7.


 翌日、イッサと私は伏見稲荷大社にいた。参拝者がちらほら見える中、二人で黙々と絵馬を見定めている。
 私たちは京都まで来るのに、再び青春十八切符を使った。購入可能期間ギリギリだった。けれどお金のない学生同士、一人当たり往復で五千円というのは有難い。
「なあ、ユウ。ホントにあとで全部話してくれるんだろうな」
「うん、話すって。今はとりあえず、何も言わずに協力してよ」
 絵馬の数は、本当に数え切れないほど多い。正直自分でも、うんざりする。試験合格、家内安全。人々が祈願することは本当に多い。
 伏見稲荷大社独特の、白い狐の顔をした絵馬。中には、顔を書き足しているものもある。なかなか、愛嬌があって面白い。
 その中に、ようやく、見つけた。何枚か重ねられてかけられた絵馬の一番奥。少し色あせているから、かけられてからいくらか月日が経っているようだ。
「これだ。……浜岡亮輔、と」
 二人の名前が並んでいる。「二人末永く、仲良くいられますように」と書かれた文字の脇に、男の名前と女の名前。
 吉田恭子。
 そうと分かれば、早く行動しなければ。警察よりも、早く。
 私は絵馬から手を離すと、イッサを促して、伏見稲荷大社を後にした。
 結果からすれば、あの絵馬はもはや、何の効力もなかったということか。全てが虚しい。けれど、吉田恭子さん。あなたの恨みは、あの狐が、晴らしてくれた。
「あ、こんにちは。この間はどうも〜」
「おや、驚いた。あの日、すぐ帰るゆうてはったやろ?」
 民宿のおばあちゃんの京都弁に、なんだか親しみがわく。数日前と殆ど変わらない姿で、彼女は迎えてくれた。
「はい。一度帰って、また来ちゃいました。部屋あります?」
「ええ、そりゃ、あるけど。そっちのお兄ちゃんも一緒の部屋でええの?」
 言われて、苦笑した。イッサは、「いいの?」と口ぱくで言ってきたけど、もちろん良いわけない。
「あ、別々で」
 ……こら、イッサ、あからさまに残念そうな顔をするな。
「はあ、ほんなら、二部屋用意すればいいんやろか」
「それでお願いします。で、もう一つお願いがあるんですけど」
「なんやろ?」
「ハローページを貸してもらいたいんです」
「ああ、ええよ。部屋に持ってったるさかい、先に行っとき?」
「あ、どうも」
 私は鍵を二つ貰うと、片方をイッサに渡した。この民宿は素泊まり四千円である。
 部屋に落ち着いてしばらくすると、おばあちゃんがハローページを持ってきてくれた。
「有難うございます」
「じゃ、ごゆっくり」
 私はハローページを開くと、吉田恭子の名を探した。都合よく、あれば良いけれど。うう、やっぱりないか。
 だが、吉田姓はざっと二十件ほどある。私はそれを一つ一つ、当たってみることにした。


