5.


 その日の目覚めは最悪だった。暑さのせいで寝苦しかったせいもあるけれど、さらに二日酔いのように頭がガンガンする。けれど、私があのくらいの酒量で二日酔いになるなんて、ありえなかった。
 身を起こして視線を彷徨わせれば、時計の針が昼前を示していた。あんなに早く寝たのに、こんなに遅くまで寝ていたのか。その上、まだ眠い。すぐにでも二度寝が出来るだろう。
 でも、いつまでも寝てもいられない。早速今日、シロの言うとおり浜岡に会いに行かなきゃならないのだから。
「あ〜、死ぬ」
 ふらつく頭を抑え、私は何とか起き上がった。
 シロは窓辺に腰掛け、張り付くようにして外の様子を眺めていた。正面のアパートとの間から、かろうじて向こうの通りが見えるはずだ。でも、通りを通るのは車と、たまに行きかう人がいるくらいで、面白い光景は何もないと思う。
 どちらにしても、こんな部屋の中では、シロが暇つぶし出来るようなものがあるとも思えない。
 驚いたことに、シロは、どうやらこの世の物質には触れられないらしい。いや、厳密に言うと、触れることは出来る。ただ、作用を及ぼすことが出来ない。
 つまり物を持つとか、動かすとか、そういうことが出来ないのだ。だから勝手にテレビをつけることも出来なければ、本を読むことも出来ない。唯一作用を及ぼせるのは、以前憑坐だった焼き物の狐と、現在取り憑いている私だけ。
 可哀想と言えなくもないけど、まあ、本当に可哀想なのは余命半年の私であって、シロではないだろう。
『やっと起きたか。……まあ、仕方あるまいが』
「仕方ないって?」
『俺が常に精気を奪い、更に昨日は命で縛ったからな』
「と、いうと? この頭痛と体のだるさはあんたのせいなわけ?」
『そういうことだな。……起きたなら、早く出るぞ』
 シロは、そう言って、妖艶に笑った。昨日よりも幾分彼の顔色が良くなっている気がする。私の精気を奪っているだけあって。
 一方で、私は死ぬのだから体調が悪いのは当たり前だろう。
 私は納得して、浴室に向かった。シャワーを浴びれば、少しぐらいは気分も良くなるだろう。
 シャワーから出て身支度を整えると、シロを連れ立って外に出た。部屋の中も大概暑かったが、外は日光のせいで更に暑い。私は部屋を出てすぐに、疲労感に包まれた。
「あ〜、で? どこへ行くんだって?」
『ここから南西の方角だ』
「南西の方角へ、どのくらいよ」
『そうさな。十五里ほどか』
「……里。里ってどのくらいだ?」
 里という単位が昔使われていたものだということは分かるが、それが今でいうどのくらいの距離なのか分からない。
 私はため息をつくと、一度部屋へ戻った。押入れの奥深くに仕舞い込んだ辞書を取り出して、調べる。一里を現代の距離に表せば、四キロメートル弱のようだ。
 私は仕方なくパソコンを起動した。
 地図を見るなら、ネットを使うのが早い。
「静岡か?」
 ここは東京の端、八王子である。八王子から南西へ十五里、およそ六十キロメートルとなると、御殿場あたりである。ついでに、路線も検索した。
「……ふう、じゃあ、早速行きますか」
 京都ほどではないものの、またしても、ちょっとした旅行になるようだ。と、立ち上がった瞬間、突然電話がなった。突然だったから、反射的に取ってしまった。いつもは居留守を使うのだけど。
「もしもし」
『あ、ユウ? 俺、イッサ』
「……ああ、何、どうした?」
『今日さ、親から大量に桃が送られて来たんだけど、お前食わない?』
「桃?」
 それはまた、唐突だな。とはいえ、のんきに桃なぞを食べている場合じゃない。
「ごめん、これから出かけるんだ」
『あ、マジで。そっか、残念だな。どのくらいで戻る?』
「ん〜、分からん。まあ、今日中には帰るんじゃないかな?」
 御殿場ならば、今から行ってとんぼ返りすれば、夜には戻れるだろう。
『そうか。明日は?』
「いいけど。明日昼ごろまた連絡してよ。じゃ、急いでるんで」
