば、祟る。災害を起こす。病を呼ぶ。俺はそれを命じられてきた。更に言えば、俺はもう神の使いではない。神の元を離れ、忌まわしき妖怪に成り果てたのだ』
「妖怪」
一瞬、頭の中を、『ゲ、ゲ、ゲゲゲの〜』というメロディが流れたが、慌てて打ち消す。こんなときに暢気なことを連想している場合じゃない。
このまま私は、死んでしまうのだろうか。
死ぬときは、苦しいのだろうか。
……苦しいのは、嫌だ。
このまま肩の痛みが長引くのも、勘弁なのに。
「肩が、痛いんスけど」
痛みで、ため息が震える。そんなに強い力で押さえつけなくとも、逃げるつもりは毛頭ないのに。とはいえ、怒り心頭の彼にそんな願いを言ったところで、聞き入れてくれるわけもないだろう。
……それも、仕方がないか。
ところが意外にも、彼は押さえつける力を緩めた。
彼は何かに思いを巡らせているようで、しばし沈黙してしまった。
先ほどから、彼ははっきりしない。もう、私の方は思考を放棄してしまおうか。抵抗するのも面倒くさい。
……そういえば、こいつには体温があるんだな。
何も考えずにいたら、こんな状況で、そんなことに気がついた。肩を抑えている両手は意外にも暖かいし、この暑い中これだけ近付いて、余計暑い気もする。……それは気分的なものかもしれないけど。
「お〜い、どうすんの?」
沈黙に耐え切れなくなって、私は仕方なく、声をかけた。
「殺すんなら、早くして欲しいんですけど」
言ったら、心底不思議そうな顔をされた。私の言葉が、理解できないらしい。
『本当におぬしは、性根が歪みきっているな』
「余計なお世話だ」
思わず、笑ってしまった。これでは、どっちが人間でどっちが妖怪なんだかわからない。でも、彼は彼で、なぜ躊躇したのだろう。それとも最初から殺意はなく、私を試したのだろうか。
『ユウ』
なぜだか、名前を呼ばれて心臓が跳ね上がったような気分になった。意味もなく鼓動が早まって、私は息苦しくなる。なぜだろう、名前を呼ばれただけなのに。
『ユウ、俺の命に従え』
「……どんな」
何がなんだか分からない心地だった。頭の中がぐるぐる回っている感じだ。酒のせいではないだろう。酒は半ば抜けていた。それに、酒の酔いとはまた別の感覚だった。立ち眩みのようなものに、近い。
しかも全てを投げ打って、この狐に身を任せたいような気がするのだから、私はいよいよ狂ってしまったのだろうか。
『俺には用があると言っただろう。ある男に、会いに行くのだ』
「男? その男は、あんたの何なの?」
『なんでもない。会って、その男を殺す』
「殺す……、なんだか不穏な話だな」
唐突な話すぎて、それ以上の感想は出てこなかった。とにかく、どうやらこの命令には、拒否する余地がないように思えたので、私は頷いた。
「いいよ。その男に会いに行けばいいんでしょ。あんたに、従うよ」
『良し』
こっくりは笑うと、ようやく私を解放した。
私は恐る恐る、身を起こす。
なんだか、釈然としない。でもようやく、頭がはっきりしてきた。なんだかとんでもない約束をしてしまったような気もするけれど。
「あんたに従うのはいいけれど、やっぱり名前がないのは不便だよ。名前教えてよ」
『それは教えんと言っただろう。……仕方ない、とりあえずお前が決めても、良い』
名前をつける許可が出た。私はほっとして、けれどもしばし考え込んだ。
こういう時にセンスの有無が問われるのかもしれないが、あいにく私は持ち得なかったらしい。
結局、彼に相応しく納得してもらえるであろう名前は、思い浮かばなかった。
なので、先ほどの暴挙への恨みも込めて、私は彼の名前を提案した。
「じゃ、シロと呼ぼう。あんたは白狐でしょ。毛が白いし」
『……色を名とするのか。安易な発想だが、仕方あるまい』
シロはしぶしぶ了解した。
シロという名前が人間の間では、白い犬や猫に慣習的に付けられる名前だとは、知らなかったみたいだ。