「ここが、姉の部屋です」
 予め電話で説明していたので、私たちは割合すんなりと吉田恭子の部屋に案内された。
 簡素で綺麗に整頓された部屋だったが、そこで生活をしているふうではなかった。言うなれば、引っ越してきた直後のような部屋だ。
「姉はアパートを借りてたんやけど、二ヶ月前に家賃がずっと払われてへんって連絡が来て。三ヶ月ほど滞納してたんです。もう、家族皆大騒ぎで手がかり探したんですけど、行方はわからず仕舞いで。とりあえず警察に届けて、荷物も実家に引き取ってきたんです」
 吉田恭子の妹という人は、それでも私より少し年上だろうか。
 恭子さんの知人です、と説明した私たちが意外に若かったせいか、多少不信な顔をしていた。
「……何か、分かりますか」
「あの、私はちょっとしたことで恭子さんと知り合いになったんですけど、恭子さんには、恋人がいたんですよね」
「え、それは、知りませんでした」
 妹さんは、少し驚いたような顔をしていた。
「もしかして、駆け落ちしたんやろか……」
 妹さんの呟きを余所に、私は部屋の中を隅々まで見渡した。部屋にはまだ、ダンボールも積まれている。
「あの、ダンボールの中も、見て良いですか?」
「ええまあ、この際ですから、どうぞ」
 姉が行方不明になって、半年。手がかりもなく、捜索にも疲弊し、半ば諦めたころに私たちが来た。だから、不信よりも期待の方がわずかに上まったのかも知れない。
 私はポケットから白い手袋を取り出すと、ダンボールを開けた。指紋を残したくないし。
 妹さんが席を外してからも、私は丹念に荷物を探した。何か、手がかりになるものは、ないだろうか。
 もちろん私が探しているのは、吉田恭子の行方を示すものではない。なぜなら、私はもう、彼女の行方を知っている。そして、彼女がもう帰らぬ人になっていることも知っている。
 私が探しているのは、名前の手がかり。それを知ればまた会えると言った、シロの本当の名前だ。
 彼が浜岡亮輔を殺す必要があったのは、吉田恭子に関わっていたからじゃないだろうか。だとしたら、彼女の身辺を調べれば何らかのヒントが得られるかも知れない。そう思ったのだ。
 それにしても、私にここまで行動力があるとはね。自分でも、驚いた。


 しばしして、私は漁っていたダンボールから顔を上げると、やれやれと立ち上がった。
 結局、めぼしいものは見つからない。
 そこでふと思い出して、私は自分のバッグから、部屋から持ってきていたシロの憑坐を取り出した。これは、吉田恭子が持っていたものではないのだろうか。
「お、それ、伏見人形だろ?」
 私がシロの狐を眺めていると、イッサが近寄ってきてそんなふうに言った。
「伏見人形?」
「大社行く途中の土産物屋に同じようなもん、売ってたよ。この辺で有名な焼き物なんじゃね?」
「へえ……」
 私はそれを、じっと見つめる。改めてじっくりシロの狐を見るが、本当に汚い。この、茶色いシミだけは何とかならないのだろうか。
「……なあ、これ、血みたいじゃねえ?」
「え? うそ」
 イッサの指摘に、私は驚いて思わずシロの狐を落としてしまった。ぼたっと、すぐ下にあったダンボールの中に落ちる。私は慌ててそれを拾い上げようとして、ふと、シロの狐の落ちたその下にある本に目をつけた。
 書店で使われている紙製のカバーがかけられている。私は表紙をめくって題名を確認した。
「あ、これ私も持ってる……」
 それはなんと、私が伏見稲荷大社に来るきっかけとなった小説と同じものだった。妙な因縁を感じて、その本を手に取る。
 題名は、『伏見狐の礼参り』。
 伏見稲荷大社に来て、恨みを持つ人間を殺して欲しいと願をかけた男が主人公だ。願は成就して、その相手は不可思議な死に方をしたが、お礼参りをしなかったその男も逆に狐に祟られ死んでしまうという話だ。狐に憑かれた恐怖で男が狂気に侵されていく過程が生々しい反面、伏見稲荷大社の光景の描写が妙に美しく、私に興味を持たせた。
 私は妙な感慨を覚えて、その本を開く。
 開いたとたん、パサっと、何かが落ちた。
「ん?」
 それは、白い封筒だった。封もしていなかったから、私は中身を取り出してみる。それは、二人の男女が写った写真だった。写真全体に対して人物の大きさは小さなものだったが、ギリギリ、顔も判別出来る。二人は、伏見稲荷大社の本殿の前で、並んでいた。朱色の建物と、二匹の狛狐。
 二人はコートにマフラーといういでたちだったから、これは冬だろう。写真に刻まれた日付を見れば、元旦を少し過ぎたくらいの頃だった。
「これが、吉田恭子と浜岡亮輔か」
 この写真は、二人が関わりを持っていたという重要な証拠になるだろう。
 私はそれを封筒に戻して、思案した。これは、あの妹さんに渡そう。これによって、吉田恭子の家族は絶望に陥るが、これを渡さなくともいずれは知ることになるんだ。
 と、それよりも。
「ねえ、このシミ、本当に血だと思う?」
「いやあ、わかんねえけどさ。そんな感じもするじゃん? なんか、不気味だよな」
「……そう、かな」
 不思議と、不気味という感じはしなかった。まあ、確かに人の血がついているのは気持ち悪いけど、今更という感じもしたし。
 脳裏に、先ほどの写真の二人がよぎる。
 絵馬にまで、仲良くいることを願った二人なのに、なぜこんな結果になってしまったのだろう。それは、私には計り知れないけど。でも、確かに吉田恭子は浜岡亮輔に殺されたのだ。それは、吉田恭子にしたら裏切り行為だったに違いない。
 シロの狐に付いた血が吉田恭子のものだったとしたら、殺されたときに、彼女はこれを持っていたのかも知れない。そして死を覚悟した今際に、お稲荷様に願をかけたんだ。その願は復讐の思いだったのか、それともやはり、一緒にいたいという思いだったのか。
 どっちにしても、シロは、それを果たした。