『おう、わりい。じゃ、また』
 イッサには悪いけど、早々に切らせてもらった。昨日シロに言われたことを意識しているわけでもないけど、なんだか気まずい。
 私はそんな気まずさを打ち払うように、なるべく明るい声でシロに声をかけた。
「よし、シロ、行くよ」
 自分で言いながら、なんだか犬を散歩に連れて行くみたいだと思った。私は思わず笑って、シロを見上げる。シロは奇妙な顔をして、頷いた。私が笑ったのを、不思議に思ったようだ。ともかく、私は御殿場へ向けて出発した。


 御殿場へは、特急も使って、約二時間半でたどり着いた。
 電車の中ではひたすら眠っていた。体調が悪いせいで、起きていたら乗り物酔いになってしまいそうだったからだ。
 目的の駅に着いたときは、シロに揺り起こされた。私はまだ眠っているような感覚の体を無理やり引きずるようにして、電車を降りる。
 駅を出てからは、シロが方角で指示するのに従って、浜岡の居場所を探し始めた。体調の方はいまいち芳しくなかったが、これ以上酷くなることはないようだ。
 ただ歩けば歩くほど、疲労感だけは確実に蓄積していく。
 三十分程度歩いた頃だろうか。私とシロはやがて、住宅地に行き着いた。
 駅前の商店街に比べると、かなり人気が少なくなったように感じる。道も入り組んでいてその幅は車が一台、ようやく通ることが出来る程度だった。しかも、周りの家並みは大分古びている。確実に新興住宅地ではない。
 そして住宅地に入ってから、私の疲労度は更に増すことになった。
 シロの示す方角に歩こうとしても、道筋や家がそれを阻む。方角に従うだけでは、ゴール出来そうになかった。
 そんなやっかいな迷路にめまいを感じて足元をふらつかせた私を、とっさにシロが支えてくれた。男性を感じさせるシロの腕に抱え込まれて、不覚にも鼓動が高まってしまう。けれども、そこから抜け出して気丈に振舞う気すら起こらないほど、私は疲れていた。
「ごめん、……ちょっと休ませて」
 私は額を流れる汗を、重く感じる腕でのろのろとぬぐった。もう一歩も歩きたくない。しかし、そんな私の要求は聞き入れて貰えないらしい。
 シロは黙ったまま私の肩をしっかりと抱え、強引に歩き出した。私は引きずられるままに、頼りない足取りで歩いていく。
 私はがっくりと項垂れているせいで、ふらふらとした自分の足が見える。それを見ていたら気分が悪くなったので、ぎゅっと目を閉じた。こんな姿を人に見られたら大変だろう。どう見ても、一人で歩いているような歩き方ではない。
 それにしても、こんなに疲れきっている私を無理矢理引きずってまで、一分一秒でも早く浜岡に会いたいというのか。
 その浜岡とシロとは、一体どんな関わりがあるのだろう。
 そんな疑問を漠然と思い浮かべていたら、突然体を突き放された。押されるままにバランスを崩して尻餅をつけば、そこは、地面ではなかった。
 顔を上げて辺りを見渡す。
 そこは、小さな公園だった。家一個分の敷地ほどの公園で、遊具は小さな滑り台と、鉄棒、砂場くらいしかない。
 私はそんな公園の脇にある、小さなベンチに座らされたのだった。
『ここで、少し休むといい』
「シロ」
 私は何だか感動して、シロの名前を呼んだ。
 ……とはいえ、その感動はすぐに間違いだ、と慌てて訂正する。私がこんなにフラフラなのはそもそも、シロのせいなのだから。
 けれど体が弱っているときに優しくされると、心が動かされてしまうことがあるらしい。
 シロは私の呼びかけに軽く頷くと、隣に腰掛けた。小さなベンチだったから、お互いの腕がわずかながら、触れ合っている。私は少しだけ躊躇したが、えい、という気持ちでシロの肩にもたれかかった。
 シロは、何も言わなかった。
 私はそのまま瞳を閉じて、心身ともに落ち着かせる。
 住宅地の中の小さな公園は、人気がまるでなく辺りもシンと静まり返っていた。
