11.
ツキミ様に手を引かれた瞬間、思わずぎゅっと閉じた目を開けば、そこは真っ暗な空間だった。私の手の先に居るはずのツキミ様の姿さえ見えない。
更にぐいっと手を引かれ、私はつまずきかけそうになりながらもなんとか、歩き出した。
……一体、どんな空間なんだろう。人が入って良い場所なんだろうか。ここから、二度と出られなかったら、どうなってしまうんだろう。
不安で押しつぶされそうな心の中で、握った手の暖かさだけが、何とか小さな安心感を与えていた。
けれど、歩き出してすぐに、ツキミ様は歩を止めた。
更に不安になる私を他所に、空いた片手の方で、何かをごそごそとやっているようだ。
やがて少し先の方で、ポッと小さな火が灯った。
小さな火はやがてほんのりとした明るさに変わる。ツキミ様が、火を行灯に移したからだ。ツキミ様は、竹で編んだ裾拡がりの円柱に和紙を貼り取っ手を付けた、小さな行灯を持ちこちらを振り返った。行灯の明かりのおかげで、ツキミ様の姿がぼんやりと見える。
『心配することはない。はぐれなければ、無事出られよう』
ツキミ様は、私の心の中の不安を読み取ったように、そう言った。ほんの微かに、笑みを浮かべて。
「……はい」
初めて見た笑みだったと思う。私も笑いかえして、改めて回りを見渡した。
私たちの足元は、木の板で出来ていた。
両側に欄干のある、木製の廊下が目の前に続いている。両側には、まるで温泉街のような二階建ての、格子造りの建物が並んでいた。
「うわっ……凄い」
まるで、江戸時代に紛れ込んでしまったような風景だった。窓は全て閉じ、障子もしっかり閉められてはいたが、二階の手すりに手ぬぐいが掛けられていたりと、生活感が感じられる。
けれど、どこにも玄関らしいものは見られない。どうやら、町並みの裏側にいるようだった。
『こちらの世界では皆寝てる頃だ。……起こすと面倒なことになるから、静かに歩くよう』
ツキミ様に釘を刺された後、私たちは再び歩き出した。
両側の町屋は、確かにシンと静まりかえっていた。私たちの世界で言う、午前の三時か四時くらいなんだろうか。
たまに明かりの点いている部屋もあったけど、何かの影が見えるわけでもなかった。
正直、上原さんやツキミ様たちがいなければ、怖くて仕方がない。もし、この世界の住人たちが起きている時間帯に訪れたなら、一体どんな風景が広がるんだろう。
きっと、見たら腰を抜かしてしまうような、恐ろしい妖怪もいるはずだ。出来るなら、そんな妖怪には一生会いたくない。
……そういえば、上原さんにはこの光景は、どんなふうに見えているのだろう。
私はちらっとだけ振り返って彼の方を見ると、その表情は嬉々としていた。……どうやら、建物などの景色は、しっかりと見えているらしい。
私も少しだけ嬉しくなって、再び前を向き直した。
しばらく歩くと、やがて家が途切れ、道の両側には何も見えなくなった。ただただ、暗いだけの空間が続く。道は幾つか分岐していたが、ツキミ様は迷うことなく一本の道を進んでいった。
それなのに、いきなり道の途中でツキミ様が立ち止まった。
辺りを見回し、欄干の向こう側を覗き込むようにして、そしてこちらを振り返る。
『……伏見の匂いがここで途切れている。……どうやら、何か事故にでもあったようだ。欄干の向こう側に落ちたな』
ツキミ様は少しだけ眉根を寄せて、そう言った。
「え?……と、いうことは?」
『さて。永久に亜空間を彷徨うか……あるいは、うつつの世界に戻ったのだろう。狐ともあろうものが、ヘマをするわけも無いだろうしな』
「じゃあ、私たちも、ここから?」
『出てみようか。だが、出た先が崖であろうが沼であろうが、文句は言えぬぞ。出口ではないところから出れば、どこに繋がっているか分からぬものでね』
言われて、私と上原さんは思わず顔を見合わせた。どうやら、覚悟を決めなくちゃならないみたいだった。
「出てみましょう」
上原さんが、言う。
私を見て、にっこり笑った。
「もし危険な場所だったら、命がけで坂下さんだけは守るから。将来のある若者をここで失うわけにはいかないからね」
……将来があるからっていうだけで、命がけで守ってくれるんですか?
何となく訊きたくなったけど、止めた。
私たちは、欄干に足をかけるために一旦手を離すと、えいと暗闇の中に飛び込んだ。
そうして私たちは、物の怪道からうつつの世界へと戻ることになった。
結局、上原さんは命をかける必要なんて全くなかったらしい。
私はガサガサッと大きな音を立てて、その場に盛大に尻餅をつく。お尻の下には降り積もった枯葉が敷かれていた。
どうやら、山の中らしい。
まさか元居た実習林の中じゃあないよね、と思いつつ立ち上がり、辺りを見回した。日が木々の合間から差している。青々と茂る雑木の葉が、綺麗な黄緑色に光っていた。
けれど、辺りを見回してハッと気が付く。
周りからは、蝉の声が忙しく響いていた。けれど、生き物の気配はそれだけしか、ない。
……私は、一人ぼっちになっていた。
「うそ。……なんで?」
欄干を跨ぐときに離した手。それがいけなかったのだろうか。
私は慌てて更に遠くを見渡した。人影一つない。
「……上原さ〜ん!」
叫ぶ私の声が、山の中に消えていく。耳をそばだてても、返す声は全く無かった。
私はどちらへともなく歩き出したけれど、景色は一向に変わる気配もなかった。まるで、山の景色をしている迷宮に迷いこんだみたいだった。
上原さんも、ツキミ様も、ミズキ様もいない。
私一人で、一体何が出来るっていうんだろう。
私は思わず泣きそうになって、立ち止まった。
そこは少しだけ、開けた場所になっていた。木はまばらで、下草だけが茂っている。足に葉が当たり、ちくちくと痛い。
山独特の臭いが、辺りに漂っていた。土と植物、何かが、腐敗したような臭い……。
「……さて、君は誰かな?」