 私たちは、そうして、吉田恭子の家を後にした。
 帰り際、妹さんに写真の入った封筒を手渡した。彼女はその写真を見て何かを言いかけたけれど、私も詳しいことは良く判らないと言って、早々と立ち去った。
 彼女はすぐに分かっただろうか。写真に写った男の顔が、今報道されている、浜岡亮輔の顔であったことが。あの大きさではすぐには分からなかったかもしれない。
「それにしても、お前なんか、大変なことに関わってるみたいだな」
「……ん〜、そうかな。ホントは関わりたくはないんだけどさ。でもあの人にも偽名使ったし、大丈夫でしょ」
 私は手に持ったシロの狐を、見ながら言った。これを踏んだところから、全てが始まった。でも、あの本のことを考えると、もっとその前から始まっていたのだろうか。
「さて、イッサ。明日はまた、稲荷大社に行くよ」
「え〜、マジで」
「これが最後だからさ」
 結局、名前の手がかりは何も見つからなかった。けれど、もう諦めよう。シロが教えてくれなかったことも、名前以外は、大体は分かったし。
 私たちは宿へ帰る途中コンビニで弁当を買うと、私の部屋へイッサが来る形で、一緒にご飯を食べた。本当は京都らしいご飯を食べたかったのだけど、京都らしいご飯を外食するとなると、けっこう値がはってしまう。
 そして私は、イッサに今回の経緯について説明した。正直、信じてもらえるとは思っていない。
 そして全てを聞いた後のイッサの反応も、半信半疑という感じだった。
「はあ〜。それにしても、そんなことあるんだなあ」
 弁当を食べ終えたイッサは、しみじみと言って手に持った缶酎ハイをあおった。コンビニで弁当と一緒に買ってきたものだ。私も同じく、缶酎ハイを飲んでいる。
「イッサはそういうの、信じる? 神様とか、祟りとか、妖怪とか」
「いやあ、いたらいいなあ、とは思うけど」
「私は正直、全く信じていなかった」
 私はそう言って、笑う。現実にこの身に降りかかってもなお、信じられない。一体どういう原理なのだろう。
 いや、きっと、原理なんてないのだ。
 分かったことは、科学で説明できないことも、この世には起こりうるということ。
「俺は、ユウの話信じるよ」
 イッサは、はっきりとそう言った。その言葉を、本当に嬉しく感じる。その半面、なぜ、と思った。
 なぜ彼は私のために、ここまでしてくれるのだろう。なぜ私の言うことを、信じてくれるのだろうか。でも正直、その問いの答えを聞くのは怖かった。自分の臆病さ加減は、今回の件ではっきりと自覚している。これではいけないと思うのだけど、今はまだ、はっきりさせたくはなかった。
 だから、その疑問は口には出さずに、イッサの好意だけを受け取ることにした。
「ありがとう、イッサ。マジ、イッサには感謝してる。……さて、なんだか疲れたし、そろそろ休もうよ」
「……だな。じゃあ、自分の部屋に帰るわ。今日はお疲れ」
 イッサは、無邪気な笑みを浮かべると、ごみをまとめて部屋から出て行った。私は大きくため息をついて、敷いた布団の上にごろりと横になる。
 そのまま、瞳を閉じた。


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