10.
私が上原さんに続いて車から降りると、彼は車に鍵を掛けて、道の脇に沿って歩き出した。どこに行くのだろうと思いながら、彼の後を追う。
「あの、どうするんですか?」
「……いや、場所をね、選ぼうと思って。来るときに、赤い色が目の端に映ったから」
そう言って上原さんが歩く先の木々の陰に、確かにくすんだ朱色が見え始めた。
車道のガードレールが途切れ、わき道が奥に続いているのが見える。わき道の入り口から奥に向かって、汚れてくすんだ赤い旗が何本か立てられていた。旗には、「正一位稲荷大明神」と白抜き文字で描かれている。
「こんなところに、お稲荷さんがあるんですね」
「……稲荷は社の数が日本一だからね。とはいえ、もう人々に忘れ去られてしまって朽ち果ててる社も少なくない。……ここはどうかな?」
同じく汚れた赤い鳥居をくぐって、私たちは社の前に進んで行った。両腕で抱えられるほどの小さな社の前には、やはり小さな狐の像が向かい合って立っている。
「ああ、ここの狐は巻物と子狐の組み合わせだね」
狐の像を指差して、上原さんが教えてくれた。確かに、右の狐の足元には小さな狐がじゃれついている。そして左の狐の口には巻物が咥えられていた。上原さんは次に、社の方を伺い見る。
そして、何かに気がついたのか、社のすぐ傍に歩み寄った。
「……この供え物は新しいね。もしかしたら、今井さんが置いたのかも知れない」
そう言う上原さんの横に並んで見れば、小さな社の前の台には、白い陶器の器が三つ並んでいた。それぞれに、水と生米、塩が盛ってある。
「さて、彼らはどうすれば出てきてくれるのかな? やっぱり、今井さんがいないとどうしていいやら……分からないね」
上原さんは社の前で腕組みをして、辺りを見回した。
日は茂った木の葉に遮られ、ほとんど差してこない。薄暗く、ひんやりとしたその空間は、何だか不気味な感じもした。
「……ツキミ様たちを呼ぶんですか?」
親しみがあるのかないのか、イマイチ分からないおキツネ様たち。
彼らは私たちに協力してくれるんだろうか。
「うん、こっちにも多少情報はある。ここらで互いに協力した方がいいと思うからね」
そう言った上原さんの言葉に、私とは違う声が返答した。
『……では、聞かせてもらおうか』
突然聞こえたその声に、私は吃驚して辺りを見渡した。そして、社の影に、白い色を見つける。彼らは落ち葉の上を、足音も立てずに歩み、私たちの前に姿を見せた。
今回は男女二人揃っている。
「上原さん、社の右前」
上原さんが未だ視線を定められずにいたので、彼らの位置を教えてあげた。
上原さんは笑って、彼らときちんと向き合う。
「……お出まし、有難うございます」
『あの人間の娘が、行方不明なのであろう?』
「ご存知ならば話は早いですね。……ええと、貴方様のお名前を伺っても? どう呼びかければ宜しいのか、分からないもので」
上原さんが尋ねれば、当のおキツネ様は苦々しく笑った。
『フン、まさか人間に名乗らねばならぬとは。……まあ、伏見のように犬のような名を付けられても困るからな。……私は、ミズキだ』
「では、ミズキ様。今井さんの居場所は分かりますか?……人が一人、死んでいます。このタイミングで行方知れずというのは、彼女が心配だ」
上原さんの言葉に、ミズキ様は軽く頷く。そうして、ゆっくりと腕を組みながら、口を開いた。
『……そうさな。伏見と一緒にいるのであれば、すぐにでも見つかるだろう。それより、宝珠を盗んだ者は? 死んだ男がそうであったか』
「いえ、それが何とも言えません。宝珠は今警察に保管されています。が、死んだ山崎が宝珠を集めた張本人であるかどうかは……。僕が知っているのは、彼の知人が一人、行方不明になっているということですね。他殺であれば彼が容疑者になるところだ」
その話は、初めて聞いた。
私は驚いて上原さんを見る。上原さんは真剣な表情で、彼にとっては何も無い空間を、見据えていた。
「上原さん、その、容疑者になる人っていうのは?」
訊けば、上原さんはこちらを振り向いて、説明してくれた。私を見る表情はやや和らいでいて、ちょっとほっとした。