 ベンチは公園の植木の陰にあって、幾分涼しく感じられる。そして頭上の梢が、申し訳程度の風に揺らされ、かすかな音を立てていた。
 ただし、人間や動物が発するたぐいの音は一切聞こえない。まるでこの一帯には、私とシロしかいないような感覚に陥る。
 やがて疲労感も大分回復してきて、私は瞳を開けた。少しだけ頭をずらしてシロを見れば、シロは周りの景色をしみじみと眺めていた。
 その姿が、私の部屋で窓の外を見ていたときの様子と重なる。
「外の景色が、珍しいの?」
 私は視線を正面に戻して、シロに尋ねた。
『そうだな』
 シロは簡素に答える。しかし一拍おいた後すぐに言葉を続けた。
『俺は伏見の社に詰めていたからな。そこから出ることは、滅多になかった。神に仕えることに不満はなかったが、窮屈ではあったな』
「……へえ。お社勤めも大変だね」
 お役所勤めという言葉にかけて揶揄してそう言えば、シロが苦笑したのが気配で分かった。
『俺は畜生上がりではないから、それほど大変だという感覚もない』
「畜生上がり?」
『元々獣であった狐が永い歳を経て霊気を身につけ、神の眷属になるべく身を奉げた場合、畜生上がりと言われる。俺の祖先は畜生上がりだが、俺自身は生まれたときから神の元で育った』
 つまり、箱入り息子のようなものだったのか。ならば、神の使いから単なる妖怪に成り果ててしまった我が身を、悔やんでいるのかも知れない。
 それにしても、シロがこんなに自分のことを話すのは珍しい。
「ねえ、なんで神の元を離れることになったの? やっぱ、私のせい?」
 調子に乗って更に質問をぶつけたが、シロはそれには答えてくれなかった。その代わりに、こんなことを言ってくれる。
『……おぬしは、無関心を装っているのではなかったのか?』
「は? ……何を」
 何を突然言い出すんだと、思わずシロから身を遠ざけた。体を引いたまま、シロの顔を見つめる。シロは、私の方を向いて、嫌味な笑みを浮かべた。
『本当は、恐れているのであろう』
 言われて、硬直した。唐突ではあったが、シロは確信犯的にその言葉を選んでいるようだった。
 ……そんなことは、ない。
 私は何にも執着しない。だから、恐れるものなどないはずなのに。
 なぜシロに、そんなことが分かるのだろう。
「そ、そんなの、あんたには関係ないでしょ?」
 私が無理やり笑みを浮かべてそう反論したら、シロは鼻で笑って、続ける。
『そうやって、関係ないと相手を拒絶するのか。相手の気持ちも、自分の気持ちも分かろうとせず』
 すぐには反論出来なかった。
 でも、ここで反論しなければ、私の今までの生き方を全て否定されるように思えて、私は必死に言葉を探した。
「私は人の心なんて読めない。相手の気持ちが分からないのは、その人が私に何も話そうとしないからだ」
 シロが、私に名前すら教えてくれないように。
「……それに、私の気持ちは私が一番良く分かってるよ」
 私の主張にシロは、『そうかな』と言って嘲笑した……ように見えた。
 私は強張った笑みを引っ込めると、シロから視線をそらした。そして平生の心を取り戻すよう努め、それに成功する。
「あと少しで浜岡の家に着くね」
 私は横目でシロの顔を伺いながら、そう言った。
 シロの顔には、なんの表情も浮かんでいない。
『そうだな』
「……殺すって、どうやって殺すの?」
『心配しなくとも、おぬしに殺させようとは思っていない。……妖怪らしい殺し方をするだけだ』
 妖怪らしい殺し方。それがどのような殺し方なのかは、分からなかった。けれどそれは、人知を超えたやり方なのだろうと思う。
「直接手を下さないとはいえ、殺しの片棒を担ぐなんて嫌だな」
『おぬしには、他人がどうなろうが関係ないであろう?』
「……それは、そうなんだけど」
 私はそう言って、立ち上がった。どうせもう、引き返すことは出来ないのだ。



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