私はやれやれ、とため息をつくと、布団に座りなおした。肩のあたりをさすりつつ、定位置に戻ったシロを眺める。シロのキャラも、いまいちよく分からない。先ほどは怖いとも思ったけど、平常は何をすることもなく、大人しいものだ。今は、つけたテレビの画面を凝視している。
「ねえ、これが何か分かってる?」
興味本位で尋ねてみた。シロは表情も変えずに、視線だけこちらに移して、答えた。
『知らぬ。人間世界のものは分からぬものばかりだからな。いちいち驚いてもいられん』
「……へえ、それはそれは、達観していらっしゃる」
ともかくも、シロとの約束は、守らなくちゃならないだろう。約束、というか、命令か。あれには拒否権があったのだろうか。今となっては分からないけれども。
それにしても、シロはなぜこんなことをするのだろう。憑く価値もないと言いながら、私に情けをかけたのだろうか。
彼の命令に従って彼の用を果たしたら、あるいは、恩赦のようなものを与えてくれるのかもしれない。寿命が一年くらいに延びるとか。
「さて、じゃあ、あんたが会いに行けって言う男のことを、ちょっと教えてよ。どこにいて、どんな男なのか、さ。そうじゃなきゃ、会いにもいけないでしょうよ」
『その男の名は、はまおかりょうすけという。歳はもう四十ほどになるだろう。以前は京都に住んでいたが、今はもうおらん』
「はまおかりょうすけ。漢字は?」
メモしておこうと思って、近くの紙とペンを取った。
『知らん』
「マジで。はまおかは……まあ、多分浜岡だろうな。りょうすけ……良介か? いや、これは色々組み合わせがありすぎて分からんわ。京都に住んでたって、どの辺よ。それも分からないわけ?」
『おそらく、あの社の近くだ』
「伏見稲荷大社?」
シロは頷く。
なら範囲はかなり狭まったような気がする。人捜しなんてしたことがないから、どれだけ大変なのかも分からないけど。
『男の所在について、お前が案じる必要はない。俺が居場所を知っているからな。お前は俺の言うとおりに動けばいい』
「ああ、なんだ。それを早く言ってよ。人捜しからしなくちゃならないのかと思った。なら、ホントに私はあんたの足になるだけだな」
『そういうことだ』
簡単なのだか面倒なのだか分からないけれど、趣旨は分かった。私はため息をつくと、疲労感を感じて、横になった。
もうこのまま寝てしまおう。明日からは、その、シロの言うとおり浜岡りょうすけに会いに行かなくてはならない。シロは殺すのだと言っていたから、浜岡には非常に申し訳ない話だけれども、私は悪くない。
……多分。
私は会いにいくだけだ。そう思いたい。殺せと言われたらどうしようか、とも思ったが今更遅い。相変わらず、後悔は先に立たない。
「シロ、私は寝るよ」
『好きにするがいい』
そう言われたので、私は手を伸ばし、部屋の明かりを消した。
「……そういえば、あんたは寝ないの」
とりあえず憑かれてから二晩経ったが、どちらも私の方が先に寝てしまって、そのあとシロが何をしているかは知らない。シロも寝ているのだろうか。
『俺は寝ない』
「そっか。んじゃまあ、おやすみ」
シロの返事はなかった。彼におやすみ、なんて言うのは変だっただろうか。
私は瞳を閉じて、寝る体制を整えた。
そこで、先ほどまですっかり失念していたことを、思い出した。シロに言われたこと。イッサが、私に、思慕している?
思慕ってつまりは、好きってことだろう。でも、まさか。シロも、突然なぜそんなことを言ったのだろうか。意味が分からなかった。
とはいえ、だからってどうすることも出来ない。イッサから直接聞いたわけでもない。そもそも、こんな無愛想な私を好きになる男がいたら、お目にかかってみたいものだ。
そんなことを考えながらも、やがて思慮は途切れがちになり、私は暗闇に吸い込まれるかのように深い眠りについた。