「篠沢明という、町工場に勤めていた男だよ。……油圧式の機械を扱っている会社でね、山崎はその会社からの受注で機械設計をやっていた」
「その山崎って言う人と、篠沢って言う人は、親しかったんですか?」
「親しかったどころか、最悪の関係だね」
上原さんはそう言って、顔をしかめた。けれどその後は、少し戸惑うかのように黙り込んで、ぱっとミズキ様たちの方に視線を戻してしまった。
その最悪の関係というのを、今ここで話すのを、躊躇したようだった。
「……けれども、篠沢という男は山崎が死ぬより二週間も前に行方不明になっています。この件に関しては、むしろ山崎が篠沢を殺したんじゃないかって疑われていたくらいですが。つまり、お互いがお互いに容疑者になる訳ですね。……さて、ここにどうやって宝珠が絡むのか、ですが」
言って、上原さんは一つ、控えめに深呼吸をした。
「考えてみると、篠沢が行方不明になった頃と、宝珠が無くなり始めた頃が、符合しているんです。とはいえ、それが何を意味しているかは、分かりません。今から二週間ほど前篠沢が行方不明になり、その頃から宝珠が盗まれ始めた。まあ、今のところ山崎がやった可能性が一番高い。そうして、山崎は盗んだ宝珠を羅漢山に置いたか、運んだかして……そして、死んだ」
思わず、鳥肌が立った。
一体、何が起こっているんだろう。何かがとっても、狂気染みているような気がした。
上原さんも、寒気でも感じているかのように、両手で両腕をさすっていた。
「なぜ山崎は宝珠を集めたのか、そして篠沢はどこに消えたのか。……まだ、情報はある。山崎が倒れて宝珠が散乱していた場所には、土を掘り起こしたような跡があったそうです。そしてそこから……篠沢の頭髪が発見された」
怖かった。
推理小説の、奇怪な殺人事件が起こった場面に、入り込んでしまったかのようだった。
土を掘り起こしたというのは、何かを埋めようとしたから、だろうか。
宝珠を、埋めようとした? それとも……
『では、篠沢が山崎を殺したのであろう』
ミズキ様が何ともないような口調でそう言ったので、私の思考は途切れてしまった。
「……いえ、山崎の死因は脳卒中です。つまり、病死であって他殺ではないんです」
『脳卒中とは?』
「頭の中の血管が切れたり詰まったりする病気です。外傷はない」
上原さんが説明すると、今度はミズキ様が何かを考え込むように、黙ってしまった。しばし沈黙が続いた後、私はハッとして上原さんの腕を引っ張る。
「それより、まずは今井さんの行方を……」
『それだけど、どうやらあの二人は、「物の怪道」を通ったようだね』
今まで黙っていたツキミ様が、口を開いた。
モノノケ道とは、何だろう?
「なんですか? その、物の怪道というのは」
上原さんの声色が少し明るくなったのは、気のせいだろうか?
『妖の通る道だ。伏見が開いたのだろう。入り口はこの社。出口は……通ってみないことには、分からぬ』
ツキミ様は、そう言って社に手を伸ばした。
すると不思議なことに、その先の空間がぐにゃりと歪み、ツキミ様の手が消えてしまう。
私が驚いて声を上げると、上原さんは目を凝らして社を眺めた後、首を傾げた。きっと上原さんには、何にも起こっていないように見えるんだろう。
少し、可哀想に思えてしまった。
「その道、僕たち人間にも通れるんですか?」
『我らが案内すれば。……行ってみるかい?』
ツキミ様に尋ねられて、私と上原さんは、顔を見合わせた。上原さんの期待に満ちた表情に、頷かざるを得ないような気持ちがする。
「……じゃあ、行きましょう」
私が言うと、ツキミ様はスッと私に、手を差し出した。私は一瞬だけ迷ったあと、その手を取る。柔らかくて暖かい手に、少し驚いた。
『男も、娘の手を取れ。我らの姿が見えぬ以上、娘の姿だけが頼りだ』
ミズキ様に言われて、上原さんは慌てて私の手を握った。
正直、鼓動が跳ね上がる。男の人と手をつなぐなんて、今までフォークダンス以外にない。
「……ごめんね」
戸惑う私の気持ちが伝わったのか、上原さんに謝られてしまった。
私は頭を振ってそれに応えようとしたけれど、その瞬間、ツキミ様にぐいっと手を引かれ適わなかった。
何が何やら分からないうちに、私たちは、真っ暗な世界へと誘われていった。